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[2023/04/23] いんどねしあ風土記(45):ジャカルタ大暴動25年、消さぬ惨劇の記憶 ~ジャカルタ首都特別州~(横山裕一)

〜『よりどりインドネシア』第140号(2023年4月23日発行)所収〜

2023年5月で、スハルト長期独裁政権崩壊の要因のひとつにもなったジャカルタ大暴動から四半世紀が経つ。民主化を求める学生による連日の大規模デモの一方で起きた大暴動では、主に華人系インドネシア住民が標的とされ、華人街コタが最も被害を受けた。死者は少なくとも1,000人といわれる。

経済危機、土着民族による華人に対する従来からの不満、社会不安を煽ろうとした一部政治家、国軍による扇動など当時から原因が取り沙汰されたが、解明されぬまま国民の世代交代が進んでいる。こうしたなか、再発防止のため、若い世代に記憶を受け継いでもらおうという動きも出ている。25年後のジャカルタの人々、華人街を垣間見る。


2023年、華人街コタ地区

ジャカルタ中心部の独立記念塔広場や大統領宮殿の北側から港湾部にかけて広がるコタと呼ばれる華人街。この華人街で最も栄えているグロドック地区は1998年5月の大暴動の際、最も被害が激しかった地域でもある。かつて賑わいを見せていた電気機器店街は暴徒により略奪、放火され、大通りを跨ぐ連絡通路の火災だけで約百人の命が奪われたともいわれている。

2023年4月現在のジャカルタ華人街コタのグロドック地区(西ジャカルタ)

暴動後、約十年間は焼け跡や破壊された建物跡が目立ったものの、経済回復に伴い大通りの連絡通路を含めほとんどが新しい建物に建て替えられていき、現在は大暴動の痕跡を探すのが困難なほどである。さらに現代ジャカルタの顔の一つでもある地下鉄の延伸工事も進み、華人街は新たな街に生まれ変わりつつある。

その新しい華人街の象徴でもあるのが、2022年6月に再建されたグロドック地区の中華風の大門である。大門が最初に建設されたのはオランダ植民地時代の1938年だが、第二次世界大戦で日本軍が侵攻した際に破壊され、それ以来の再建である。新しい大門の脇に配置された石碑文には次のように謳われている。

2022年6月に再建されたグロドック地区の大門

「この大門は、この地区が(様々な)ジャカルタ住民が集まり、交流した長い歴史ある地区だった証である。ここではチャイナタウンとその文化が育まれてジャカルタの多様性を彩り、ジャカルタがグローバル都市と呼ばれるに至っている。この地区がさらに発展してジャカルタ文化が栄える後押しともなり、この地区に訪れる人、働く人々にとっては美しく、意義ある印象を持ってもらえることを願う」

簡潔にまとめられた碑文は現代のコタ地区の見た目の復興を示し、将来への願望を表すものであるが、碑文に記述された「長い歴史」を紐解くと、そこには華人住民に対する迫害や偏見・差別意識の歴史が浮かび上がってくる。

オランダ植民地時代より華人は活発な商業活動を行ってきたことから、土着民族の住民からは渡来人が自分たちの土地で利益を奪っているというイメージを持たれてきた。インドネシア独立後、スカルノ初代大統領時代の1958年に、華人に対してインドネシアか中国か単一の国籍を選択する法律が施行される。インドネシアを選んだ華人は正式にインドネシア人となるが、1959年には各地方の華人系インドネシア人は州都でしか商業活動が許されない制限を受ける。

1965年に起きた共産党系将校によるクーデター事件といわれる9・30事件を契機に共産党支持者の一掃が進められるなか、スハルト第2代大統領は、華人に対する差別政策を強化していく。中国語や中華文化の禁止、中国名からインドネシア名への実質的な変更義務、また華人のみ身分証明証(KTP)以外に国籍証明書の取得が義務付けられた。

さらに華人は主に経済活動のみに生業が限られた。これを反映してか、1990年代後半には「総人口のわずか5%の華人がインドネシア経済を牛耳っている」と揶揄されるまでに至っている。実際には経済界を握る華人はごく一部で、ほとんどの華人は小規模な個人業主でしかなかった。こうした歪んだ社会風潮、認識のなか、1997年以降経済危機に陥ったインドネシアでは、景気悪化に苦しむ住民らの不満の矛先が華人に向けられていった。

そのひとつが、華人が標的にされた1998年の大暴動だった。華人を標的にした暴動はそれ以前も各地で単発的に起きていたが、首都ジャカルタをはじめ主要地方都市で連動して起きたのはこれが初めてだった。スハルト長期政権の弱体化が明白だっただけに、全国で起きた暴動の背景には政治家や国軍関係者による扇動があったと取り沙汰された所以だが、真相は解明されていない。結果的に暴徒化した住民らは華人街を襲撃した。

ジャカルタ大暴動では華人の商店や民家での略奪、放火に止まらず、殺害や集団レイプといった深刻な人権侵害事件にまで至っている。25年経った現在、華人街の景色は暴動以前に戻っても、未だに大暴動の惨劇が心に突き刺さったままでいる華人も多いという。

1998年、ジャカルタ大暴動

ジャカルタ大暴動がどのような状況だったか、当時大学生だったある華人女性から話を聞いた。1998年5月当時、ジャカルタでは長期独裁政権を続けたスハルト大統領の退陣、そして民主化を求める学生デモが連日繰り広げられ、規模は日に日に増していた時だった。当時インドネシア大学の学生だった彼女もデモに参加していた。5月12日、ジャカルタにある私立大学、トリサクティ大学でデモに参加しようとしていた学生4人が国軍兵士に射殺される事件が起きた。これを受けて、インドネシア大学の学生たちは大規模な抗議デモをジャカルタのサレンバ・キャンパスで実施することを決めた。

彼女ら学生はサレンバ・キャンパスへ行くため、インドネシア大学本学舎があるデポック(ジャカルタ南郊の都市)キャンパスに集まろうとしていた。この時、ジャカルタや周辺各地で住民暴動が発生した報が入る。

暴動を受けて大学もロックダウンするため、急ぎデポック・キャンパスに入る。暴徒に襲われないよう大学周辺の下宿にいた学生らも逃れてきた。

デポック・キャンパスに入ると彼女は自宅に一人でいる母親に電話をした。母親はパニックになっていたという。暴動が起きると華人が標的とされるためだった。幸いなことに隣人は華人ではないものの友好的な家族で、母親を匿ってくれていた。しかし母親は怯えていて、彼女にすぐに戻ってくるよう求めた。彼女は戸惑った。暴徒は大学キャンパスの周囲を取り囲んでいるとの情報も入っていたためだ。午後9時頃には大学周辺の状況が落ち着いたため、彼女はオートバイで自宅へ戻ることにした。念のため、華人ではない男子学生の友人に同行してもらうことにした。

自宅への道中、至る所で多くの家屋や商店が燃えているのが見えた。あちこちに「土着住民の所有」(Milik Pribumi)の文字が書かれていた。大勢の人が道路に集まり、通り過ぎる車一台一台をチェックしている。車がスピードを出せないよう、道路中央にタイヤが積み上げられ燃やされていた。彼女のバイクも何度も止められたが、連日デモを続けるインドネシア大学生を表す黄色いジャケットを着ていたことが幸いして通過を許された。こうして無事、彼女は自宅へ到着した。

しかし、怯え切った母親はすでに海外へ脱出しようと荷造りをしていた。隣人が今夜我々の地域に暴徒が来る可能性があると話す。彼女と母親は恐怖に駆られ、同行してくれた友人にも一晩一緒にいてくれるよう頼んだ。その夜、彼女たちは眠れなかったという。ソファに固まって座り、それぞれ箒や棒を手にしていた。今思えば、それだけで暴徒たちから身を守りきれないことは分かりきったことだったが、しっかりと握り続けていた。彼女にとっては明日が訪れることが信じられないほど長く感じる夜だったという。

翌朝、隣人が自宅周辺地域はすでに安全なようだと話すのを聞いて、ようやく安堵する。その後、別の場所にいた従姉妹の無事も確認できたが、祖母の経営する電気機器店は暴徒に略奪された上で放火されたという。やがてテレビニュースで、暴動に伴なって華人女性に対する集団レイプ事件が起きたことを知り、彼女はショックで座り込んでしまった。信じられない、誰がこんな事ができるのか?彼女はいまだに回答を見出せないという。そして華人女性の一人として、彼女は25年経った現在でも身の危険、恐怖心を常に感じ続けているという。

大暴動での集団レイプ事件を伝える『ホットライン1998』

短編映画『ホットライン』上映会の様子(南ジャカルタ)

2022年11月下旬、南ジャカルタの複合施設エム・ブロック・スペースのギャラリーで、ある短編映画の上映会が開かれた。作品名は『ホットライン1998』(H*TLINE 1998)で、1998年5月に起きたジャカルタ大暴動の際、華人女性が被害を受けた集団レイプ事件の事実を訴えている。被害者の数は82人から少なくとも400人に及ぶとされている。被害者の年齢も5歳から50歳に及ぶ。

映画の内容は、大暴動後、報道記者の有志が開設した電話による被害報告を受け付ける「ホットライン」に寄せられた、被害者やその家族らによる証言がまとめられている。電話対応したボランティアが伝える形式で構成され、映像は間接的で印象的なアニメーションが主体ではあるが、証言内容は衝撃的な事実が連ねられている。作品の冒頭にクレジットが入る。

「この作品は性暴力を描いた内容があるため、それにより不快感、あるいは過去における体験やトラウマを呼び起こす危険があります。賢明なる視聴者の皆さんにあらかじめご忠告申し上げます」

上映会の冒頭にも同様のアナウンスが入り、「気分が悪くなるようでしたら、遠慮なく退出してください。外で担当者が対応します」と来場者に声をかける。視聴者の心情に訴える一方での反動や被害者や近しい人々に対する慎重な配慮が窺われる。(以下、作品内容を引用した記述などがあるため、読者も同様にご注意ください)

映画では、被害者らの電話対応をしたボランティアの話で始まる。ボランティアも華人女性で、自らの生い立ちの紹介を通して、華人が過去から大暴動に至るまでどのような扱いを受けてきたかを話す。

「子どもの頃から『チナ』(華人に対する侮蔑が込められた呼称)と呼ばれ、『豚を食べる』とからかわれた。また共産主義者とも。私自身、共産主義者とは何なのか知らなかったのに」

彼女は自宅に戻り、いつも母親に「私は中国人なの?」と尋ねた。母親は「私たちはインドネシア人よ」と諭したという。こうした幼い頃からの違和感を持ち続けたなか、1998年の大暴動が起きた。

「明らかに華人系インドネシア人はスケープゴートにされたんです。」

大暴動後「ホットライン」が開設された。電話はかかってきたが、「どんな組織が行なっているのか」などの質問が相次いだり、明らかに電話口の向こうに人がいる気配がしたりするものの、無言のままでいることもあったという。被害者にとっては電話することがいかに勇気を要したか、誰だか分からぬ電話対応者に対して疑心暗鬼だったかが窺われる。また、電話対応するボランティアは助けを求められていると感じる一方で、当局などのスパイではないかとも疑わざるを得ない時もあったという。スハルト政権崩壊後とはいえ、当時の国軍など治安当局の体質は従来のままだったからである。

ある日、一人の男性から電話を受けた。男性は自宅の場所を伝え、ボランティアは訪問して直接話を伺うことにした。男性はボランティアを見て、(自分と同じ)華人であるか確認したという。男性の話によると、子どもを出産したばかりの妻が大暴動時、暴徒たちにレイプされたという。彼は怒りを露わにしながら、レイプ時に瓶も使用されたこと、男性も暴徒らに現場を見るよう強要されたことを語った。助けることも何もできなかった男性の悲しみがひしひしと伝わる。男性は怒りを込めて「正義はどこへ行ってしまったんだ」と自問したという。被害者である妻は顔を出さなかったが、ボランティアが退出する際、ようやく顔を覗かせた。中年の女性だったという。

ボランティアたちは被害情報を集めるため、病院へも足を運んだ。医師によると、子どもから大人まで多数の女性が陰部からの出血で運ばれたという。性暴力の際に箒やカーテンレールなどが使用されたためだ。出血多量で亡くなる女性も多かったという。

被害者の声を聞き続けたボランティア女性の一人は、非人道的な事件に空虚な気持ちに襲われたという。被害者は身体的な苦痛を和らげる助け以上に精神的なケアを要していたと強く感じたと話す。

「ホットライン」以外で当時、被害者支援をしていた人権活動家も被害者の精神的苦痛は大きかったと証言する。

「(被害者に対して)何も言えなかった。神に祈ると言っても慰めの言葉にもならない」

二度と事件を繰り返さないためにも、政府は大暴動の際に華人女性を標的にした集団レイプ事件があったことを明らかにする必要性、また実行者を法的に裁くべきだと人権活動家は主張している。

映画『ホットライン 1998』は最後にクレジットで、以下のように記して本編を終了している。

「現在に至るまで(初上映は2022年11月現在)、政府は1998年5月に集団レイプ事件があったことを否認し続けている。国内の人権団体から多くの証拠が提出されているにも関わらず、警察からの報告が不足しているためである」

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