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[2023/05/07] インドネシア政治短信(2):政党色と大統領選挙(松井和久)

〜『よりどりインドネシア』第141号(2023年5月7日発行)所収〜

インドネシア政治を見ていくうえで、大事な要素の一つは、政党と国民一般との距離がなかなか縮まらないことである。インドネシアの法律では、正副大統領候補を決めるのは政党であり、結果的に政党間の合従連衡によって決められる。どの政党も、自分の政党に属する政治家を候補者にしたい。そうすることで、政治の主導権を握りたいからである。

多くの場合、政党の党首が大統領候補となると想定されている。今回も、グリンドラ党のプラボウォ党首、民族覚醒党(PKB)のムハイミン党首、ゴルカル党のアイルランガ党首がそれぞれの政党の大統領候補となっている。

他方、大統領候補として名前の挙がるガンジャル中ジャワ州知事やアニス前ジャカルタ首都特別州知事は党首ではない。ガンジャルは闘争民主党(PDIP)所属の政治家だが、アニスはどの政党にも所属していない無所属である。

筆者は、大統領候補の政党色が出過ぎないことが当落のカギを握ると見ている。インドネシアにおける「多様性のなかの統一」とともに、ともすると華人=非華人、イスラーム=非イスラームといった二項対立が起こりやすい性質をインドネシアが持つことから、排他的ではなくてインクルーシブで包容性があり、様々な要素をまとめられる存在、誰からも受け入れられる存在が大統領として求められてくる。別の言い方をすれば、種族や宗教などの背景を問わず、インドネシア国民の誰に対しても同じく接することのできる人物が求められる。

過去に大統領直接選挙で選ばれたのは、スシロ・バンバン・ユドヨノ前大統領(2004~2014年)とジョコ・ウィドド(通称:ジョコウィ)現大統領(2014~2024年)の二人で、いずれも大統領職を二期務めている。ここで、彼らと対立候補の政党色について検討してみよう。


ユドヨノのケース

ユドヨノは、民主党(Partai Demokrat: PD)という新党を設立して2004年の大統領選挙に立候補した。ユドヨノを大統領へ担ぐ動きは、実は1999年頃からすでに始まっていた。1998年5月のスハルト政権崩壊後、それまで30年近くゴルカルと2党(開発統一党(PPP)、および闘争民主党(PDIP)の前身である旧民主党(PDI))に制限されていたのが、雨後の筍のように制限前の政党が衣を替えて復活した。しかし、ユドヨノ周辺はそれらと一線を画す新党で勝負したのである(彼はこのとき党首を務めていない)。

歴史的背景を持たない民主党には、既成政党ではない、民主化の新しい時代を担う期待が寄せられたが、それは、大統領選挙前のメガワティ政権でも政治・国防治安担当調整大臣を務め、それ以前から大臣職を歴任してきたユドヨノという新たなリーダーへの期待に基づくものであった。その意味で、ユドヨノは政党色を出せない状態で大統領選挙に向かった。

2004年大統領選挙の対立大統領候補は、ウィラント(ゴルカル党)、メガワティ(闘争民主党)、アミン・ライス(国民信託党(PAN))、ハムザ・ハズ(開発統一党)で、ウィラント以外はいずれも党首であった。副大統領候補とペアを組む5組が立候補し、ユドヨノ=カラ組とメガワティ=ハシム・ムザディ組の2組が決選投票に臨み、ユドヨノ=カラ組が勝利した。

2004年正副大統領選挙1回目の投票用紙。1番がウィラント=サラフディン・ワヒド組、2番がメガワティ=ハシム・ムザディ組、3番がアミン・ライス=シスウォノ・ユド・フソ度組、4番がユドヨノ=ユスフ・カラ組、5番がハムザ・ハズ=アグム・グムラール組。
(出所)http://kip.acehjayakab.go.id/index.php/page/32/peserta-pilpres

2009年大統領選挙では、ユドヨノ=ブディオノ組、メガワティ=プラボウォ組、ユスフ・カラ=ウィラント組の3組で争われた。結果は、ユドヨノ=ブディオノ組の圧勝だった。この段階では、ユドヨノを推す民主党が政権与党ではありながら、それ以外のイデオロギー的特徴を明確に示すことがなかった。スハルト時代から続くゴルカル党は別として、メガワティの党である闘争民主党、プラボウォの党であるグリンドラ党という印象はあまりにも強かった。

2009年正副大統領選挙の投票用紙。1番がメガワティ=プラボウォ組、 2番がユドヨノ=ブディオノ組、3番がユスフ・カラ=ウィラント組。
(出所)https://id.wikipedia.org/wiki/Pemilihan_umum_Presiden_Indonesia_2009

この頃から、民主党内部での汚職問題などが取り沙汰されるようになり、2004年のユドヨノ当選時のような新しい政党への期待感は急速にしぼみ、民主党は支持率を下げることとなった。その後の動きをみれば、民主党はユドヨノが大統領になるための政党だったと言わざるを得ない。

ジョコウィのケース

ジョコウィは、もともと中ジャワ州ソロの家具製造・貿易商であり、闘争民主党の一般党員ではあったが、政党活動に熱心というわけでは全くなかった。担がれてソロ市長に選ばれると、庶民目線の新たな発想で次々に政策を繰り出し、それが市民の目に留まるようになり、支持を得ていった。

その革新的な施策は全国的に注目されるようになり、庶民の心が分かる新しい地方首長像として脚光を浴びていく。そこにインドネシア政治の新たな希望を感じた者たちが推し、ジャカルタ首都特別州知事選挙に立候補することになり、当選してしまう。この頃までのジョコウィには、政治的に上昇しようという野心はあまりなかったのではないか。ジャカルタでも現場を歩き、現場から発想し、数々の新しい施策を進めていくことになる。

そしてとうとう、2014年の大統領選挙に立候補することになる。一般党員として所属する闘争民主党のメガワティ党首は、党の下僕(petugas partai)となることを求めたが、彼がそれに忠誠を示したかどうかは不明である。それより、初めての地方首長出身、政治家らしくない、庶民の心が分かる、現場主義といった、従来の政治エリートの最高峰とは全く異なる、国民に親近感を抱かせる候補となったのである。その意味で、ジョコウィの政党色は極めて薄かった。何よりも彼のそれまでの実績がイデオロギーや宗教イメージを超越していたのである。

2014年大統領選挙の対立候補は、グリンドラ党のプラボウォ党首だった。副大統領候補では、ジョコウィはユスフ・カラ前副大統領と組み、プラボウォは国民信託党のハッタ・ラジャサ党首と組んだ。ユニークなのは、ユスフ・カラはゴルカル党からの支持はなく、単独でジョコウィと組み、ゴルカル党はプラボウォを支持したのである。結果は、ジョコウィ=ユスフ・カラ組の辛勝だった。このときも、何が起こるか分からないが新しい希望を託せるジョコウィが当選し、政党色を鮮明にする候補者ペアは敗北したのである。

2014年正副大統領選挙の投票用紙。1番がプラボウォ=ハッタ・ラジャサ組、 2番がジョコウィ=ユスフ・カラ組。 (出所)https://indopolitika.com/penundaan-pengumuman-hasil-pemilu-dianggap-menggelikan-dan-menyesatkan/

次の2019年大統領選挙では、再びグリンドラ党のプラボウォ党首と戦い、ジョコウィは辛勝で再選された。ジョコウィは依然として闘争民主党を代表する形ではなく、様々な連立政党の上に立つという意味で、政党色は決して強くないまま現在に至っている。それは、ジョコウィの持つ庶民性や現場主義のイメージが今も維持されているためだが、大統領周辺・官邸の意向と闘争民主党の意向とが必ずしも一致しなくなっている状況も影響している。闘争民主党を含め、ジョコウィ人気を利用したい政党が結果的にジョコウィ自身の政党色を薄くさせる効果をもたらしたと言えるかもしれない。

2019年正副大統領選挙の投票用紙。1番がジョコウィ=マルフ・アミン組、2番がプラボウォ=サンディアガ・ウノ組。候補者の下に支持政党のシンボルマークが入った。
(出所)https://desasawahan.gunungkidulkab.go.id/first/artikel/1357-Specimen-Kartu-Suara-Pemilu-2019--DPR---Presiden-Wakil-Presiden-

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