20年ぶりにドラクエをプレイした話②
中学生以来20年ぶりにドラクエ(11)をやり込み、2ヵ月くらいかけてクリアできたので、振り返ろうと思い、記事を書き始めました。しかし、本編の感想を一切せずに2000字を超える記事になってしまったので、2つに分けました。笑
今回は、ようやく本編をプレイした話となります。まず最初に感動したのは効果音。階段を降りる音、セーブする音、寝るときの音など、一切変わっていなかったのです。僕が抜かしてしまった9、10を継続してプレイしていた人からしたら当たり前のことかもしれませんが、僕にとっては20年前が唐突に帰ってきたような感覚で、本当に感動しました。
20年前にドラクエ8を途中で止めてしまった要因のひとつである3Dに関しては、まったく気になりませんでした(20年経っているからこそ、逆に当たり前ですが)。2Dモードでもプレイできるという粋な計らいもありましたが、結局はこの美しいグラフィックを堪能しないともったいないと思い、ずっと3Dでプレイしていました。
あとびっくりしたのは、フィールドをモンスターが歩いていることです。ドラクエ8からこうでしたっけ?僕の記憶は7で止まっており、フィールドを歩いているとランダムに戦闘になるのが当たり前だったので、戦闘するかどうか選べるのは斬新でした。序盤は久しぶりの戦闘が楽しくてほとんどのモンスターと戦っていましたが、後半はある程度選びながら。
この、戦闘を選択できることも含めて、自由度が上がっているんだな、という印象も受けました。”スキルパネル”も初めてでしたし、武器を創れるのも初めて。この辺に面倒くささを感じてしまったり、「ある程度ゲーム側でコントロールしていいよ」と思ってしまうのは、自分が子どもの頃の楽しい想い出を良しとしたい古い頭なのかもしれません。
思えば、僕にとって当たり前だった転職システムもドラクエ6・7主体でやっていたからで、それまでドラクエをやってきた人にとっては新しく煩雑なものかもしれませんね。ゲームに限らず、古きを良しとして新しいモノをうがった目で見る思考は、いわゆる”老害”になる大きな要因だと思うので、気を付けたいです。
*この先はネタバレがたくさんあります。
「久しぶりにプレイしたドラクエがおもしろい」というより、「社会人になってから初めてプレイしたRPGがおもしろい」という感覚が正しいかもしれません。自分がコントロールして動く主人公と、壮大で謎が多いストーリーに引き込まれ、最初の1ヵ月はひたすら物語を進めることに夢中になっていました。ちょっと自制しないとやりすぎちゃうくらい(笑)。
そんなこんなで1ヵ月弱、41時間で魔王ウルノーガを倒すところまでたどり着きました。魔王を倒す直前に仲間とキャンプをする場面が強調されていたり、1回破れて仲間と散り散りになってしまったりするストーリーは、ドラクエ6を思い出さざるを得ませんでした。そこから各仲間を操作して集まっていくのは、さながらドラクエ4。明らかにホイミンを意識させているであろう”ホミリン”もグッとくるものがありました。
しかし、ここで明かされる真実にびっくり。先代勇者のローシュが、パーティーの魔法使いウラノスに裏切られ命を落とし、邪神(二ズゼルファ)を倒せなかったこと。ウラノスが魔王ウルノーガになったこと、セニカが時の番人となっていたこと。11勇者の物語が終わりに差し掛かっていると思いきや、その先代も含めた物語は終わりが見えないどころか、着地点がまったくわからなくなってしまったのです。
ここで主人公だけ時を戻り、魔王に破壊される前の世界から魔王、そして邪神二ズゼルファを倒して真のエンディング。ここまでで67時間かかり、最初の1ヵ月弱で41時間もプレイしたのに対して1ヵ月強で26時間と明らかに減速。この間のストーリーは多くなく、サイドストーリーの回収と中ボス倒し、そしてレベル上げに時間を費やしました。ただ、レベル40ちょっとくらいで最初のエンディングを迎えたことに対して、最終的に二ズゼルファを倒したときはレベル70。最初のエンディングの後に周辺にいるボス(魔竜ネドラ等)に行ったときにまったく歯が立たなくてちょっとやる気が落ちてしまったのでした。笑
それでも最後までプレイしたのは、ロトシリーズにどうつながっていくのかを見届けたかったから。2017年の発売から7年近い時が経ち、実際にプレイして2ヵ月以上経つのにネタバレが一切なかったのは、さすが自分という感じでした(ネタバレ大嫌い、興味ない情報に疎すぎる)。
*
最終的には、”闇”である二ズゼルファが敗れ、先代勇者ローシュよりも前から二ズゼルファと戦っていた(敗れていた)”光”である聖竜(=命の大樹=ロトゼタシアの創造主)と邂逅し、ドラクエ1の勇者と竜王の城に繋がって真エンディング。セニカの方は時を遡りローシュと出逢い、ドラクエ3の冒頭に繋がり幕引きとなります。この辺のセリフ回しから映像はすごくかっこよくて何度も見たくなります。
時を遡っているため11勇者とセニカ・ローシュという二つの流れができており、それらがどういう風に繋がっていくのか、という考察はいろいろと出ていると思いますが、間違いなく言えるのは、ドラクエ11はロトシリーズ(1~3)の更に前の話ということです。そして、作中で何度も繰り返されているのは「光があれば闇がある」ということ。
物語の序盤では勇者が追われる身となっており、”光である勇者が生まれてしまったから、闇もまた生まれてしまった”という逆説が世に広まっています。ここから、ドラゴンクエストモンスターズ+で語られる「破壊神を破壊した男」「それより更に巨大な力を持った者が現れたということ」を思い出しました。世界を救う存在であるはずの勇者が、その光の力の大きさ故に恐れられ、厄介者とされてしまうのです。
視点を変えてみると、”闇”からすれば”光”が敵となります。二ズゼルファの創りたかった闇の世界は、光によって阻止され、滅ぼされてしまったのです。そして、ウラノスがウルノーガとなってしまったように、聖竜がおそらく竜王に繋がっていくように、光が闇に支配されてしまうこともあります。ドラクエ4のピサロ、6のテリーなど、その表裏一体はドラゴンクエストが描いてきたひとつの大きなテーマでもあります。
「光があれば闇がある。闇が生まれれば光もまた生まれる」。ドラゴンクエスト原点のストーリーとして、光と闇を描いたドラクエ11。この作品単体でも、時間をいったりきたりや、予想できない壮大なストーリーで十分に楽しめましたが、子どもの頃から親しんだドラゴンクエストシリーズを改めて捉えなおすことができる素晴らしい作品でした。
まさに、「過ぎ去りし時を求めて」