すべての人間を「記号」から解放し、本当の意味での「人間」にする、そんなきっかけの映画になるかもしれない。映画「マグダラのマリア」。
長いこと「マグダラのマリア」は娼婦なんだと思っていた。娼婦が改心してイエス・キリストの弟子になったのが「マグダラのマリア」であると思っていた。
しかし、映画「マグダラのマリア」のエンドロールに出てくるが、
591年、「「マグダラのマリア」は娼婦であった」という『間違った解釈』が教皇グレゴリウス1世によってなされたことにより、その誤解は今日まで続いていたが、2016年、「「マグダラのマリア」は娼婦ではなく「『12使徒』に等しい存在であり、イエスの復活を最初に伝えた重要な存在である」としてヴァチカンが正式に認めたことにより、その誤解は解かれた・・・
ということで、つまり映画「マグダラのマリア」は、「「マグダラのマリア」は娼婦である」という1425年の長きに渡って流布され続けてきた誤解が解けた2016年にすぐさま製作が開始され、翌年2017年11月末に全米公開を目指して動き出した「マグダラのマリア」復権を描くための映画なのである・・・と、おおよそは言って良いだろうが、
実はこの映画、さらに深いものとなっている。
復権した「マグダラのマリア」をきちんと描くことはもちろんだが、それ以上に「イエス・キリストにまつわる物語」自体を「人間化する」という野望をもって作られた映画なのである。
1、「人間化」とは何か
「人間化」、それは映画を見続けてきた僕の観客としての実感による言葉なので、学術的にもっと良い言い方があるかもしれないが、「人間化」とは、2000年代の、とくに、「バットマン」や「007シリーズ」などの「ヒーロー物」映画に起こった現象だと思っている。
似たような論考として宇野常寛さんの書いた「リトル・ピープルの時代」があるのでぜひ一読していただきたい。とは言うものの、僕がいまから言う「人間化」という言葉が宇野さんの著書に書かれているわけでは無いうえに、僕がいまから言おうとしていることは宇野さんの説の劣化版なのかもしれないのであしからず。
まず「ヒーロー物」とは何かということなのだけれども
「世界征服」や「人類絶滅」を狙う「悪者」の目的達成を「ヒーロー」がいかに阻止するかということをハラハラドキドキ見せるジャンルの映画と定義したい。
そして
この「ヒーロー物」映画の在り方が、2000年代に変わってきたと、僕は思っているのだけれども
単純に言うと、
「ヒーロー物」にリアリティが求められるようになった
ということなんだけれど、
それは「ヒーロー」が所属する「地球平和を守る組織」が現実の国連や多国籍軍と似た現実的な組織として描かれるようになったり、「変身の仕方やヒーローの使う必殺技のような特殊能力」が、科学的に裏付けのある現実的設定の技や道具として描かれるようになったり・・・と言うのもあるのだけど
なによりも一番は「悪者」の描き方が大きく変わってきたということだと思っている。
つまり「世界征服」や「人類絶滅」という、よくよく考えたら「ちょっとなに言ってるんだかわかんないんだけど」と小首をかしげたくなるようなリアリティの無い目的を持った「悪者」が、もっと現実的な目的を持つ存在になった。というか、こっち側から見れば「悪者」だけど、向こう側から見たら「別の正義の代弁者」(=「向こう側のヒーロー」)としてみえる存在として描かれるようになったというか、そういうことが2000年代の「ヒーロー物」映画には起こっていると僕は思っていて。
この変化を、演じる俳優の気持ちになって考えると、昔の「悪者」を演じる俳優は「地球征服のようなよく分からない欲望」をもった「悪者という記号」を表現しなければならなかったものが、2000年代半ば以降の「人間化」された「悪者」を演じる俳優は、「個人的で現実的な動機」をもつ「ひとりの人間」として「悪者」を演じることが求められるようになった、というぐらいの大きな変化があったと思えるわけで。
このことについては「ヒーロー」に関しても同じで、「人間化」された以降の「ヒーロー物」作品において「ヒーロー」を演じる俳優は「ただひとりの人間」を演じることを求められるようになっている。昔のように「ヒーロー」という「記号」を演じることは求められないわけです。たまたま、こちら側から見れば「ヒーロー」に見えるだけであって、むしろ、自分の実行する正義が本当に正義なんだろうかと悩んだり、知らない誰かを救うよりも自分の愛する人だけを救えばいいんじゃないかと思い悩むとか、そういうような「ひとりの人間」として、俳優は「ヒーロー」を演じれば良くなったわけで、そういう変化が2000年代の最初に起こった。そしてその
「ヒーロー」も「悪者」も、ただただ「人間」として生きており、見方によって「ヒーロー」に見えたり「悪者」に見えたりするだけなのだ。
そのような状態として物語世界を描くようになったこと、それを「人間化」と言ってみたい、ということなのである。
2、「人間化」された作品群
たとえば
「007シリーズ」は1962年から作られている老舗シリーズだけれども、俳優ダニエル・クレイグが主人公ジェームズ・ボンドを演じるようになった2006年公開の映画「カジノ・ロワイヤル」からその「人間化」は顕著になった。
そこでは、もともとの「007シリーズ」にあった、主人公ジェームズ・ボンドのキザな女たらしという「記号」の部分はぐっと減り、現代における「殺しのナンバー」の意味やリアリティや、ジェームズ・ボンドの人間味や、ボンド・ガールズの人間味やリアリティ、敵役の人間味やリアリティ、登場人物たちの目的のリアリティ、それらすべてが増しており、それ以前の007シリーズを遙かに凌駕している・・・と僕は思っている。それはダニエル・クレイグ版の007シリーズすべてに通底している。ということは、007シリーズをそのようなものにしようというのは、製作者ブロッコリの明らかな意思なのである。
また
アメコミヒーローであった「バットマン」の実写化は1943年から行われているが、クリストファー・ノーランが監督になった2005年公開の映画「バットマン・ビギンズ」から、ヒーローであるバットマンの設定、数々の敵役たちの設定や世界などのリアリティが増し、映画の「人間化」が顕著になった。
「ヒーロー」であるバットマンは「自分の下す行為」が「正義」なのかどうなのか悩むし、たとえ「正義」だとしても「人道的にありな行為」なのかどうかを悩む。
さらに「人間化」された「悪者」であるジョーカーは、2019年トッド・フィリップス監督の映画「ジョーカー」では、ついに「ヒーロー」として描かれる。これも「人間化」が、「向こうにも正義があればこっちにも正義がある」という、現実に即した「正義の相対化」を要求するものであるから、「ヒーロー」が「悪者」になり、「悪者」が「ヒーロー」になる可能性は常にはらんでいるため、映画「ジョーカー」のような主客転倒が生じるのは、「人間化」の進んだ「ヒーロー物」においては必然的なことなのである。
2002年のサム・ライミ監督版「スパイダーマン」はもろもろの設定が現実味を増していたが、悪役がダサかった。
しかし、2007年のサム・ライミ監督版「スパイダーマン3」では、「悪者」のサンドマンが、中東系の移民で、息子思いの、アメリカという国家に阻害された苦しい存在として描かれていて、問題の解決も「ヒーロー」が単純に「悪者」を倒すのでは終わらない「人間化」に腐心した作品となっていた。
2003年のアン・リー監督版「ハルク」も「人間化」を試みようとしているが不十分であった。
2000年代の初期は、作り手も時代の風を感じて無意識に作品の「人間化」を進めようとしていたのだろうが、完全にそこが重要かは確信が持てなかったに違いない。「人間化」こそがいま「ヒーロー物」に求められていることだとみなが確信したのは、やはり、2008年のクリストファー・ノーラン監督作品「ダークナイト」を目にしてからだと思う。
この作品は「人間化」を徹底的に進めることによって「ヒーロー物」につきまとう「子供向けのジャンル」という枠をついに破壊し、老若男女、多くの人の心を捉えることに成功した。
同じ頃、日本においては佐藤嗣麻子監督作品「K20」がかなり良い線を行っていて「おお日本もここまでいけるようになったか」と映画館で見てワクワクしたが、最後に怪人二十面相が「世界征服」の欲望を語ったときに、そのリアリティの無さにがっくりきたのを覚えている。
ともあれ、1990年代まで、善人やら悪人やらを記号的に描いてきた「ヒーロー物」が、2000年代に入ってガラッと趣を変えるようになった。
3、「映画」の「人間化」が進んだ理由
以上、見てきた「ヒーロー物」の「人間化」であるが、それが進んだ理由については、次の3つのことが原因だろうと思っている。
1:1991年のソビエトの崩壊
2:2001年アメリカ同時多発テロ
3:インターネットを中心とした情報化の進展
Yahoo!の登場は1995年
Googleの登場は1998年
Facebookの登場は2004年
YouTubeの登場は2005年
Twitterの登場は2006年
ソビエト連邦が崩壊する前、いわゆる東西冷戦時代には、ソビエトは「悪の帝国」だった。「本当は」違うとしても、こちら側はそうやって決めつけていた。「ベールの向こうに隠れた国」はそう決めつけても良いほどに得体が知れなかった。そしてインターネットなども無かったので「ベールの向こう」の「本当」を知る方法もなかった。だから、「敵は悪の帝国」であるという「子供だましのフィクション」が機能していた。
しかし、それが1991年の「ソビエトの崩壊」と1995~2006年の「情報化の進展」によってできなくなった。
「横行するテロは「悪者」の仕業である」と「前の世界」のように「為政者たちは思わせたかった」ようだが、「情報化された世界」において「それは無理」だった。
もはや「向こうには向こうの正義がある」のを誰もが知っている。
インターネットで調べれば「こちらの「正義の名のもとの攻撃」で犠牲になった「血みどろの子供」を抱いて泣き叫ぶ母親の姿」を見ることができる。
僕たちこそが「悪者」ではないか? そういう考えが頭をよぎる。果たして「何が正義か」分からなくなった。昔のように「ヒーロー」を「ヒーロー」として、「悪者」を「悪者」として描けなくなった。一方的な「悪者」など、どこにも居ないことを世界のみんなが知ってしまった。
そんな状況の中で「民衆」に届く「表現」は、現実と同じく、こちらにも「正義」があるが、あちらにも「正義」があるという状態、そのことを「そのまま描くこと」しかなくなっていった。
それが「ヒーロー物」作品の「人間化」が進んだ理由だろう。
4、「ヒーロー物」で進んだ「人間化」はついに「聖書」の「人間化」に向かう
長々と「人間化」を説明したわけだけども、話は戻って映画「マグダラのマリア」である。
僕はこの映画を見て、映画の作り手は、ついに「聖書」の「人間化」を進めようとしているのだ!、と感じた。
あらためて「人間化」とはなにか。
それは「ヒーロー」とか「悪者」とか、世界を理解しやすくするために人間がやってしまう「単純化」「記号化」「役割化」「レッテル貼り」をやめ、ちゃんと目の前の人と向き合う、先入観をもたずに「人間としてみる」ということだった。
「男」はこうであるとか、「女」はこうであるとか、「マグダラのマリア」はこうであるとか、「ユダ」はこうであるとか、「イエス」はこうであるとか、「ペテロ」はこうであるとか、そういう先入観やレッテル、偏見を疑い、人間として、そこに立たせるということだ。
見ながら、この映画が「おそろしく挑戦的なこと」をしていることにドキドキした。
きっとこれまでのレッテル貼りを鵜呑みにしてきた人たちには、この映画を受け入れられないだろう。そのことがこの映画の中にも描かれている。
人間イエスに民衆たちは「救世主」とレッテルを貼る。民衆たちだけではない、親しい弟子たちでさえイエスは「救世主」であると決めつける。そして人間イエスが「救世主」たる振る舞いをしないことを非難する。師に偏見を押しつける弟子たち。みなが他人にレッテルを貼るのに夢中で、誰も自分のなすべきことをなそうとしない。だれも自らを問おうとしない。ただ、他人イエスが奇跡を起こすのを待っているだけなのだ。自らは変えようとせずに、変えてくれる便利な他人「救世主」を求める。その安易さ。しかし、その安易さに手を貸しているのは誰でもなく自分なのだ。そのことにいらだつイエス。それを見守り、慰め、手を重ねる真の理解者マグダラのマリア。
僕は聖書が大好きで、聖書の映画化はほとんど見ているが、この映画で描かれている「ユダの裏切り」が一番「腑に落ちた」。記号としてでは無くて「人間の感情」、「人間の行動として、「ああ、こういうことは起こったのだ」そう思えた。「マグダラのマリア」以外はみな師を見誤ったのだ。
「最後の晩餐」のあのシーンもどのような映画よりも本物だった。
「マグダラのマリア」はペテロら弟子たちに嫌われる。女だからかもしれないし、他の弟子たちよりも後から来た新入りだからかもしれないし、他人の意見に迎合しない強い意志を持っているからかもしれない。弟子たちは自分らよりも深くイエスを理解している存在が許せないのだ。女はみな性で男を裏切る。だからマグダラのマリアは娼婦なのだ。娼婦でなければならないのだ。俺以外の男と寝る女は「娼婦である」と言って回るぞ、そう脅さねば浮気をすると男どもは不安で仕方ないのだ。男どもは女を縛り付けておくために「自由な女」に「娼婦」というレッテルを貼る。そんな「女」に対する概念的否定は2016年にバチカンが認めてもなお現代まで続いている。
5、この映画は「世界」の「人間化」を進めるきっかけになるかもしれない
ひるがえって、僕らの生きる現実「世界」は「偏見」に満ちている。しかし「偏見」は「あいつは敵」で「こいつは味方」と世界をわかりやすくするのに役立っている。そして、わかりやすくすることは人を安心させる。隣の国の人はひどいやつだ。そう思えば楽だ。自分に非は無い。隣の国の人を追い出せば良い。しかし、本当だろうか。隣の国の人だけがひどいやつだというのは本当だろうか。
僕ら人間は「複雑な世界」を「複雑なまま」理解できるほど頭は良くない。だから、複雑な世界を楽に生きるため、あるいは見通しをよくするため、複雑な世界にレッテルを貼り、簡略化し、分析をしやすくする。より正しい判断をするためだ。
だが「簡略化すること」「レッテルを貼ること」は、すくなからず「偏見」なのだ。だから、世界を理解しやすく「簡略化」し「レッテルを貼る」ことは「何かを簡単にする」一方で確実に「別の何かを犠牲にしている」。
そのことで犠牲になっている人が居る。その人たちは多数少数で言えば、数としては少数であるだろう。そうか少数か、少数ならば我慢してもらおう。え?ほんとう?それでいいのか?
それでいいに決まっている。だって、いちいち少数の人の意見を尊重していたら、右見て「なるほどそうだね」左見て「ああ、キミの言うこともそうだな」、南見て「あ、それもそうだね」、北みて「なるほど、そうとも言えるねえ」、と何にも決めることができなくなる。
「多数決」は「少数派を犠牲にする」が、「少数派の意見尊重」は「決定を困難にする」。
多数決的な決定をしながら、少数派の犠牲を最小限に・・・できればゼロにする、そんなことができないか、悩む。明らかでない正義の中で本当に何をすれば良いか悩む。悩みながら、あるいは失敗しながら、少しずつマシな状態を作っていく。
そうするしかないのだが、人間は、問題が表面化しない限り変えない。人間は、さしせまった問題にしか興味がない。
結果として、無意識の差別や、否定は、見過ごされ、放置される。あえて、ほじくり返す必要がないと考えられてしまう。
岡村隆史が気の優しい、悪意のない人間だなんてみんな知っている。その彼が「貧困で風俗で働かざるを得なくなる女の人が増えることは、風俗利用者の男たちにとっては嬉しいことだ」ということを発言してしまう。みんな叩くが、同じレベルのことは、無名人たちはみんな口にしている。そういう最低なことを口にする男が「おまえオモロイやっちゃなあ」と男社会で評価を得たりしている。日本はそんな国だ。岡村が叩かれたのは有名人だからだ。だから叩くなと言っているのでは無い。叩くべきだし、叩かれたことによって岡村は芸能界を去るのではなく、居残りながらその偏見を脱出する道筋を大衆に見せるべきだ。それが有名人岡村の責任だ。問題は、岡村と同じようなこと、岡村以上のヒドいことを言っていながら「問題のない私たち」と思っている人たちの存在だ。岡村がラジオで思わず発言してしまったように、真に問題ある偏見を持つ人ほど本人は「自分は偏見がない」と思っている。それがあぶり出された岡村は幸いである。修正をすれば良いのだから。問題は、叩かれない岡村、差別意識を持っていながら放置されている人たち(つまり僕らのこと)である。
映画「マグダラのマリア」は、そのような偏見を放置し、世界を記号化して楽をしている人たちに、記号化をやめさせ、すべての人間を「人間化」する、そんなきっかけの映画になるかもしれない。
6、用意された悲劇
ルーニー・マーラーがマグダラのマリアを演じ、ホアキン・フェニックスがイエス・キリストを演じる。第一級の彼らが演じ、彼らの演技が支えるこの「人間化」された聖書の物語は、世界最上級の俳優たちが演じる人間ドラマとして、「マグダラのマリアの復権」を描いた初めての映画として、全世界の人々に見られる「はず」であった。
しかし、2017年11月24日の映画公開を前にした10月5日、ニューヨークタイムスは、プロデューサーのハーベイ・ワインスタインが女優ら60人に性的暴行を振るっていたという記事を掲載した。ワインスタイン・カンパニーはこの映画「マグダラのマリア」の配給会社であった。
とたんに配給は困難になった。
別会社の配給となり、なんとかアメリカで公開されたのは1年半後の2019年4月だった。しかし、味噌をつけてしまった映画は公開されたものの地味に終わり、その画期的な内容も評価されることなく終わった。
ワインスタインの行為を非難する人にこそ見て欲しい映画なのに、この映画の配給にワインスタインが関わっているということから、そういう人たちがこの映画をこぞって見なくなってしまった。
それは、この映画が広まることに反対する人たちにとって好都合だったのかもしれない。
マグダラのマリアがどの弟子よりもイエスを理解していたこと、イエスが弟子たちの不理解にいらだっていたこと、ユダは悪者ではなくて純粋な青年であったこと、そんなことを描く映画を配給して欲しくなかった人たちは確実にいる。偏見を破壊したくない人たち、世界を「人間化」したくない人たち、常に優位に立ち続け、女性を、少数派を、差別し続ける人たち。この映画を広めて欲しくないという人たち。現実は、彼らの思惑通りの結果になってしまった。
そして、日本においては、この映画「マグダラのマリア」は劇場公開されることはなかった。
7、映画「マグダラのマリア」の見て欲しいところ
ガリラヤの風景、マグダラの風景、が素晴らしい。
マグダラのマリアを演じるルーニー・マーラーが素晴らしい。
イエス・キリストを演じるホアキン・フェニックスが素晴らしい。
ユダを演じるタハール・ラヒムが素晴らしい。
ペテロを演じるキウェテル・イジョフォーが素晴らしい。
マリアの父親を演じるチェッキー・カリョが素晴らしい。
マリアの兄ダニエルを演じるドゥニ・メノーシェが素晴らしい。
マリアの友人を演じるアリアン・ラヘドが素晴らしい。
カナの女を演じたルブナ・アズバルが素晴らしい。
マリアとペテロが癒やしに行く村の死にかけの人々が非常に素晴らしい。
2018年に亡くなったヨハン・ヨハンソンの書いた音楽が素晴らしい。
これが僕の大好きな彼の最後のスコアだった。
映画は見なくても良いから音楽だけでも聴いて下さい。
きっと映画を見たくなるはずです。
あとこの映画を見るためには聖書の基礎的な知識は持っていたほうがいいかもしれない。メル・ギブソン監督「パッション」を見ることをお勧めします。
けど、メル・ギブソン監督「パッション」は、なかなか手に入れることが難しいかもしれないので、次の作品は駄作ですけど、情報は網羅されている「サン・オブ・ゴット」を見るのは悪くないかもしれません。
8、一条のひかり(余談)
この文章を書いたその日、ルーニー・マーラーが、フォアキン・フェニックスの子供を妊娠したことが報じられた。
マグダラのマリアとイエスの間に子供が産まれた。なんてあり得ないことかもしれないし、キリスト教徒については不謹慎な冗談なのかもしれないけれど、この映画を見た人、マグダラのマリアとイエス・キリストの間で交わされた視線を覚えている人には冗談でも無く、あのふたりに子供が産まれる未来を祝福したいと思うに違いない。
ふたりの子が大人になる頃には、もう少し世界は人間化されており、人々が人々を記号でなく、その人そのままで見るような、先入観や偏見の無い世界になっていると良いなと、そう思っている。