私が掲げた大きな2つの課題は 1つ、業態・業種関係無しに負債算店舗の撤退 2つ、経営上の「内部改革」 この2つの大きな柱に 「芯を変えずとも、時代の変化に順応し、変化を恐れず、前へ前へ歩み続けていく」 これをモットーに淘汰されず、生き残り、変化しつつ歩み続けていく。 「勇気」と「覚悟」を胸に臨んだ。 改革を始めて間もない時だった。 私は1人の人物と出逢った。 後にこの人物が私に多大な影響を及ぼすことになった。 今までワンマンで突っ走って来た私にその方は容赦なく、忌
このころ、私は突然「不安」になり、恐怖さえ感じることがたびたびあった。 上手くは説明出来ないのだが、それは恐怖とも期待ともつかない、何か漠然として気味の悪い状態や、よくないことが起こるのではないかという感覚的な不安であった。 26店舗目の開店も終え、一息した。 私はかねてから、時折強く感じていた「不安」の原因を本気でしっかりと解明し始めることにした。 1週間程度デスクに座りっぱなしの日々を過ごした。 私は我社の店舗各々の会社の全ての資料の見直しをした。 そしてもう1つ
出店予定が遅れていた2店舗もかなり予定より遅れてしまったが、ようやくオープンの日程が決まるまでに至った。 この2店舗に関しては、場所(立地)の難しさが遅れの1番の原因になり、それが大きくひびいてしまった。 出店計画より、開店予定日が遅れれば遅れる程、種々の諸経費、その他の諸費用が嵩んでいくことになり、多額の対価を支払う状態に陥ることにもなった。 1店舗は立地(場所)への執着とこだわりもう1店舗は業態とシステムへの自信... 2店舗共に自分的にはかなり想い入れが強く入った
半年あまりで4店舗の出店と、それも大半が異業種で専門外であった。 私は完全に盲目的な行動計画で進んでいた。 そして約1年余り、温めていた出店予定の2つの店舗の出店もいよいよ近づいてきた。 またこれらも間髪入れづに進めていった。 1つは、駅近の美容室出店であった。 ここは、スタッフの誘致に非常に苦労した。 しかし、この地区の流れが駅前に向かって行くことを私は確信していた為に計画していた店舗であった。✂︎ そしてもう1つはこれも初の進出部門であったのだが、それは、パーソナル
オープン後、順調に新店舗は稼働していった。 そんな折、二人の代表の人脈より、ヘアメイクの店舗1店舗とそして、モールに「ステーキ屋」を1店舗経営する運びとなった。🍽✂︎ また、その数ヶ月後、今度は旗艦店を出店した同じビルの上でもう1店舗飲食店も経営することとなった。 つまり、約半年ほどで4店舗となった。 別に全てが順調にいっていたからではなく、どちらかといえば、3店舗共、「タイミング」が良かった。 タイミングが合ったので、勝負した。 とはいえ、一騎に異業種への参入はリス
私達は、数ヶ月間、ミーティングを重ね、構想を練った。 店舗のスタッフ達も徐々に決まっていった。 出店場所は、メイン通りのど真ん中のビルの3F、ワンフロアに決まった。 私達の打ち合わせも、より、熱を帯び、拍車がかかり、段々と店舗のメインコンセプトも固まっていった。 なんせ、繁華街のど真ん中であるので、内装工事が非常に大変だった。 資材の搬入ひとつにしても、いくつかの許可申請が必要となり、また、工事の時間帯の制限もあり、繁華街の中心地とは大変な場所なんだと思い、感じた。
彼の人となりが段々と分かってきた頃、彼をメインにこの地での旗艦店を出店することにした。 その頃、彼の紹介でもう一人の個人経営者とも出逢った。 この彼もまた、精悍な見た目の感じで一味違う魅力の持ち主であった。 ずば抜けた特徴あるパフォーマンス力を持っている 男性であった。 私はこの二人をメインに店舗の構成、スタッフ選定の立案計画に入った。 飲食業ではあるが、今回は繁華街での、しかも夜メインの店舗となる。 必然的にこの街の名実と共に協力な人材が必須となり、この二人は最適
私は、1人、日本へ戻った。 ハワイへの「挑戦」とほぼ同時期にもう1つの地域への「挑戦」を試みていた。 それは、杜の都「仙台」進出であった。 前もって仙台の駅近にマンションを購入し、そこを活動拠点としようと考え計画していた。🏢 まずは、種々、様々な人と会った。 情報と人脈が欲しかった。 そんな動きをしながら3ヶ月程過ぎた頃のことであった。 その時出逢った人の紹介である男性の経営者に会った。 彼は、私より10歳程若く、骨太なしっかりした体つきで、精悍な顔立ちで、力強さを感じ
オープンした現場では、彼らは、ローカルのスタッフを何とか手ぶり身振りを交えながら指導、指示して業務をこなしていた。🤷🙋♂️ 私は、私の仕事である各種業者間とのやり取りと契約締結、銀行での手続き等をこなしていった。🤝 他の国で仕事をするということを。 正直、甘く考えていたと実感した。😓 言葉の壁、文化の違い、考え方すら真逆の発想が多く、飲食業なので、当然保健局が絡んでくるわけで。🍽 その保健局の指示される事か決まり事など全てが日本とは違い、捉え方すら違い、つまり、根本
🌴無事、ハワイに降り立った私達は先ず、アパートへと向かった。 先日、私が1人で来た際に、2部屋を契約していたのであった。 アラモアナショッピングセンターより、現地スタッフの2名はその後、近くのウォルマートへ買い出しへと行った。🚶🏽🚶♂️🚶🏻 生活必需品から食品まで、何から何までそろっている大型スーパーである。 その日の夜は3人でゆっくりと食事を楽しみ解散した。🍽🍻 彼らは新しい住み家へ、私は1人ホテルへ。 翌朝より、店舗の開店準備へと入った。 何をするにも何かを買
ハワイ出店への資金もようやく目処が立ち、いよいよ、最終段階への準備へと進めていった。 まず、先発隊として、ハワイに派遣勤務してもらうスタッフ2名。👬 2名とも男性であり、未婚者を選抜した。 彼らには、日本での処理をしておかなければならない事がらなど整理をしてもらい、自家用車の処分を含め、年金、保険関連なども。 アメリカは日本と違い、医療保険は個人で各自入らなければならなかった。 日本では国に擁護してもらっているが... いわゆる、アメリカは本当の資本主義国である。 又
本来、私共の「業」は美容業であった故に、当然、美容業でのハワイ進出が希望であった。💇🏻♀️💇🏻♂️ しかし、アメリカという大国の法規制、アメリカでの就労ビザの件、アメリカ人の雇用条件、アメリカ国への納税条件etc...🇺🇸 私共の力では中々難しく、私は最も速く、現実的な進出手段の1つであった飲食業での進出を選択することにした。🍽 飲食業であればFCを利用すれば就労ビザの獲得、現地アメリカ人の雇用、納税、種々な法規制をなんとかクリアできると考察できたからであった。
アメリカと日本の文化、制度、習慣、ルール... 全てにおいて思っていた以上に相違点、又、反対の考え方やルールまで存在していた。🌴🤔 ビザの問題が、かなりのウエイトを締めていた。 就労ビザが無くては何も出来ない。🤔 まず、ハワイにて会社を設立し、その口座を開設。 店舗開設の契約書を用意する。📃 現地のスタッフを面接して、〇〇数人の雇用書類を用意する。👭👫 そして日本へ戻り、ビザの申請は、六本木のアメリカ大使館となる。🏢 アメリカ国の欲求は、 ・アメリカ国籍の人間を何人雇
メールのやり取りの中で、彼は、仕事で3週間後に日本へ来日する事を教えてくれた。🛫 私はすかさずアポを取り、東京で会うことになった。 今振り返ると、あの時私はいつしかハワイとの接点を見出す為に必死になっていたのだと思う。🌴 私は彼と「ストレートな質問と率直な意見交換」を2時間程した。 結果。 1度、私がハワイに近いうちに行くことになった。🛫 彼は私の構想の実現に協力してくれることとなったのであった。 私は、全体で二十数店舗にまで急成長したこの会社のスタッフメンバーの
ハワイより戻ってからというもの、私はハワイに関する資料、本、雑誌、グルメ本に至るまで、関係するものは全てに目を通した。📖 アメリカ合衆国50州の中で最後に加盟した州であり、ハワイ島、アウイ島、オアフ島、カウアイ島、モロアイ島、ラナイ島、ニイハウ島、カホオラウェ島の8つの島と100以上の小島からなるハワイ諸島は全長1500マイル(2400キロ)にわたっている。 州全体が島だけで構成されているアメリカ合衆国で唯一の州であること。🌺 人口は130万人を超え、常時、観光客やアメ
旅行2日目。🛫 レストランでの食事、ショップでのショッピング、ラウンジでの時間、ストリート散策...🚶🏽 全てにおいて私の視点と興味は変わっていた。 料理のデコレーション、質、味、コストパフォーマンス、フロアスタッフの接客、対応... 見れば見るほどにどれをとっても、日本の方がベストに感じた。 ただ唯一、日本人が敵わないこととしては自然に出せる「笑顔」と「ユーモア」だと思った。☺️ 他のことは、日本人の繊細さ、そして気遣いは勝っていると思った。 そんな感じのモヤモヤ