歌、そして音楽とは

○オギャーで始まり、はじまり。

 「うたふやうに」
 さう共通了解を得た、
 音楽記号「cantabile(カンタービレ)」。

 漫画「のだめカンタービレ」において、主人公のだめと千秋との会話の中で、「千秋様」よりcantabileへの言及がある。

1500年くらいまえは 
神の作った世界の調和を知るための学問が 
天文学 幾何学 数論 音楽だったんだ

本来
音楽(ムジカ)とは
調和の根本原理そのものを指していて
理論的に調和の真理を
研究することが「音楽」だった

中世ではその音楽理論を熟知して
「理性の力によって作品全体に対し入念に音楽を判断できる人」を
「音楽家ムジクス」といって

ただ音を歌ったり演奏したりする人を
「歌い手カントル」といった

「カンタービレ」の語源だよ


森羅万象 
宇宙の魂
気が遠くなっていいー
オレなんか
まだまだ小さいことくらいわかってる
でもだからこそひとつひとつ 
今はこのオケの「調和」を探して

(漫画「のだめカンタービレ(16)」,
平成二十四年,講談社,115頁~117頁)

 cantabileの語源を敢へて大好きな漫画から引用し、本稿の導入とさせていただいた。

 それでは、さて、まづそもそも「うた」とはなんであつたか。それを紐解くために『ノヴェンバー・ステップス』で有名な作曲家の武満徹氏(1930~1996)の言葉を引用したい。

歌というものは、人間生活の多面な感情に結びついているものである。

(武満徹『エッセイ選』小沼純一編,
平成二十年,ちくま学芸文庫,407頁)

歌は素朴な意味で、笑うこと、泣くことーそうした生の挙動と同質のものであるだろう。

(同,410頁)

歌は本来、足萎えの詩人のものであり、彼によって書かれ、そして、うたわれた。詩はおのずから音楽をよぶものであり、音楽はまた詩を誘った。詩と曲は区別されずに一人の人間のうたう行為のなかにあった。

(同,410頁)

 これらの見解は、私の前回の記事『歌の基(もとゐ)』において、佐佐木信綱氏が訴へた「廣く深くおのがじしに」の深くといふ点の「人間の魂から湧き出る聲」とも重なる指摘であらうと思はれる。

 さらに視界を広げ「音楽」といふ視点についても武満氏は下記のやうに語る。

 音楽というのは、人間が泣いたり笑ったり、叫んだりすることから、人間の歌が生まれました。もちろん単に器楽的な音楽というものもあります。それにしても、私たちが音楽というものを素朴に考える時には、それは歌というものです。(中略)
 音楽は、生活の中から生まれて、常に個人から出発して、そしてまた個人へもどるものです。音楽というのは、抽象的なものだといわれていますが、たしかに数理的なこととわかっているし、そういう面もありますが、音楽というものはやはり具体的なものなのです。

(同,186頁)

 音と言葉を一人の人間が自分のものにする最初の時のことを想像してみたらいい。芸術が生命と密接に繋がるものであるならば、ふと口をついて出る言葉にならないような言葉、ため息、さけびなどを詩とよび、音楽とよんでもさしつかえないだろう。そうした行為は、生の挙動そのものなのだから‥‥。それは論理の糸にあや織られるまがいものではなく、深く〈世界〉につらなるものであり、未分化のふるさとの豊かな歌なのだ。

(同,217頁)

 武満氏の最後の文章は、「吃音宣言ーどもりのマニフェスト」と仰々しいタイトルが付され書き始められてをり、そこから子供の言葉やベートーヴェンのダ・ダ・ダ・ダーン、五十音の一つの音を二つ重ねてできた言葉ーーー生命に根差した音、などと解説が続いてゐます。

このやうに音や歌さらには音楽の初源的な力といふ視点から、歌、音楽、詩の関連性を提示したわけであるが、、、
生の挙動、そして歌ふやうに、とは…。


ぎゃぼー!
と、高らかにどもりながら今日は締めたいと思ひます。


最後に、
二〇二一年に詠みし小生のバブってる歌です。


  この町を見渡せたらと虹を見て
     つぶやくこどもと母が見上げる

  雨上がり虹にのぼりてこの町を
     見渡せたらと親子で見つむ




制作中の歌集の「あとがき」を公開してをります。是非お読みいただいて、わたしの歌集に興味を持つていただけたらすごくすごくうれしいです☺️☺️☺️!


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