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太陽の時代から、月の時代になったお話
こんにちは、まっつんです。
元号が令和になって2年目です。みなさん如何お過ごしでしょうか?
といっても平成と比較して令和で、どこが変わったのか正直いって良くわかりませんね。
昭和の時代にはよく明治・大正・昭和と3つの時代を1つのユニットとして俯瞰して、それぞれを比較して考えていたように思います。
そしてそれぞれの時代にはイメージがありました。
「明治人」とか「大正デモクラシー」あるいは「昭和ひと桁生まれ」といった具合です。
🟥日本人の好きな思考の枠組み
思考の枠組みとして3つに分ける方法や4つに分ける方法などいろいろありますが、日本人は3つに分けて考えるのが好きな国民なのかもしれません。
守・破・離とは、日本の茶道や武道などの芸道・芸術における師弟関係のあり方であり、走・攻・守の三拍子そろっている選手という言い方を野球ではします。野手に必要とされるスキルを「走」が走塁、「攻」が打撃、「守」が守備の3つがすべて揃った優秀な選手という意味ですね。三者が対立する構図には「三すくみ」のほかに「三つ巴」という言葉もありますね。
日本人の好きな中国のお話である「三国志」も魏・呉・蜀の3つの国が互いに権謀術数をめぐらす三国鼎立(ていりつ)の戦国物語です。
そういう意味では、今後は、昭和・平成・令和を1つのユニットとして比較されていくのでしょう。
今回は、昭和・平成・令和でどのように世界がかわったのか書いてみようと思います。実際は、令和はまだ2年なので正確にはこれから変わっていくということでしょうけど。
🟥太陽の時代 あまねくすべての人を照らした昭和
昭和の時代、日本はエネルギーにあふれており、太平洋戦争での敗北からも復興し、高度経済成長によって、世界第2位の経済大国にまでなりました。この時代を私は「太陽の時代」と呼びたいと思います。
太陽の時代とは、遍く人を照らしてくれる時代で、日本の経済も真面目に働けば大多数の人は報われた時代であったのです。社会全体で同じ目標に向かって邁進していくので、日本人が日々より良い生活へ進歩していると実感できた時代でした。この時代は、日本人全体で動いているため、国民的な歌手や、同じようなT V番組を視聴し、隣のうちがテレビや洗濯機などの家電や贅沢品であった自家用車を購入すれば、遅い早いという違いはあれ、大抵は同じものを自分たちも所有できた時代です。
その代わり光が強ければ影も濃くなるのは必定ですから、光輝く経済成長の陰に深刻な社会問題として環境破壊や公害問題などが発生し、交通事故による死亡者の増加は交通戦争とも呼ばれました。
太陽の時代の後半には、豊かになった日本人にそのツケとして少子高齢化問題や過労死など様々な社会的な課題が突き付けられました。
そして、バブル崩壊とともに日本における太陽の時代が幕を閉じたのでした。
🟥月の時代 ぼんやりとほの暗く、心もとない不安定な平成
続いて到来したのが、平成の30年間です。バブル崩壊の影響で失われた30年と言う不名誉な呼び名がついています。私はこの時代を月の時代と呼びます。
月に時代にはほのかに世界を照らすのですが、足下以外は薄明かりでよく見通せない時代となります。人々は社会的なまとまりよりも、より小ぢんまりとした集団で身を寄せ合って過ごすイメージです。
月の時代には社会全体としてのエネルギーが少ないので、結果として個のエネルギーでそれぞれが活躍するしかありません。
スマートフォンは平成生まれ、そしてYouTubeも平成生まれとなります。いち早く情報発信をしたのも個人です。平成から令和にかけて、少子高齢化の影響もあり、日本の社会全体的な動きが鈍くなりました。共通のテレビ番組も、国民的歌手も存在しなくなり個々が好きなモノを追求し始めました。また、月明かりの仄暗さに紛れて、倫理観の薄れた企業では不祥事が相次ぎ、若者の就労意欲の欠如し、働かない若者であるニートが発生しました。
月の時代には社会全体で問題解決する力も弱いため、社会問題を大きな枠で捉えずに個人の問題つまり自己責任という言葉で、問題の解決を社会から個人に転換して、解決の先送りが発生した時代でもあります。平成は、フラットで核となる求心力ないことで、人々は、どこまでも続く水平線を目指して平面を彷徨う、若しくはスルーされたようなイメージの時代になりました。
🟥テラ(地球)の時代 全てを一度認めることが始まる新世界 令和
さて、明けない夜はないと言う事で、グローバルにばかり目を向けず、自らの台地にしっかりと立ち、自身で輝いていこうという決意の令和としてテラ(地球)の時代と定義したいと思います。でも宇宙に一人ボッチの切り離された地球って一面もあるのです。
令和の現代、グローバルの流れは少しずつ変化しており、世界的な大流行となったコロナウイルスの影響もあり、現実的にはバラバラの個人に分断させたれた感があります。実際は、インターネットなどで新しい繋がりを模索し始めているのが現状です。
グローバルに考え、ローカルに動く、グローカルと言う造語もあります。実際、世界はあたらしい連帯を求めて過去の世界と対立し始めているのです。ライフ・シフトという概念もその一つの現れと言えると思います。
そして世界はコロナウイルスによってリスクはゼロになんてならないと悟りつつあります。
誰しもリスクを負うことがあまりいい気持ちがしませんから、極力回避をしたいと考えるのが普通です。しかし、そもそも生きている限りにおいて、リスクをゼロにすることなんてできないということを理解しなければなりません。
自動車を運転するのは交通事故などトラブルに巻き込まれるリスクが高いので、そもそも自動車の運転自体を止めるといった考えもあるようです。自動車を運転することでいろんな場所に快適に移動できるというメリットよりも、事故を起こすデメリットの方が大きいと判断です。ある意味、自動車メーカーが安全・安心な自動車を開発したと宣伝しても、リスクがゼロにはならないという現実を理解していると言えなくもありません。
これまで平成の時代は、生活の全てにおいて、安全・安心という謳い文句がつくくらいゼロにならないリスクを回避することが重要であった時代でした。安心・安全な食品や安心の保証としての保険商品、安心・安全な建築住宅、安全設計の自動車、などなどいずれの商品にも安全を強調する文言が必ずついていました。
一方で、令和の時代は、自然災害は甚大な被害を各地にもたらし、更に100年に一度というコロナウィルスの世界的大流行によって、自宅に籠るしかない状態にまでなってきています。このような状況で病気、怪我、自然災害、仕事を含めて、リスクゼロにすることはもはや不可能と世界は悟り始めています。
令和の時代にはこのリスクを想定して許容していく必要があるのです。つまり想定外の事なんて常に発生するものと捉えた生き方を模索する必要があるのです。分断の時代だからこそ、まず、想定外と思考停止することなく、自身をそのまま認め、社会環境を認めて、自然の不条理を認める。
悟りにも似た自身の精神世界で一度全てを認める必要があるのではないかと思っています。今世界は、失敗を認めない事での言い訳に満ちてます。コロナはそんな平成の月の時代にトドメを刺しているのかもしれません。
今回は、なんだかとりとめのない話になりましたが、太陽の時代の昭和、月の時代の平成、テラ(地球)の時代の令和と仮定して書いてみました。
次回もよろしくお願いします。
少しでも皆様のお役に立てれば幸いです。
🟩まさかの寺の時代?心の拠り所は大切!まっつんブログ!
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