虫はささやく

 擬態とは、他のものにありさま、ようすや姿を似せること。

 動物が、攻撃や自衛などのために、からだの色や形などを、周囲の物や植物・動物に似せること。

 多くは虫や魚など、いわゆる弱小生物たちの護身術のような認識であるが、もしかしたら人間も、護身術を使って生きているのかもしれないと、この頃おれは思う。


 雨上がりの午後だった。道端に青々と茂る葉の上に、小さなオレンジ色の斑点模様が落ちていた。近づいてみるとそれは芋虫だった。芋虫は見られているのに気づいているのかいないのか、葉の上で涼しげな顔をしている。高嶋譲二はふと指でつまんで手に乗せてみる。すると芋虫はクルンと体をまるめ、それからようやくもぞもと動き出した。そののんびりとした動作に譲二はつい顔を緩ませる。手を開いたり閉じたりするとくすぐったくて、離してしまうのが惜しくなった。

 そこで芋虫を手のひらに忍ばせて家に帰ると、すぐさま妻の美代子に目ざとく見つかってしまった。

「ちょっと虫なんて連れてこないでよ! 捨ててきて、今すぐ!」

 汚物でも見るような形相で怒鳴りつけてくる。美代子は昔から大の虫嫌いなのだ。娘の奈緒子が、眠そうに目を擦りながら顔を出す。

「なんなのよもう。朝っぱらからケンカとかやめてよね恥ずかしいから」

「朝ってあんた、もうお昼じゃないの」

「昨日遅かったの。頭に響くから大声やめてってば」

 ひとしきり言い合った後、ようやく夫の存在を思い出したように美代子は眉間に深い皺を寄せて言う。

「あなたもね、いい歳なんだから虫を飼いたいだなんてやめてちょうだい。小学校の自由研究じゃあるまいし」

「うわ、自由研究とか懐かしい。いたいた、幼虫から蛾になるまでとか観察してたやつ。蛾のアップとか誰も見たくないってねえ」

 蛾という単語に、美代子はさらに表情を険しくさせる。譲二は苦笑する。

「これはアゲハだよ。アゲハの幼虫だ」

 蛾だろうがアゲハだろうが関係なく、美代子にとって虫は皆同じように「気持ち悪い」という認識に変わりないのだろうけれど。

 譲二は庭先の茂みにしゃがみ、まだ濡れている葉の先に芋虫を乗せた。芋虫はもぞもぞと動きながら葉の影に隠れた。

「……いい年して、か」

 自分も昔は、虫の観察ばかりしていた子どもだった。毎日食事や行動の記録を採り、幼虫から成虫までの変化を写真に収めた。幼虫はやがて蛹になり、成虫になると驚くべき変化を遂げた。色鮮やかな美しい蝶になり、虫かごから空へと羽ばたいていった。あのときの感動は、今でも鮮明に思い出せる。

 昔は楽しかった。湧き上がる好奇心をどこまでも追い求められた。周りからは変な目で見られたが、両親はそんな好奇心旺盛な息子を褒めてくれた。高校では生物部に入り、大学では当たり前のように生物学を専攻するつもりだった。しかしそれは叶わなかった。いや、自分の意思で選ばなかったのだ。

 もし、あのまま進路を変えなかったらと、今でも時々考える。もしかしたら学者になっていたかもしれない。朝から晩まで研究に没頭し、世紀の大発見をしていたかもしれない。少なくとも、そこには今とは違う未来があったはずだ。


 翌朝、譲二は早くに家を出た。手提げ鞄ひとつで車に乗り込み、駅に向かう。

 休日の駅前は人で賑わっていたが、譲二の向かう先にはほとんど人がいなかった。廊下の先の受付に、美代子と同年代くらいの中年女性が座っていた。入場料五百円を渡すと、女性はいかにもやる気のなさそうな動作でパンフレットを渡し、目を合わせることもなく「ごゆっくり」と言った。

 客は譲二ひとりだけらしかった。白い壁を囲うようにして、いくつもの写真が一列に貼られている。市が定期開催している写真展で、今月のテーマは「虫」。撮影者はプロからアマチュアまで様々だ。

 ふと、一枚の写真の前で足を止める。緑の体に、小さく鮮やかなオレンジの斑点。色合いや大きさなど、昨日の芋虫と驚くほどよく似ていた。

「この写真、いいですよね」

 唐突に、背後から声がした。透き通るような女性の声だった。振り向くと、そこには妙齢の美女が立っていた。彼女は長い髪をなでながら、クスリと微笑む。

「私の顔、なにかついてます?」

「い、いえ、すみません」

 彼女はつと写真に視線を戻した。一歩前へ歩み寄り、観察するようにじっと正面から向かい合う。

「本当に、素敵。すごく自然でいい写真だわ」

「お好きなんですか?」

 自然とその言葉を口にしていた。写真が、という意味だったのだが。

「ええ、蝶が好きで。この子、すごく綺麗な色してる。成長したらもっと綺麗になるわ」

 譲二は感心しながら頷く。世の女性は皆虫が嫌いなものと思っていた。芋虫など特に嫌われやすい部類だろう。だけど、彼女は違うのか。

 彼女の、その細い指先に蝶々が止まるのを想像し、譲二はうっとりと目を細めた。なんて蝶が似合う女性なのだろう。蝶々を愛でるその顔は、どんなふうに綻ぶのだろうか。

「あなたも虫を飼っていらっしゃるのね」

 彼女は譲二を見つめてそう言った。

「え?いえ、飼いたいとは思うんですが、なかなか」

「あら。そうなんですか?」

 それから二言三言言葉を交わし、彼女は会釈をして去っていった。去り際まで美しい。その後ろ姿をぼんやりと眺めながら、はっとする。ここで別れたら、もう会えないのではないか。

 ――諦めるのか。追いかけなくていいのか?

 頭の中でもう一人の自分が言うが、自嘲気味に首を振る。あんな美人が、自分をまともに相手するとは思えない。ただ、ここに自分しかいなかったから声をかけられたのだ。わかっているのに、譲二は意識に反して駆け出していた。


 早朝。まだ日が昇って間もない時刻、譲二は静かに布団から起き出し、支度を始めた。美代子はまだ寝ている。薄暗く静かな廊下を足音を立てないよう、慎重に一階へ下りていく。

「おはよう、早いわねえ」

 下りきったところで、階段の上から声をかけられた。美代子だった。熟睡していると思ったのに、いつの間に。

「出かけるの?」

「あ、ああ、ちょっとね」

 とっさにうまい言い訳が浮かばず言葉を濁す。

「そう。気をつけてねえ」

 美代子はふわあと欠伸をし、寝癖のついた頭を揺らしながら特に関心もなさそうに寝室へ戻っていった。

「ああ、行ってくるよ」

 まるで学生時代に戻ったように、譲二は浮かれていた。虫の研究に夢中だったあの頃、毎日が楽しくて、早く山へ虫採りに行きたくて明日を待ち望んでいたあの頃に。それも今度は一人ではなく、美しい女性も一緒なのである。

 信じられない気持ちだった。昨日、展示室を飛び出し、彼女の背中に声をかけた。

「あの、お名前は……?」

 いい歳して恥ずかしい、青臭いナンパのような声のかけ方だった。しかし彼女は笑って答えてくれた。

「古沼紗枝です」

 驚くことに、いい場所があるから一緒にお散歩でもと、誘ってくれたのは彼女のほうだった。彼女の家の近くにある公園は緑が豊かで、虫の宝庫だというのだ。もしかしたら、彼女も求めていたのかもしれない。人に言いづらい趣味を共有できる相手を、自分と同じように。

 駅前のロータリーに車をつけると、紗枝はすぐに気づいて反対側から小走りで駆け寄ってきた。譲二は慌てて車を降り、助手席のドアを開けた。

「ど、どうぞ」

「ありがとうございます」

 今までこんなキザな真似などしたことがなかったが、彼女が相手ではむしろそうしないと失礼な気がした。

「今日はどうぞよろしくお願いします」

 と紗枝は車に乗り込み、恭しく頭を下げた。長い髪を一つにまとめ、Tシャツにパンツというラフな格好をしているが、それでもこの麗しい女性が虫に興味があるだなんて、未だに信じられない。

「紗枝さんは、蝶を飼っていらっしゃるんですよね」

 思いきって下の名前で呼んでみる。反応を伺うが、嫌な顔も見せず彼女はにこやかに答えてくれる。

「ええ、ウズハアゲハを」

「それはまた珍しいですね」

 ウズハアゲハは年に一度、五月頃に見られるが、北方系の蝶で、中部地方では滅多に見かけることがない。半透明の羽に黒い筋模様の、派手ではないが美しい蝶だ。まさに彼女にぴったりだと思った。

「それにしても、不思議な縁ですね。昨日会ったばかりなのに、こんな風にお話しているなんて」

 調子に乗って恥ずかしいことを口走っていることに気づき、譲二は赤面する。

「ええ、本当に。でも、とても楽しいです」

 デートみたいだ、と思った。こんな風に女性と二人でドライブすることなど、結婚して以来一度もない。だが不思議と罪悪感もなかった。共通の趣味を持つもの同士、会話を楽しんでいるだけ。後ろめたいことなど何もない。


 その場所の前で車を停め、二人は息を呑んだ。

「ここ……ですか?」

「ええ……そのはずですなんですが……」

 その住宅街の一角には、様々な虫が生息する大きな緑地公園があるはずだったが――そこには一本の木すら見当たらず、ただの空き地があるだけだった。周りをロープで囲い、「建設予定地」との真新しい看板が貼られていた。どうやら半年後にはここに新しく発電施設が建つことになるらしい。

「すみません、せっかく来ていただいたのに、知らなくて……!」

「いえそんな、大丈夫ですよ」

 そう笑い返した直後、譲二はぎょっと目を見張った。紗枝の瞳には涙が浮かんでいた。涙はみるみる溢れ、その白い頬を濡らす。

 譲二は戸惑う。なぜ彼女が泣いているのかわからず、したがって気の利いた言葉も出てこないまま、ただオロオロと手を動かしている。

「ごめんなさい。だって、悲しくて」

 紗枝は指で涙を拭いながら言った。

「だってこの場所を通っていたし……本当に素敵なところだったんです。それがこんな、ひどいわ」

 優しい女性なのだ、と譲二は感激した。見た目だけでなく心も美しい。彼女の涙は、まるで人間の罪を背負っているかのように次々と溢れてくる。

 ごめんなさいともう一度、紗枝はようやく落ち着きを取り戻して言った。譲二の目を見つめてにっこりと微笑む。

「よろしければ、お詫びにうちに寄っていってください。大したものはないですけど、せめてお茶でも」

「えっ、いいんですか……?」

「もちろん、喜んで」

 一も二もなく、譲二は頷いた。


 そこから本当にすぐ近くに紗枝の住むマンションはあった。赤れんがの外壁に瀟洒なエントランスを通って階段を上る。エレベーターがなく、上へ行くほど足が重くなってくる。

「……五階まで上るのは大変ではないですか?」

 この頃体力がめっきり落ちてきた。早くも息を切らしながら譲二が言うと、紗枝は朗らかに笑った。

「慣れればそうでもないですよ。運動にもなりますし」

 涙はすっかり乾き、笑顔が戻っていることに譲二はほっとする。突然泣き出したのには驚いたが、それほどあの場所を大切に思っていたのだとわかるし、そんな場所に案内してくれたこと、それだけで充分嬉しかった。

 おじゃましますと玄関を開けると、花の甘い香りがした。白で統一された内装で、ところどころ壁にドライフラワーが吊るされている。

「素敵なお宅ですね」

「こう見えて結構古い部屋なんですよ。私が暮らし始めて十年になりますし」

 紗枝はダイニングテーブルに案内すると、台所に立ってお茶を入れ始めた。カウンター越しに漂ってくる紅茶の爽やかな香り、俯く彼女のしなやかな立ち姿に譲二はうっとりと目を細める。

「紅茶もお菓子も、すごくおいしいです」

「それ、カフェをやっているお友達にいただいたんです。昨日の写真展も、実はその人の入賞作品を見に行っていて」

「そうだったんですか」

 誰だか知らないが、そのお友達に感謝しなければならない。おかげで二人は出会うことができ、こうして楽しくお茶をできる仲にまで発展したのだから。

 この部屋で、紗枝と二人で暮らす自分を想像してみる。虫嫌いの妻も父親を小馬鹿にする娘もいない、気の合う女性と毎日好きなことを語り合う。どんなに刺激的で楽しいことだろう。

 興奮したせいか、急に尿意を覚えた。そういえば今日は朝から一度もトイレに行っていなかった。

「あの、すみませんがお手洗いをお借りしてもいいですか?」

「ええ、どうぞ。出てすぐ向かいです」

 トイレの扉を開けると、また違う花の香りがした。ズボンのチャックを下げ、用を足しながら昂ぶった気持ちを沈めようとするが、一向にその気配がない。チャックを戻し、壁付けの鏡の前で髪の毛を整える。

 ――彼女もそのつもりなんじゃないか? 

 どこからか声がささやく。その声は、なぜか、自分のものではないような気がした。目に見えないどこかから、この状況を見ている他の誰か声のような気がするのだ。

 ――家に入れたってことはそういうことだろう。なにを怖がってるんだよ。

 どうかしている、譲二は首を振る。慣れない状況に頭がいかれたのか。

 ――びくびくしてないでさっさといっちまえよ。男だろ? 

「ええいうるさい!」

 わけのわからない声を振り切るように譲二は叫びながらドアを開けた。

「ん……?」

 部屋は真っ暗だった。すぐに隣の部屋のドアを間違えて開けてしまったのだと気づく。さっきまでいた部屋とは明らかに種類の違うとろりと甘い蜜のような匂い、そして暗闇から奇妙な音が耳に届く。

 カチカチ、カチカチ、カチカチ……

 何の音だろう。聞いたことのない音――いや待てよ、一度だけ、聞いたことがある。

 カチカチ、カチカチ、カチカチ……

 そうだ、随分昔、高校の生物室で、同じような音を聞いた。あれは確か、蝶が発していた音だった。隣にいた同じ生物係の女子が眉をひそめて言った。かわいそう、と。

 稀に鳴き声を発する蝶がいるという。飛びながらカチカチというクリック音を出すことで、同種他個体や天敵に対する威嚇をするのだ。蝶が身の危険を感じたときに発する音。

 カチカチ、カチカチ、カチカチ……

 電気のスイッチを探す。あった。考えるより先にスイッチを押し、暗闇から現れた異様な光景に目を見開いた。

「な、なんだ、これは……」

 ケースの中の大量の蝶。その全てが半透明の羽に黒い筋模様の入った、ウズハアゲハだ。異様なのは、その全ての蝶の片方の羽がないことだ。羽の片割れは、壁に貼り付けられていた。あの写真展の展示室のように、一列に並んで。

 標本自体は珍しくもない。だが、そこにあるのは、生きている蝶たちの、

「綺麗でしょう?」

 背後から紗枝の声がした。同時に、クリック音がぴたりと止んだ。

 譲二はもはや、何も言えなかった。口を押さえる。吐き気がこみ上げてくる。綺麗だと。これが……? 

 ――この子、すごく綺麗な色してる。成長したらもっと綺麗になるわ。

 彼女は確かにそう言った。あのときの言葉と、この光景を、同じ言葉で。

「安心して。薬を打ってるから普通より生命力はあるの。それに、虫には痛覚がないから」

 神経を疑う。痛みがなければ何をしても許されるというのか。そんな馬鹿なことがあるか。カチカチと刻むあの音は、蝶たちの助けてというサインだ。自分の身に大変なことが起こっていると知っているから、羽をもがれて飛べなくても、懸命に助けを求めていたのではないか。

「どうして、こんなことを」

「決まってるでしょう。逃さないためよ」

 彼女は当然のようにそう言った。

「虫は賢いから。人の目を欺いてすぐに逃げてしまうから。だから閉じ込めておくの」

 美しい女性、そう思っていた。まるで蝶のように鮮やかでしなやかで、いつまでも見ていたくなるような、そんな人だと。とんだ勘違いだった。美しいのは外見だけで、中身はこんなにも恐ろしく醜い女だったのだ。餌を惑わし、自分の巣へ持ち帰り、逃げられないよう閉じ込める。まるで毒蜘蛛のような女ではないか。


 カチカチ、カチカチ、カチカチ……

 ――しかし、物好きもいるものだなあ。自分から人間にくっついてるなんて。じっとしてるのも面倒だろう? 

 ――おれは餌が食えれば何でもいいさ。

 ――気をつけろよ、この女にとっ捕まったら終わりだぜ。

 ――もうとっくに気づかれてるよ。でも大丈夫、彼女、羽のある虫にしか興味がないらしいからさ。あんたたちも災難だったなあ。

 虫たちのささやき。羽音にも似たその小さな声は、人間の耳に届くことはない。


 譲二は無我夢中で車を走らせた。標識には目もくれず、勘だけを頼りに来た道を戻った。

 ――虫は賢いから。人間の目を欺いて逃げてしまうから。だから閉じ込めておくの。

 ふと気を抜けば、呪いのようにあの言葉が頭に蘇る。その後ろで大量の羽切れ蝶々たちがしきりにクリック音を鳴らしている。あの蝶たちはもう長くないだろう。それでも生きていた。凄まじいほどの生命力で。

 自殺をするのは人間だけだという。人間だけが、生きることに意味を見出せず自ら命を絶ってしまう。他の生物は違う。持てる知識をフルに活用し、厳しい自然界で必死に生きようと努力する。足がもげようが羽を奪われようが、意味など考えることもなく、その命が尽きるまでしぶとく生き続けるのだ。

 握るハンドルに力がこもる。自分は何もできなかった。あの蝶たちを助けられなかった。いや、無理だった。あの状況で、羽のない蝶を助けることなどできるはずがなかった。

 スピードを上げる。忘れよう、自分に言い聞かせる。あの部屋で見たことは忘れて、ただ家に帰ることだけを考えるのだ。


 テレビでサザエさんの陽気な歌が流れている。向かいには妻の美代子と娘の奈緒子。久しぶりに家族三人で囲む日曜日の食卓だった。

「そういえば、この前の虫を飼うっていう話だが」

 譲二が箸を止めて言うと、二人が露骨に顔をしかめる。

「なあにあなた、まだ諦めてなかったの?」

「食事中に虫の話なんてやめてよねー」

「いや、あれはもういいんだ。やめたから」

「あらそうなの」

 美代子は安堵の表情を浮かべ、奈緒子が調子に乗って身を乗り出す。

「あっでも虫はイヤだけど、猫なら飼いたいなあ」

「生き物はもう勘弁だ。それに今飼ったところで、おまえはもうすぐこの家を出るだろう」

「えー。まあそうだけどさぁ」

 奈緒子は年内に結婚が決まっている。相手は大手食品メーカーの営業マン。何度か顔を合わせているが、誠実そうな男だ。柄にもなく照れ臭そうな娘の横で、美代子が不思議そうに首を傾げている。

「突然虫を飼うって言い出したかと思えば今度は生き物は嫌だって言ったり、あなた最近、ちょっと変よ?」

「そうだな、変だな」

 譲二は箸を置き、そっと苦笑をこぼした。そう、変だった。どうかしていたのだ。四十年も、平凡なサラリーマンをやってきた。譲二の仕事は工場のライン作業だった。集団から離れず、毎日同じ作業を繰り返すのが仕事だった。会社を定年退職し、毎日やることがなくなり、これから何をして生きていけばいいのか、途端にわからなくなってしまったのだ。

 学生時代は虫の観察に熱心だったが、高校で出会った美代子は極度の虫嫌いだった。他の何の動物も平気だけど、虫だけは嫌。虫の研究? やめてよ、小学校の自由研究じゃあるまいし。この言葉を何度聞いたことか。

 運悪く生物係になってしまった美代子は、虫かごの世話をしながらよく愚痴をこぼしていた。カチカチと音を立てる蝶を見て、彼女はかわいそうと言った。

 ――だって、きっと逃げたいのよ。こんな狭い箱の中より、空を飛びたいに決まってる。

 そして何の断りもなく、虫かごの蓋を開けてしまった。空へと羽ばたく蝶たちを見上げるその強気な横顔に、譲二は隣で見惚れていたのだった。

 今、目の前にある顔は、当時と変わらず強気だが、皺が増え皮膚がたるみ、ホクロだかシミだか判別つかない黒点も増えてきた。その顔が、ともに刻んできた時の流れを物語っている。

「昔は美人だったんだけどなあ」

 ぼそりとつぶやくと、恐ろしい目つきで睨まれた。

「何か言った?」

「いや、なんでもない」

「あなただって、随分変わりましたけどね」

 嫌味の反撃を食らった。

 譲二は苦笑しながら思う。刺激なんていらないのかもな、と。家族で食卓を囲む、この時間が幸せなのだから。

「でもあなた、育毛剤の効果、早速出てきたんじゃないの?」

 譲二の頭に目を向けて言う。

「ああ、これなあ」

「よかったね。結婚式までにフサフサにしといてよー」

「そんなに急に生えるもんか」

 父親の髪が一本生えただけで盛り上がれる仲良し家族。平和でけっこうなことだが、残念なことに、これは毛ではなく、虫だ。

 おれは、人間の毛に擬態し、人間の皮脂を食べて生きている、一匹の虫なのだ。おれはこいつの頭で食事をし、こいつはおれが頭にいることで喜んでいる。利害の一致だ。

 美代子が譲二の頭部をまじまじと見つめて笑う。

「でもなんだか、ふわふわしてるわねえ。なんだか、生きてるみたいね」

 ――この母親は見かけによらず案外鋭いところがある。

「生きてるわけがあるもんか。こいつは紛れもなく俺の髪の毛だからな」

 ――この男は単純なうえにひどい鈍感で助かる。すこし哀れに思えてくる。

「お父さん、威張ってないでもうちょっと頑張りなよ。波平でももうちょっと毛あるって」

 ――その波平というキャラクターをモデルにこの擬態を思いついたのだが、どうやら不評らしい。まあ本人が喜んでるからよしとしよう。

 こうして人間の頭に乗っていると、不思議なことに、そいつの考えていることが自分のことのようにわかるようになってくる。頭の一部を食べているからか、そいつの馬鹿げた妄想や下心まで全てお見通しなわけだ。人間は面白い。色々考えているわりに中身は単純で、ときに自ら危険を冒したりする。矛盾だらけで理解不能だが、だから面白い。だからおれはこの命が尽きるまで、こいつの頭の上に乗っかっていようと思う。そのときは、この男が悲しむことになるかもしれないけれど。

 テレビのほうは波平の怒鳴り声で幕を閉じた。いまや聞き慣れたエンディングテーマが流れ出すが、こっちの家族はまだ談笑しながらテーブルを囲んでいる。

 平和な日曜日の夜が暮れてゆく。

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