鳥の独り言

「いいよなあ、お前んとこのヨメさんは美人で」

 駅前の騒がしい赤提灯の居酒屋で、同期の佐々木が焼酎を煽りながらくだを巻いている。

「さっきからそればっかじゃないか」

「だってよお、千恵美さんみたいな美人なら、絶対別れようとか考えないもんなー」

「え、まさかお前……」

「いやいや、まあ子ども二人いるし、普通に無理だけどな」

 佐々木は去年名古屋支店から大阪に異動になり、同い年の嫁さんと幼い子どもと一緒に大阪に住んでいる。会うのは送迎会以来で、一年ぶりだった。前に話したときは仲よさそうに見えたが、どこの家庭にも大なり小なり問題はあるのだろう。

「……つうか、もうすぐ三人になるしな」

 佐々木がグラスに残った氷をカラカラと揺すりながら、ぼそりと呟いた。顔が興奮した猿みたいに真っ赤なのは酔っ払っているのか照れているのか、いやもとからそんな顔だったかもしれない。

 と、やはり酔いがまわってきている俺はうっかり聞き流しかけた言葉を呼び戻す。

「は、え?三人?」

「じつはな。今三ヶ月」

「おいおい、大丈夫なのかよ、家にいなくて」

「嫁、実家戻ってるからさ。昼間はつわりがひどいんだとさ。で、俺もたまには帰るかと思ってついてきたわけよ」

「なんだ、そういうことは早く言えよ。よかったな、おめでとう」

「ははは、照れるなあ」

 照れて頭を嗅く同僚ははすっかり親猿の顔になっている。

 なんだ、仲いいんじゃないか。

 俺は肩透かしを食らった気分でそう呟いた。もちろん声には出さないが。これからまた子どもが産まれるんじゃ、忙しくなって離婚どころじゃないだろう。というかそもそも別れる気なんてないんじゃないか、最初から。

「お前んとこは?結婚してだいぶ経つだろ?」

「ああ、考えてはいるけど、そのうちな」

 つい言葉を濁してしまう。

「なんだよ、思いきりがねえな。いいぞお子どもは。あの顔見たら仕事の疲れも吹き飛んじゃうんだよなあ」

「溺愛じゃないか」

 会計を済ませて店を出ると、涼しい夜風がほんの少し火照った頰を冷ました。もう一件行くかと佐々木が言うが、俺は首を振る。

「いや、帰るよ。あんまり遅いとヨメがうるさいからな」

「おう、そーかそーか。仲良くな!」

 そう、帰らなければならない。嫁が待つ、肥溜めみたいなあの家に。


 家に帰ると、いつものように大音量のテレビの音と、負けないくらい大音量の笑い声がとんでくる。

 リビングのドアを開けたところで、ソファに寝転んでテレビを見ていた千恵美が、顔を上げて気だるそうに言う。

「あーおかえりー」

 机の上にはビール缶がいくつも転がり、つまみにむしゃむしゃと頬張っているのは、一口サイズにカットされた豚足である。あのこってりとクセの強い味といいぶにぶにした食感といい、俺はどうにも豚足が苦手なのだが、それをこいつはポテトチップスと同じような軽さであっという間に腹におさめてしまう。豚足をかじりながら、脂ぎった手で、豚足のように丸々した足をぼりぼり掻いている。


『いいよなあ、お前んとこのヨメさんは美人で』


 佐々木の言葉を思い出す。今のこの有り様を見たら、間違ってもそんなセリフは飛び出さないだろう。

 そう、佐々木の言う通り、昔は美人だったのだ。同じ会社の一つ上の先輩で、キリッとした顔立ちでモデル体型、仕事ができる上に愛想がいいと社内だけでなく得意先からも人気があった。大学時代には雑誌のモデルをやっていたことやミスキャンパスに選ばれたこともあるらしく、街を歩けば道行く男たちが目で追い、そんなときは隣に並ぶ自分までもがいい男になったような気分になった。

 そんな高嶺の花をどうして俺が射止められたかというと、これまたありがちな話で、失恋した彼女をたまたま慰める機会に恵まれたからだ。

『こんなに可愛い彼女がいながら浮気するなんて、どうかしてますよ。俺なら絶対よそ見なんてしないのに』

 今思えばそのセリフがもはやどうかしていたと思う。さらにこんな血迷ったことまで言っていた。

『たとえ君が将来どんなに醜くなったとしても、俺は一生君だけだ』

 ともかく、そんなわけで俺は社内の男たちから羨望の眼差しを集めながら、若くて美しい嫁をもらった。結婚式を終えると、千恵美は家事に専念したいからと惜しまれつつ会社を辞め、思いきって家も買い、悠々時的な専業主婦生活を満喫していた。

 それが間違いの始まりだった。自由にさせすぎたのだろう。俺がとやかく言わないのをいいことに、友達とランチや買い物三昧、だんだん掃除も料理もおろそかになり、そのうち自分のものは自分で買ってこいと言い出した。運動もしないので当然太る。太ってくると、外に出るのも面倒になったらしく、人にも会わなくなり、外に出るのは酒とあり合わせの食料が底をつきたときだけ。だったはずが、厄介なことに、最近は酔っ払って夜中に徘徊まで始める始末。一度警察に連行されて以来、俺は同僚と楽しく飲んでいても途中で切り上げ、いそいそと家に帰らなければならなくなった。

 せめて子どもがいれば、と切実に思った。子どもがいれば、こんな女でも母性が芽生えて少しはまともになるのでは、と。

『そろそろ、俺たちも親になってもいい歳じゃないか?』

 そう言ってみたこともあるが、返ってきたのは期待とはほど遠い言葉だった。

『いらない。子どもの世話なんて、面倒なだけじゃない』

 わずかでも期待した自分が馬鹿だった。

 その頃にはもう気づいていた。医者でも弁護士でも簡単に落とせたはずの当時の千恵美が、金持ちでもイケメンでもない普通すぎる俺を選んだ理由。面倒な付き合いをしなくてすむからだ。プライドの高くない、こだわりや主張の強くない男こそが、千恵美にとっての理想の夫だったのだ。

 結婚して十年。いったい誰が、ここまでの変貌を予想できただろう。当時を知る同僚になど、一番見せられない有り様だ。

 離婚を考えたこともあった。だが、そう簡単にはいかないだろう。この女は、自由がほしいのだ。専業主婦という理想のポジションを手に入れたからには、そうやすやすと手放すはずがない。

「なあピーコ、どうすればいいんだろうな」

 俺はいつものようにかごの前にしゃがみ、餌をやりながらオウムのピーコに話しかける。ペットショップで見かけて何気なく購入したのだったが、今や俺にとって、ピーコは本音を言える唯一の話し相手だ。同じ部屋に嫁がいるのにおかしな話だが、その嫁はテレビで爆笑していて、旦那の話など一切聞く耳も持たないのだ。

「いっそ殺しちまうか」

 ふと、今まで思いつきもしなかった言葉が口から漏れた。どきりとした。自分の言葉ではない気がした。

 殺す。俺が、嫁を、この手で。

 どうして今まで考えなかったのか不思議なくらい、その言葉はしっくりときた。いなくなればいいのに、とは何度も思った。太りすぎて病気になればいい、アル中で倒れればいい、もしくは酔っ払って外に出て車に轢かれればいい、この数年、何度その光景を頭に描いたかわからない。

 しかしこの女は豚足ばかり食べているせいかぷるぷると健康そうで、病気の気配など微塵も見せない。偶然の産物に頼るよりも、むしろこの手で仕留めたほうが、ずっと早くて確実ではないか。

「なあ、どう思う、ピーコ?」

 ピーコは餌を食べ終えて満足そうに、つぶらな瞳でじっと俺を見つめ、

「イイネ!」

 と陽気な口調で言った。イイネ。その言葉は、もちろん俺が教えたのだが、それを絶妙なタイミングで返してくるから驚く。なんて聞き上手な鳥だろう。

「そうか、お前も賛成か」

「イイネ!イイネ!」

 ギャハハと背中から笑い声。笑っていられるのも今のうちだ。死んで今までの悪行を後悔するがいい。

 俺は決心した。明日、嫁を殺そう。


 一日中そわそわとしていた。滅多にしない定時退社をし、帰りに病院に寄った。不眠を訴え睡眠薬をもらい、それからスーパーで少しいい酒とつまみを買って帰った。電車に乗っていても歩いていても、どうにも落ち着かない。いや、落ち着かなければ。今から大仕事が待っている。

 これから、俺は嫁を殺すのだから。

 ドアを開けると、今日も大音量のテレビ音。リビングに入ると強烈なイカの匂い。今日はイカの日らしい。ちょうどいい、イカなら俺も食べられる。

「なあ、コレ買ってきたんだが、たまには一緒に飲まないか?」

「ああ、うん」

「待ってて、今用意するから」

 千恵美は少し驚いたように見上げて答えた。何しろ俺からこうして話しかけるのは、随分久しぶりのことだ。向き合って晩酌するなど、もっと長いことしていない。

 俺は率先して酒をつくりに立ち上がる。カウンターキッチンでよかった。心置きなく薬を入れることができる。

 調べたところ、酒に睡眠薬を入れるだけでも危険な状態になることがあるらしい。だがそんなあやふやな副作用を狙っていては今までと同じだ。

 確実に殺すのだ。今日、この手で。

 睡眠薬を入れたロックグラスに酒を注いで箸でかき混ぜ、つまみを皿に乗せて机に並べる。

 こうして向かい合って酒を飲んでいると、結婚前のことを思い出す。千恵美はよく俺の部屋に来て料理を作ってくれた。薄味の水っぽいカレーや、逆に味が濃すぎる肉じゃが、石のように固いハンバーグ。お世辞にも料理上手ではなかったが、こんな美人な奥さんに作ってもらえるのなら、多少まずくても構わないと思えた。

 だがどうだ、この十年間、嫁の手料理など数えるほどしか食べていない。努力など早々に放棄したうえ、この変貌ぶりは、もはや詐欺だ。犯罪だ。豚のように丸々太った今の嫁を忌々しく見つめる。

「なんなの、今日」

 ふいに千恵美が言った。

「え?」

「いつもこんなの買ってこないのに」

 訝しげにこちらを見ている。だが俺はそんなことでは動揺しない。

「うまそうな酒を見つけたから、たまには一緒にどうかと思ったんだよ。いいだろ?」

「まあ、べつにいいけど」

 意外と疑い深い。俺は内心舌打ちしたくなった。が、焦りは禁物だ。ここは気分よくさせておくことにする。

「そういえば、もうすぐ誕生日だよな。何か欲しいものあるか?」

「え、欲しいもの?」

「ああ、今年はボーナスも上がったし、奮発するよ」

「ほんと?じゃ、考えとく」

 千恵美は言って、グラスを傾ける。氷がカラカラ揺れる音に合わせるように長い髪が揺れる。艶やかでまっすぐな長い黒髪。そこだけは結婚前から唯一変わっていないところだ。俺が一番、好きだったところでもあった。

「あ、あった、欲しいもの」

「なんだ?」

「ええとあれ、なんだっけ、この前テレビで見たんだけど……」

 言いながら、こくりと一度頷くようにして、そのまますうすうと寝息を立て始めた。

 なんだ、あれって。まあいいか。どうせ買うことはないんだし。

 俺は思わず頰を緩ませた。これから俺がしようとしていることなど、微塵も疑っていない無防備な姿。せめて欲しいものでも思い浮かべながら幸せにいくといい。

 俺は仕込んでおいたペーパーナイフを取り出し、横たわった千恵美の白くふくよかな首筋に当てた。刃先が少し肉に食い込む。怖気付くな、ひと思いにブスッとやるんだ。一瞬のことだ、怖いことなど何もない。

 勢いよくナイフを振り上げた、その瞬間、ふいに思い出す。


『誕生日に、欲しいもの』


 千恵美は笑って言った。昔住んでいた狭い部屋で、千恵美の作った水っぽいカレーを向かい合って食べていたとき。


『私、あなたのお嫁さんになりたい。料理下手だし、掃除も苦手だけど、頑張るから』


 迷うはずがなかった。プロポーズを考えていたのに、先に言われてしまったのが少し悔しかったが、俺は大きく頷いた。


『一生、幸せにするよ』


 なぜ、よりによってこんなときに、昔のことなんて思い出すのだろう。あの言葉は嘘だった。俺はこの女にまんまと騙されたのだ。今さら未練などあるはずもないのに、なぜ、俺は泣いているのだろう。


「イイネ!」


 突然、ピーコが叫んだ。珍しいこともあるものだ。何も言っていないのに、イイネ、だなんて。

 俺はすっかり白けてしまい、ナイフを置いて立ち上がった。そうだ、ピーコが見ているじゃないか。

「イイネ!イイネ!イイネ!」

 なんだよ、今日はやけに喋るな。

 そういえば帰ってから餌をやっていなかったことを思い出して鳥かごに向かい、首を傾げた。皿にはすでにこんもりと餌が盛られている。千恵美がやったのか、珍しいこともあるものだ。

「イイネ!イイネ!イイネ!」

 ピーコは頭がいかれたように同じ言葉を連呼し続ける。さすがにそうイイネイイネ言われ続けると少し耳触りに思えてくる。

「なんなんだよ、もうやめただろ」

 ふと、いつもと響きが違うことに気づく。耳を近づけてよくよく聞いてみると、さっきからピーコが連呼しているのはイイネではなく、

「シネ!シネ!シネ!」

 だった。

 おかしいな。シネ、なんて物騒な言葉、教えたことなんてないのにどこで。

 はたと気づく。俺でないのなら、一人しかいないじゃないか。

「シネ!シネ!シネ!」

 ピーコは狂ったように呪詛の言葉を吐き続ける。そのときだった。

 ガターン!

 背後で派手な音がした。千恵美が、ソファから転げ落ちたのだ。同時に、背後から気だるそうな声。

「いったぁ……あれ、私、寝てた?」

 そして起き上がる。昏睡状態でもおかしくないはずなのに、なんと強靭な。いや、それよりも。

 背中を生ぬるい汗が伝う。しまった。なんという失態。あの机の上には……

「……あれ。なにこのナイフ?ねえ、あなた、これあなたの?なんでこんなもの持ってるの?」

 酔いの冷めた抑揚のないその声に、俺は振り向くこともできず、目の前の狂ったオウムを意味もなくじっと見つめ続けた。

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