棺桶にドーナツ

 オモチャを手にした子供の写真とともに栗林麻美のブログが更新されたのは、三日前のことだった。

「asami.」という名のアカウントで内容はほとんど子供のこと、保育園の行事や休日のお出かけなどで埋め尽くされており、いかにも自分がそばで微笑ましく見ているような語り口である。しかしその写真はじつはすべて夫である洋介が撮ったもので、麻美はその場にいなかったのだと洋介本人の口から聞いて、私は積み上げてきた感情が足元から崩れていくのを感じた。

 洋介は私の五つ上の兄で、麻美は兄の奥さんだった。

 ピンクや白や黄色の明るい色合いの花に囲まれて微笑む麻美の遺影を見ながら、ブログの写真には麻美も兄も一度も登場していなかったことに今さら気づく。

「由紀」

 兄に呼ばれて振り返る。大柄な兄の両手は二人の幼い娘にしっかりと繋がれており、娘たちのもう片方の手には、虹色の渦を巻いたペロペロキャンディが握られている。

「もうすぐ親族への説明があるとかで、式場の人が来てくれって」

 喪主である兄は喪服こそきちっと着こなしているが、一眼で疲れが見てとれるほど顔色が悪く、力を入れすぎたように充血した目だけがしっかりと開かれていた。

「わかった」

 私は頷きながら、遺影に背を向けた。

 昨日の夜からずっと雨が降り続いている。窓の外は水たまりに映る世界のようににぼやけて、静寂なロビーで私たちだけが孤独に立ち尽くしていた。


 最後に麻美に会ったのはいつだったろうと考えて、三年前の夏、一人目の華が生まれて麻美が退院してから、実家に集まってお祝いしたときだと思い出す。

 麻美は子供を産んだばかりとは思えないほどほっそりしていて、華は白い腕の中で気持ちよさそうに眠っていた。

 あのときは珍しく私の夫の智弘もいて、父と兄とテーブルを囲んで晩酌をしながらテレビの野球中継を見て盛り上がっているのを横目に、私はそっと麻美の横に腰を下ろした。

 母親に似た白い肌に長いまつ毛。将来美人になるのが約束されている顔。その小さな体のどこかに兄の遺伝子も入っているのだと思うと不思議だった。

「よく寝てるね。かわいい」

 と小声で言うと、麻美は目を細めて、はい、と頷いた。

「毎日夜泣きで大変だけど、この寝顔見たら全部吹き飛んじゃいます」

 地肌が少し隠れるほどしかない華の髪がふわふわと扇風機の風に揺れるのを眺めながら、思わず、いいなあ、とつぶやいていた。

「由紀さんたちも、もうそろそろかもですね」

「そう、だね。でも仕事のことも考えるとなかなか」

 話題が自分に向いたのでつい言葉尻が濁って、

「というか同じ歳なんだから、敬語じゃなくていいよ。私、一応、義妹なんだし」

 と話題を逸らすと、麻美は恥ずかしそうに微笑んで、

「そうですね。あ、そうだね、そうする」

 とたどたどしく答えたのが印象的だった。

 麻美はきれいな顔立ちをしていた。私と同じ二十九歳なのにこうも違うのかと落ち込むほど色白の肌はきめ細かく、丸っこい瞳や眉の上で切りそろえた前髪が全体を幼く感じさせたけれど、ふっくらと赤みを帯びた唇や尖った顎は反対に大人びて見えた。授乳のために前開きになっている薄手の白いロングワンピースはゆったりしたつくりだったが、美人にしか着こなせない服だと思った。

 兄はおおらかな性格のわりに意外と秘密主義なところがあり、それまで自分の恋愛事情を家族、とくに私にはほとんど見せてこなかった。不意打ちのように結婚を知ったときは、だから少しがっかりした。いくら性格が大事なんて言っても、所詮男は美人がいいいいのだと。でも麻美は見る限り性格もよさそうで裏表もなく、第一に、兄が選んだ人だ。これから家族になるのだから仲良くしなければと言い聞かせ、なかなか心を開こうとしない麻美にしきりに話しかけたりもした。その甲斐あって、最初に会った頃より随分打ち解けてきた実感もあった。

 しかし、それきり、麻美と会うことはなかった。翌年に二人目の咲が産まれたときでさえ、兄が度々実家に子供を連れてくるだけで、麻美は一度も顔を見せなかった。

 母親によく似た娘たちは、沈鬱な面持ちの大人たちに囲まれ、双子のようにお揃いの黒い服を着て、控室の畳の上に足を投げ出して虹色のキャンディを舐めている。

 その無邪気な姿を眺めながら、行き場のない悔しさが喉を焼くように奥から突き上げてきた。

 ねえ。何があったの。あんなに可愛い子供を残して、どうしていなくなったりできるの。

 部屋に入ることすらできずに呆然と立ち尽くしていると、葬儀場の男性スタッフに声をかけられた。失礼します、親族の方、流れを、とぶつ切りに耳に入ってくる声を、遠い国の言葉のようにぼんやりと聞いていた。


 兄から電話を受けたのは、昨日の朝だった。夏休みが明けたばかりの学校へ向かう小学生たちのはしゃぐ声が、半分開けた窓から日差しのように注いでいた。

 私は智弘を送り出し、自分も仕事の支度をする前に洗い物をしようとスポンジに食器用洗剤を染み込ませ、蛇口のレバーを押して水を出したところだった。

 普段兄が電話をかけてくることなど滅多にない。しかもこんな朝早くに、と怪訝に思いながらも深く考えずにハンズフリーに切り替えて、もしもし、と電話に出た。

 妙に長い沈黙に耐えかねて、どうしたの、と念を押すように尋ねると、

「麻美が死んだ」

 潰れそうな声で、兄は言った。

 キッチンカウンターに置いた携帯電話から、死んだ、という言葉が水面の藻のように、ぶわりと八畳間に広がった。蛇口から水が流れ続け、手についたスポンジの泡が塊のままシンクに落ちた。

 唖然として答える間もなく、

「今、子供たち連れて実家にいる」

 と続いた声がその言葉に現実味を持たせ、私は何も言えなくなった。

 その後、電話の声は母に変わり、母の口から詳細が語られた。

 ガス自殺だって、という母の同情的な声にさらに衝撃を受けた。

 病気でも、事故でも、原因不明の突然死でもなく、自殺。ガスといえば家のコンロか、映画なんかでたまに出てくる毒ガスくらいの乏しいイメージしかなかったけれど、そこに準備から実行にいたるまでの明確な意思があることだけは、私にもわかった。

 兄と子供たちは、あまりに強烈な匂いに部屋にも入れなかったという。

 麻美に買い物を頼まれたという兄が、保育園に子供たちを迎えに行き、スーパーを経由してからマンションに帰ると、入口のところに人だかりができていた。顔見知りの男性が気づいて駆け寄ってきて、奥さんが救急車で運ばれたと慌ただしく伝えた。ガスが部屋の外にまで充満していて近づけず、同じ階の住民は全員避難している、とも。兄の携帯電話に病院から何度も連絡が入っていたのに、子連れで買い物に行っていた兄は気づかなかった。すぐに車で病院に向かったけれど、たどり着く頃には麻美はすでに息を引き取っていた。

「ちょっと待って」

 私は話についていけず、母の話に割り入った。

「迎えって、お兄ちゃんが? 麻美ちゃん、体調悪かったとか?」

「それが、麻美ちゃん、育児休暇で仕事は休んでたんだけどね、病気で外に出られなくて、家のことも子どものお迎えも、洋介が全部やってたって」

 知らないことがあまりに多すぎて、私は何も言えなかった。

 仕事を半日で切り上げ、帰り道にある実家へと急いだ。昼間ずっと暴れ回っていたという子供たちは、花柄のバスタオルを布団がわりにして、畳で小さな虫のように丸まって眠っていた。見慣れた光景。それなのに、何もかもがいつもと違っていた。

 名古屋に住んでいる兄は、子供が生まれてから月に一度は必ず、高速で一時間かけて岐阜の辺境にある実家に顔を出していた。麻美ちゃんはどうしたの、と父や母が心配を含ませて尋ねると決まって、麻美もたまにはリフレッシュしたいだろう、と兄が言うので、それもそうかと納得して、そのうち誰も尋ねなくなった。

 リフレッシュという言葉の軽さからはとても想像できなかった。華が生まれた翌年に咲の妊娠がわかり、その頃から麻美がだるいと言って朝起きられなくなり、徐々に外に出られなくなったことも。病院で精神的なものと診断されたが妊娠中は薬を飲めずに苦しんでいたことも。

 最近は薬を飲んでも気分の落差が激しく心配していた、と兄は正気を抜かれたような顔で言った。

 どうして相談しなかったのか、言ってくれれば何か力になれたかもしれないのに、と詰め寄りかけて、はっと口をつぐんだ。もしかして、麻美が口止めしていたのではないか。

 麻美のブログを、更新されるたびに見ていた。彼女の日常の一部を、それだけで知ったような気でいた。でも実際は、何も知らなかった。上辺だけしか見ていなかった。それは、彼女自身がだれにも内側の自分を見せようとしていなかったからではないのか。

 慣れ親しんだ実家の居間で、誰もが言葉を失くして目を伏せ、聞こえるのは子供たちの静かな寝息だけだった。

 理解もできないまま母親を失って、この子たちはこれからどうやって生きていくのだろう。

 私が、と浮かびかけた感情を慌てて打ち消し、冷たい麦茶と一緒に流し込んだ。


 短大を卒業して地元の化粧品メーカーに就職したときに、母に喪服を買ってもらった。季節に関係なく着れるようにと、上着のついた薄手の黒いワンピースと細かな粒の連なったパールのネックレス。就職祝いに両親からもらった腕時計の何倍もする値段にぎょっとしてもう少し安いのでいいよと身を引いたが、大事なものだからと母は押し切った。

「こういうのは突然だから、いつでも着られるようにきちんと用意しておかないと」

 あのときの母の、突然、という言葉を実感する。前触れがあったら、誰かが止められたのだろうか。

 まだ暑いからと思い上着を置いてきてしまったけれど、最近脂肪のついてきた二の腕が気になりだして、やっぱり持ってこればよかったと少し後悔する。ちらと隣を見る。子供たちをひざにのせた兄の、誰とも目を合わさずぼうっと宙を見つめる横顔に、胸が軋むように痛んだ。

 色白の顔に薄い化粧を施した麻美の母親はやけに大きな紙袋を手に下げていて、隣に明らかに彼女よりも歳下と見える茶髪のホストみたいな男を連れていた。ホスト風の男は退屈そうに口を緩めて麻美の母親に何か話しかけており、何かの間違いで入り込んでしまった通行人のような違和感があった。

 一番後ろの隅のほうに、面長の気弱そうな中年男性と、息子らしい大学生くらいの男の子が所在なさげに腰掛けている。複雑な家族関係が見えた気がして目を逸らすと、

「麻美ちゃんが家を出てすぐに再婚したらしいわよ」

 と隣の母が前を向いたまま小声でつぶやいた。どっちのことだろうと思ったが、目線はあきらかに一つ列を空けて目の前に座る麻美の母親とホスト風の男に向けられている。母が彼らにいい感情を抱いていないのは明らかだった。

 父が咎めるように顔をしかめてこちらを見たので、はいはい、と母が黙る。

 やがて僧侶が礼をして入ってきて読経を始めた。さざなみを打つようなのんびりした声、機械的なリズムを刻む木魚の音、たまに思い出したように入る鐘の音。二人の子供たちが退屈そうに足をぶらつかせ、落ち着かせようとする兄をからかうように膝に乗ったり降りたりを繰り返す。

 今この場で何が行われているのかあの子たちにはまだわからないのだ、と思うと、そのほうがいいはずなのに、胸を針で穴を開けられるように痛んだ。

 焼香が始まり、次々と前に出て並ぶ。私も父と母に続いて立ち上がった。遺影の前に立ち、手を合わせ、麻美ちゃん、と呼びかける。麻美は何も答えずに笑っている。子供が産まれたばかりの、私が知っている美しい姿のままで。

「それでは、お別れの時間になります。故人に花を手向けてください」

 女性のスタッフが手に下げた籠から、水で溶かしたような薄いピンク色の花を一本手に取り、麻美の細い手の横に置いた。兄が顔のそばに花を置き、泣きそうに震える顔を背ける。子供たちは兄に手を引かれながら、同じように花を受け取り、その横に花を置いた。

 あふれんばかりの花に囲まれ、陶器のように真っ白な顔で棺に横たわる母親を、子供たちはどういう感情で見ているのだろう。二人はさっきまで見せていた豊かな表情を消して、息を殺すようにじっと麻美の姿を見つめている。

 そのとき、麻美の母親がすっと私の横に立ち、私が置いた花のあたりに何かを置いた。それはドーナツの箱だった。真ん中に赤い文字で店名が書かれ、緑のドットがビーズのように散りばめられた平たい箱。

 あのやたらと大きな紙袋にはこれが入っていたのか、と戸惑いながら見つめていると、手品のように、次々と中から物が出てきた。ピンク色のレースのついたワンピース、表紙のすり切れた本やノート、シルバーの細いネックレス、白いリボンのついた靴。袋の中身を全て並べ終えると、棺桶の中は少女趣味のドレッサーのように煌びやかになった。

 麻美の母親は短く息をついて、今度は黒いハンドバッグから携帯電話を取り出すと、棺桶に向けて写真を撮った。近づいたり離れたりしながら、何枚も。

 その行為にはさすがにぎょっとした。涙を堪えていた父も、目をハンカチで押さえていた母も、何も言わなかったが驚いている様子で、静かに彼女の行動を見守っていた。

 兄は筋が浮き出るほど両手に手を込め、真っ赤な目で見つめていたが、やがてくるりと背を向けて、子供たちの手を引いて外に出ていった。

 父も母もどこかよそよそしかった。母が子供たちにお茶を飲ませくる、と控室に向かったので父も一緒についていき、私と兄だけがロビーに残された。

 親族たちがエレベーターで一階に降りてゆくなか、麻美の母親だけが取り残されたようにぽつんと遺影の前に立っていた。その猫背になった後ろ姿は生気を抜かれたように儚く見えたが、いきなり振り向いたかと思うと大股でこちらに向かってきた。そして兄の前に立ち、

「許さないから」

 と、迷いも遠慮もなく言い放った。

「私の大事な娘を死なせたあんたを、一生、許さない。骨も渡さないから」

 地獄の底から這い上がってきたような凄まじい憎悪に満ちた声は兄のみに向けられ、私の存在は完全に無視されていた。

 兄は何か言いたそうだったが薄い唇が破れそうなほど強く噛みしめ、

「申し訳、ありません」

 と深く頭を下げた。垂れた前髪の下で、兄が涙を堪えているのがわかった。その悔しさを押し殺すような口ぶりから、今まで何度も同じようなことを言われてきたのがわかる。

 子供が生まれてから、兄はずいぶん痩せた。仕事の合間を縫って保育園の送り迎えや家事をこなして。少しでも妻に楽させようと週末には子連れで実家に戻ってきて。それでも、いっさい、弱音を吐かないで。

 兄がどれだけ頑張っていたか、私が知っているのはほんの一部だ。でもそれを伝えたところで、この人にはきっと、足りないのだろう。娘と同じ、死にたくなるくらい辛い思いをあんたもしろと、その怒りに歪んだ顔が言っている。

 兄が頭を上げるより前に、麻美の母親は気が済んだように鼻を鳴らして翻し、エレベーターの前で待っていた再婚相手とともに去って行った。

「あの写真、どうするんだろうな」

 一回に着いたであろうエレベーターの扉を見つめながら、兄が独り言のようにぼやいた。

「どうするんだろうね」

 娘の死に顔を見返して、家で泣くのか。それとも、娘婿への憎しみを膨らませる材料にするのか。

「同情引くためにネットにあげたりしたら、慰謝料請求してやる」

 そんなことできるはずもないと知っているだろうに、兄は悔しそうに吐き捨てた。


 朝から延々と、警報装置が誤作動を起こしたようなけたたましい泣き声が部屋中に響いている。

「お願いだから泣きやもう、ねっ」

 私は懇願するように言うが、二人分の泣き声にすぐにかき消されてしまう。

「ほらほら、咲ちゃんの好きなアンパンマンだよー」

 高い声をだして目の前で振ったカラカラのオモチャは暴れ狂う腕によって無残にも床に叩き落とされ、さらに泣き声に拍車がかかった。実家で遊んでいるときはいつも、ゆきちゃんゆきちゃんと懐いているのに、まるで今初めて会ったかのような拒絶ぶりにはさすがに落ち込む。

 手続きなどで朝から名古屋に行くという兄に頼まれて子供たちを一日預かることになった。急だったこともあり相談もなく受けてしまったのがいけなかったのかもしれない。

「預かるのはいいけど、近所迷惑にならないようにしてよ。後々面倒になるのも嫌だし」

 と出がけに、迷惑そうに眉を寄せてつぶやいた智弘の一言が重くのしかかる。

 夫は岐阜市内の地方銀行に勤めている。新規キャンペーンの営業や雑務に追われているらしく、元から痩せている体形に疲れが重なって、余計にやつれて見える。役職について収入はあがったものの、家で過ごす時間はほとんどなく、負担になってはいけないといつしか言いたいことも堪えてしまう癖がついた。

 何をしても泣き止む気配のない子供たちに悪戦苦闘しながら時計を見ると、兄が子供たちを置いて出て行ってから、二時間近く経とうとしていた。こんなに小さな体で二時間休みなく泣き続けたことに驚愕する。お腹は空かないのか、疲れないのか、せめてどっちかだけでも泣き止んでくれたらと思うけれど、連鎖反応のように終わりがない。

 チャイムが鳴っていることに、すぐには気づかなかった。しかし執拗なほど間を空けずに押され続ける音がすきま風のように耳に入り込んできて、ちょっと待ってて、と二人から手を離して立ち上がる。

 はい、とドアを開けると、みっちりと太った女性がしかめ面で立っていた。たしか同じ三階階の、大澤さんという人だ。くっきりと皺の刻まれた顔に濃い化粧、大きな体にサランラップのように巻かれたはちきれそうなシマウマ柄のワンピースに目を奪われる。大澤さんは腰に手を当てて太々しくため息を吐き、

「あのねえ、すみませんけど、朝からうるさいのよ。子供の声が。ちょっとねえ、どうにかならない?」

「すみません、でも、泣き止まなくて」

 泣きたいのはこっちのほうだ、と言い返したいのを堪えて頭を下げると、大澤さんは呆れたように大きくため息をついた。

「泣き止まないってねえ、あなたの子でしょう。公園でも買い物でもどっか連れて行ってよ。みんな迷惑してるの、わかる?」

 みんな、という言葉に、この人だけではないのだとわかる。このマンションの近隣の部屋中に泣き声は響き渡っていて、この強そうな女性が住民代表として文句を言いにきたのだ。

 大澤さんは十分に及ぶ説教をし、その間話題は彼女の数十年前と思われる三人の育児についてまで及んだ。いかに自分が働きながらも苦労して子供を育て上げたかを語り、あなたは家にいるんだから楽でしょうとまで言いきった。

 何も知らないくせにと苛立ったが、あまりの勢いと顔の迫力に負けて、あの子たちは兄の子供ですとさえ言い出せなかった。

 私はすみませんすみませんとひたすら頭を下げ続け、その間も子供たちの泣き声は止まず、開けっぱなしのドアから洪水のごとく廊下に流れ出していた。

 ようやく解放される頃にはどっと疲れが押し寄せ、ふらつきながら床に座り込む。いつまで続くのだろう、これが。麻美もこんな気持ちだったのだろうか。一日だけじゃなく。明日も、その次の日も、ずっと。時計の中をぐるぐる回るだけの針のように途切れることのない日々の中で、少しずつ外に出るのが怖くなっていったのだろうか。

 手を伸ばし、わんわん喚きながら何かを必死に訴えている子供たちを引き寄せて抱きしめる。子供たちの涙につられるように涙が滲んだ。

「大丈夫だから」

 何が大丈夫なのかもわからないまま、小さく、語りかける。

 不安なのだ、とその小さな体から振動のように伝わってくる。突然母親がいなくなって、父親も出かけて、知らない場所に連れてこられて。不安で、泣かずにはいられないのだ。

 手足をばたつかせて一層声をあげる小さな子供たちを、それでも離さずにいると、やがて、泣き声がすんと弱まった。そして何かの拍子で糸が切れたマリオネットのように、急に二人とも動かなくなった。

 一瞬どきっとして見ると、子供たちは静かな息を吐きながら寝ていた。合わせたように重なる緩やかな呼吸、そっくりな寝顔に気が抜ける。カーテンを閉めた薄暗い寝室のベッドに二人を寝かせて薄手の布団をかけ、その隣に自分も横になる。

 薄暗い天井をぼんやりと見つめながら思い出すのは、棺桶に横たわる麻美の姿だった。たくさんの花や物に囲まれて眠る白い顔が、寝ても覚めても続く悪夢のようにまぶたの裏に焼きついている。

 寝かせたら起きて部屋の掃除をしようと思っていたのにいつの間にかうたた寝していて、チャイムの音で目が覚めた。

 またか、とため息を吐きたくなる。居留守を使いたかったが、夫の宅配便などだったら受け取らないとあとで小言を言われるので、重い体を起き上がらせる。心地よさそうに寝息を立てている二人を起こさないようそっとシーツをめくってベッドから出た。

 夏が終わっても出しっ放しになっているサンダルに足を突っ込み、二度目のチャイムと同時にドアを開けた。目の前に、あきらかに配達に来たのではないとわかるつばの広い帽子をかぶった髪の長い女性が、肩から大きなバッグを下げて立っていた。

 女性は穏やかな微笑みを浮かべながら、突然すみません、と軽く頭を下げるとこちらの都合も訊かずに、

「私たちは人々の生活がより幸せになるため、ボランティアで活動をしています。こういうものをお読みになったものはございますか」

 淀みない口調で話しながら、持っていた袋から五ミリ幅ほどの冊子を取り出して見せる。曇りガラスを間に挟んでいるみたいに捉えどころのわからない眼差しに戸惑いながら、いえ、と首を振ると、

「そうですか」

 女性は満足そうにゆっくりとうなずいた。

「私たちは周りの人々が正しい清らかな行いをされるよう助言や支援をして回っています。そのために勉強会なども行っていて」

 そのとき、突然部屋の奥から、ゴッ、となにかが落ちたような鈍い音がした。

 一瞬、閃光が走ったように目の前が白くなった。そのまま何も聞こえなかったように話し続ける女性を前に呆然と立ち尽くしていたら、数秒おいて、耳をつん裂くような泣き声が轟いた。

 慌てて寝室に戻ると、ベッドから落ちた咲が、床に仰向けになって泣いていた。手足を震わせながら、言葉にならない声で必死に、痛い痛いと訴える。

「咲っ!」

 慌てて咲を抱き上げると、頭の後ろにさっきまではなかった盛り上がりができている。泣き声で起こされて呆然と見つめていた華も、つられてわああと泣き出した。

「ごめんね、見てなくてごめんっ!」

 必死に声をかけながら、はっと思い出して玄関のほうを見た。開けっぱなしにしたドアの向こう、外の明るい日の下で、女性はまだ立っていた。深めにかぶった帽子の下でうっすらと笑って見えた女性は、近づくと心配そうに眉を寄せて声をかけた。

「お子様、大丈夫ですか?」

「すみません、今手が離せないので」

「小さい子がいるとなにかと大変でしょう。私も子供がいるのでわかります。もしお悩みがありましたらぜひ私たちの」

 この状況でまだ勧誘を続けようとする彼女に、お引き取りください、とだけ言って帰ってもらった。

 二人を抱えたままではドアを閉められず、カーペットに子供たちを下ろしてから玄関に戻ってドアを閉め、裸足で下りたために足の裏についた小砂を軽く払ってから部屋に戻る。

 それにしても今日はやけに来客が多い。それも望んでもいない客たちばかり。彼女たちの人の部屋に土足で踏み入りかねない遠慮のなさを思い出してげんなりしながら、ああそうか、と府に落ちた。

 子供がいるからだ。家に子供がいるだけで、事情もなにも知らない他人が自分を、母親、というくくりで見るようになる。精神的な幼さも脆さも関係なく。母親なんだから。母親なのに。母親として。他人だから何を言っても構わないという顔をして。

 麻美は、絶え間なく押し寄せてくる母親という名前のプレッシャーに、耐えられなくなったのかもしれない。

 けれど、どれだけ推測したところで、私にはわかりようもない。母親になったことがないから。そして、きっと一生、なれないのだから。


 結婚してから幾度となく、子供について尋ねられた。家族や友人、同僚たちに。そのたびに軽く笑いながら、そのうちに、とかわしてきたのだが、あるときふいに不安になって産婦人科に相談してみたところ、

「あなたの場合、体の構造的に、自然妊娠する確率は限りなく低いでしょうね」

 レントゲン写真を見ながら医者にあっさりと告げられたとき、一瞬何を言われたのかわからなかった。

 体の構造的に。それは生まれたときから、母親になれないのが決まっていたということだろうか。

 ショックのあまりその後の不妊治療の説明は何ひとつ頭に入ってこず、

「お辛いでしょうが可能性はゼロではないですし、あまり悲観しないように」

 と薄っぺらい慰めをまるで世間話のような軽々しさで吐かれ、その柔和な顔を張り倒したくなった。

 あんたにわかってたまるか。私が、どれだけ強く、子供を望んでいたか。周りの女たちが次々と母親になっていくなか自分だけが取り残されていく焦りが、次こそは自分の番と思っていたのが先送りにされていく悔しさが、暗い穴の淵から底をじっと見続けるような絶望感が、男のあんたにわかるか。

 家に帰って、友人から届いた出産報告のハガキを全部破り捨てた。メールも消した。何も見たくなかった。

 それから私は取り憑かれたように不妊治療について調べ始めた。本屋で妊娠について書かれた本を買い漁り、ネットでも調べた。病院の評判、費用、期間、治療方法、数々の体験談。苦労の末に双子を妊娠した人の記事を読めば希望が湧き、十五年にも及ぶ治療をしてもだめで泣く泣く諦めた夫婦の記事を読むと自分もこうなるのではないかと不安を煽られた。そもそも本当に可能性なんてあるのか。構造的に無理なのに。

 何度もくじけそうになりながら、それでも調べ続けた。不妊には女性だけでなく、男性側にも原因がある場合もあると知ったときは愕然とした。万が一のために智弘も病院に連れて行ったほうがいいかもしれない、それなら早いうちにと、一ヶ月後にようやく決意して打ち明けた。

  しかし、賛成してくれるものと思い込んでいた智弘の返事は、予想とはまるで違うものだった。

「べつに、いいんじゃないか。できなくても」

 危機感がまるで感じられないのんきな様子に言葉を失った。

 智弘は遠慮を滲ませながら続けた。

「いやべつに、いらないってことじゃなくて。いきなり治療だなんだって言われても、心の準備もできてないし。お金だってかかるわけだし」

 なにそれ。あまりの温度の差にどちらが正しいのかわからなくなり、頭の芯がぐらりと揺れた。心の準備なんて、私だってできてない。

「じゃあ、いつになったら、できるの、準備」

「わからないよ、そんなの」

 と困ったように言われて、無理だ、と悟った。あくまで自然にできたらいいという考えなのだ、この人は。自然にできないから言っているのに。すぐに始めなくても、計画を立てるだけでもよかった。これからどうするのか。いつまでまてばいいのか。話し合う気すらないのだ。

 私がどうしたいのかは、一度も訊かれなかった。

 結婚する前、智弘はたしかに、子供が好きだと言っていた。正月に集まった実家でまだよちよち歩きの華と手を繋いで庭で遊ぶ彼を眺めながら、自分たちの未来の光景を見ているように幸せな気持ちになった。

 けれど、帰りの車の中でぽつりと漏らした智弘の言葉が忘れられなかった。

「人の子供は可愛いけど、自分の子だったら大変だろうなあ」

 何気ない言葉だった。けれど、暗がりの中で見る横顔が、たまにならいいけど毎日一緒にいるのはきついと、彼の本音を語っていた。

 そうして、少しずつ、諦めていった。子供部屋になるはずだった部屋はほとんど物置のようになり、明かりをつけることもなく、いるのかいらないのかすらよくわからない物であふれている。マンションのローンと生活費以外に使い道のないお金ばかりがほかりっ放しの部屋の誇りのように蓄積されてゆき、だけど中身はいつまでたっても空っぽのままだ。

 平凡なのだろう。私だけじゃない。同じ悩みを持つ人は世の中にたくさんいる。でも。

 この何もない日々が一生続いていくのだと思ったら、何のために結婚生活を続けるのかさえもわからななくなった。子供のためだけではない。けれど子供のいない生活で、夫だけを一生愛し続ける。そんなことが可能なのか。当たり前にあると思っていた平坦な道を突然閉ざされ、足を滑らせて深い穴に落ちたように目の前が真っ暗になった。

 子供のいる友人との距離は自然と開いて行った。更新されるたびに見ていた麻美のブログもリストから消そうと思った。でも、できなかった。

『今日は咲の一歳の誕生日。家族みんなでお祝い』

『新しいオモチャをゲットしてご機嫌な二人』

『この子たちの成長を見るのが、私にとって一番の幸せ』

 ブログに綴られる言葉は、ありきたりだけれど、幸せに包まれていた。甘い砂糖菓子を乗せたショートケーキがそれだけで輝くように。そこには私が欲しいものが、全部詰まっていた。


 お昼はうどんにした。何がいいかと尋ねると、兄から好物を聞いていた通り、二人ともぐすぐす鼻を啜りながらも迷わず、うどん、と答えたのがおかしかった。

 袋入りのうどんを鍋に開けて茹で、ワカメと卵と麺つゆを多めに溶かして入れる。沸騰し始めるのと同時に、出汁の匂いが狭い台所に広がった。

 湯気がのぼるつゆごとうどんをどんぶりに流し入れ、少し冷ましてから子供たちの前に置くと、さっきまで泣き通しだったことなど忘れたように、

「いただきまぁす!」

 と元気に言って食べ始めた。

 微笑ましく見つめながら、無邪気な笑顔はこの子たちの精一杯の強がりなのかもしれないと思う。そしてまた、麻美に問いたくなる。

 どうしてこの子たちを置いていったのか。いらないなら、くれればよかったのに。

 そんな言葉を呑み込んで自分もうどんをすすり、おいしいねと笑いかけた。


 三日前に更新された最後のブログには、満面の笑みの子供の写真が写っていた。いつもなら何を食べた、どこに行った、など日常の風景が事細かに綴られているのだが、この日は、

『この子たちは私の宝物』

 という短い文章だけだった。シンプルな言葉が胸に染みて、思わずコメントを書き込んだ。コメントを残したのは初めてだった。

『素敵なお母さんですね。私の憧れです』

 麻美は何を考えて最後のブログを更新したのだろう。ここには本心はいっさい書かれていなかったのだから、今さら見直したところで何もわからないと知りつつブログを開いて、え、と声が漏れた。

 麻美のアカウントから、私のアカウント宛に、ダイレクトメッセージが届いていたのだ。

『由紀さんへ』

 タイトルに書かれた自分の名前に、心臓を掴まれたように大きく揺さぶられた。

 どうして麻美が私のアカウントを知っているのか。

 恐る恐る画面に近づけた指が止まる。メッセージが届いたのは今日の朝になっている。

 麻美の携帯電話は兄が持っているはずだ。まさか兄が。でもどうしてわざわざそんなことを。

 そのとき、また、チャイムが鳴った。今度は何だとうんざりした気持ちでドアを開けて驚く。

「ただいまー。ありがとな。どうだった、二人とも」

 ドアを開けた途端、のんきな兄の顔に一気に緊張が抜け落ちた。

「早かったね。夕方までかかるって言ってたのに」

「いや、やっぱり由紀一人じゃ大変だろうと思ってさ。まだ手続きとかいろいろやることあるけど、急ぎじゃないのは後回しにした」

「べつに、気にしなくてよかったのに」

 慣れていないからと気を遣われた気がしてむっとしながら言うと、兄は、いやあ、となぜか照れたように頭を掻いた。

「とか言いつつ、あいつらどうしてるかなーとか泣いてないかなーとか気が気じゃなくて、帰ってきちゃったんだよね」

 子煩悩な父親そのものの口ぶりに呆れながら、兄がいつも通りでいてくれることにどこかほっとしていた。

 ふと、兄が手に下げている袋が目に入った。ぼかしの入ったビニール越しに見覚えのある平たい箱がうっすらと見える。

 それ、と私が口にする前に、兄がいそいそと靴を脱いで部屋にあがり、

「はなー、さきー、いい子にしてたかあー」

 と飛びつきそうな勢いで駆けて行ったので、私は苦笑しながらドアを閉めた。

 パパだ! と子供たちが喜んで抱きつき、ようやく安心しきったように戯れ始めた。

 私ははしゃぐ声を聞きながら、台所の壁に背をもたれかけ、さっき思わず閉じた携帯画面をふたたび開いた。

『由紀さんへ』

「asami.」という名前で、ブログを通して送られてきた、麻美からのダイレクトメッセージ。

 新着マークがついている手紙のアイコンを指で押す。一瞬で表示されるはずの文章がやけに重い気がした。

 画面が文章に切り替わってすぐ、麻美だ、と思った。それは紛れもなく、いつも読んでいた、麻美の文章だった。


『突然こちらからメッセージを送って、驚かせてしまったらごめんなさい。こちらのアカウントが由紀さんだというのは、じつを言うと結構前から気づいていました。気づいた理由はご想像にお任せします。

 突然ですが、私はこれから死ぬつもりです。洋介くんからいろいろ事情を聞いて、頭がおかしくなってしまったと思うかもしれませんが、私は今とても落ち着いています。冷静な部分がまだ残っているうちに、死ぬことにしたのです。

 私は幼い頃、父とのケンカが絶えずストレスで気が狂った母から暴力を受けていました。叩かれたり、階段から突き落とされたり、真冬に一晩中ベランダに放置されたり、母の気分によって程度は様々でしたが、死を覚悟したことも、何度かありました。

 小学校に上がってすぐに離婚が決まり、母についていくことになりました。二人での生活が始まると、母は今度は人が変わったように、優しく振る舞うようになりました。抱きしめて愛してると何度もささやいたり、泣きながら謝り続けたり、あまりの変わりぶりに私は戸惑うばかりでした。

 変わってからの母は、私に惜しみなく物を与えるようになりました。かわいい服や靴、少女趣味の本や漫画、甘いお菓子。母はよく仕事帰りに、私のためにとドーナツを買ってきたけれど、私はドーナツが嫌いでした。とくに母が買ってくるものは見た目は華やかで可愛いけれど、どれも甘ったるくて食べた後は必ず胃がもたれました。けれども嫌だとは言い出せず、おいしそうに食べるのに必死でした。私は家の中ではつねに母の顔色を気にして、そのことでずっと息苦しさを感じていました。

 私が就職した頃、母の再婚が決まりました。新しいお父さんのことはよく知りませんでしたが、とにかくこれでようやく家を出られる、母から解放される、と喜びました。お金のことでは頼らないから一人暮らしをしたいと打ち明けると、母は意外なほどあっさり受け入れてくれました。

 仕事を始めて洋介くんに出会い、それまで恋愛どころかまともな人付き合いすらしてこなかった私は、ようやく救われた気がしました。洋介くんは体も心も大きな人で、私のちょっとした失敗も笑って許してくれる優しい人でした。お互い両親が幼いころに離婚していることで親近感がわいたのもあり、この人なら、と思いました。この人なら、一緒に生きていける。子供が生まれて、新しい家族と一緒に、私も生まれ変われる。絶対に、母のようにはならないと。

 でも、それは私の思い違いでした。私は、少しも母から解放されていませんでした。

 咲の妊娠がわかった頃から、私は徐々に心のバランスが崩れていくのを感じていました。華が毎日夜泣きをしていて、咲が生まれてからはさらに激しくなり、昼夜関係なく続く二人分の泣き声に耳を塞ぎ、そのうち子供に笑いかけることすら難しくなりました。

 誰かに指を差される気がして外に出るのが怖くなり、保育園の送り迎えもできず、病院通いを続けながら、自分が少しずつ母に近づいていく気がしてぞっとしました。でも、きっとよくなる。また家族で出かけられる日がくると、わずかな希望だけを持ち続けていました。

 でも、あるとき、洋介くんが日曜日にどうしても外せない用事で子供たちをおいて出かけたとき、咲が何時間も泣き止まず、私は無意識に、咲の頭を叩いてしまいました。それでも泣き止まなかったので、思いきり床に叩きつけました。咲の泣き声がさらに激しくなって、華は私を呆然と見つめて、つられて泣き出しました。

 私は涙も出ない乾いた目で子供たちを見つめながら、自分が恐ろしくなりました。

 そして確信しました。このままでは、いつか、この子たちを殺してしまう。

 私がこの子たちの母親である限り、この子たちは絶対に幸せになれない。

 私が今も母に縛られ、怯え続けているように。

 この子たちもいつか、私を恐れるようになる。

 母親として、子供たちをこれ以上ないほど愛しく思うのに、同時に子供たちの首を締める自分を、容易に想像できてしまうのです。

 だから、私は、死ぬことにしました。母と同じにならないために。ほかに選択肢はありませんでした。

 長々と重い告白をしてしまい、ごめんなさい。今まで誰にも言えなかった気持ちを、最後に誰か一人にでも伝えたくなって、最初に浮かんだのが、由紀さんの顔でした。

 由紀さんには感謝しています。

 私のつまらない日記をいつも読んでくれたこと。ここに綴った日常は、私の理想でした。現実があまりにも理想と遠く、そんな幸せは二度とやってこないと知っていたけれど、嘘の私を素敵なお母さんと言ってくれたこと、嬉しかったです。

 洋介くんへの手紙も書きましたが、母のことには一切触れていません。事実を知ったらきっと、彼は母を責めるでしょう。でも、洋介くんには、人を憎んだりするのは似合わないと思うから。

 家族の縁が薄かった私にとって、栗林家の一員になれた五年間は、今までで一番幸せな時間でした。

 でも、もう終わりにします。ごめんなさい。迷惑をかけると思いますが、どうか、洋介くん、華と咲のこと、よろしくお願いします。 麻美』


 さようならという言葉はなかった。ただ、終わり、という物語の幕引きのような単純な言葉が、静かに胸を打った。

 麻美はあえて、葬式など全部終えた後で私がメッセージを読むよう、日付指定をして送ったのだ。兄への手紙もきっとすぐには見つけられない場所に隠してあるのだろう。誰にも邪魔されないように。買い物を頼んで、夫と子供たちが帰ってくるのを遅らせて。確実に実行できるように。

 たしかに、麻美は冷静だったかもしれない。

 それでも、冷静だったなら、どこかで留まってほしかった。ほかに方法がなかったなんて、そんなことは、絶対にない。

 たとえ元に戻れないのだとしても。あなたができないなら、私がかわりになりたかった。私なら、きっとなれた。あなたが理想としていた母親に。あなたのかわりに。

 兄はきっと自分を責める。あなたがそれを望んでいなくても。永遠にあなたの死に捕われ続ける。

 母が再婚したとき、私は六歳だった。新しくできた兄は大きくて優しく、歳は離れていたがいつも一緒に遊んでくれた。私はたちまち兄を好きになった。その感情が家族という枠を踏み越えたところにあることにはずっと前から気づいていたけれど、大人になるにつれて、自分の中でうまく処理できるようになった。見た目も性格も兄と正反対の智弘と結婚したのは、自分なりの兄離れのつもりだった。

 なのにこんなことになって、わたしはまたおかしく

「由紀?」

 名前を呼ぶ声に、はっと顔をあげる。

「大丈夫か? 疲れてる?」

 心配そうに覗き込む兄に、私は慌てて首を振る。

「大丈夫。ちょっと考え事してただけ」

 兄はそっか、と内容には踏み込まずに頷き、そうそう、と箱を差し出した。真ん中に書かれた赤い文字の店名、緑色のドットが全体に散りばめられた平たい箱。

「由紀、ここのドーナツ好きだったろ。昔並んでまで買わされたの思い出してさ。名古屋駅行ったついでに買ってきたんだ」

 それ、と、私はぼんやり見つめる。

「麻美ちゃんのお母さんが」

「覚えてるよ、もちろん。俺、知らなかったんだ。麻美がドーナツ好きだったなんて、ちっとも」

 え、と不意を突かれて顔をあげると、兄は泣きそうな顔で笑っていた。

「棺桶に入れるってことは、よっぽど好きだったってことだろ。俺の前では、あいつ、一言もそんなこと言わなかったから。というか、ほとんど何が欲しいとか言わなかったんだよ。あんないけ好かない母親だけど、やっぱ親だけあって好きなものとかわかってるんだなって」

 違う、と喉まで出かかった言葉を飲み込む。

「そんなことない。お兄ちゃんは、麻美ちゃんをわかってたよ。支えてたよ、ちゃんと」

 少なくとも、身勝手な愛情を押しつけるだけの母親よりはずっと。

「うん。ありがとう」

 しっかりと私の目を見据えて答えた兄の目には、薄く涙が滲んでいた。

 それでも、麻美は死んでしまった。兄と子供たちを残して、美しいまま逝ってしまった麻美が、私は憎らしかった。

 私はドーナツが嫌いでした。

 麻美の告白を思い出す。最初で最後のメッセージに込められた言葉の意味が、今ようやく、遅効性の薬のようにじわじわと伝わってくる。

 麻美には、愛情というものが、わからなかったのだ。甘ったるいドーナツや可愛らしい服や小物にくるまれた愛情は、麻美にとっては偽物でしかなかった。母親から与えやれた歪な愛情は麻美にも受け継がれ、子供にも伝染していくのを何よりも恐れた。それは、まるで毒のようだと思った。鮮やかな色彩で固められた甘い毒は、気づかないうちに人の体内に入り込み、長い時間をかかて死に至らしめる。

 麻美の秘密を教えるつもりはなかった。誰にも、たぶん、これからも。

「よし、みんなでおやつにするか」

 兄がドーナツの箱を開けると、子供たちはわっと目を輝かせて喜んだ。赤、ピンク、黄色、オレンジ、複数の色が織り交ぜられた艶やかなドーナツ。

 私は皿と飲み物を机に運び、一人一人の前に置いていく。兄が子供たちの顔を交互に見て、どれにする、とにこやかに尋ねる。

「たくさんあるから、特別に一人二個食べていいぞー」

 ほんと!? やったあ! 子供たちが歓喜の声をあげる。

 一人一人の手に渡る飴のように艶やかなドーナツを見ながら、思う。

 棺桶に入れられたドーナツの箱。あの中身は入っていたのだろうか。もしかしたら空っぽだったのかもしれない、と。

 ドーナツを齧る。それは毒とはほど遠い、ただ甘いだけの、よく知っている味だった。


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