他人の食卓

結婚生活も二年目に入り、何かパートでも始めようかと求人サイトを眺めていたら、ふと目に留まる仕事があった。

 毎日の料理ーー正確には料理になる前の食材を配達するというものだ。献立を決めるのが大変、あるいは買い物に行く時間がない人のために、会社側が献立を決めてそれに合った食材をレシピ付きで顧客の家に配達する。最近ではメニューもオシャレでバリエーションも多く、若い人も利用する人が多いらしい。勤務条件もよかったので、私はすぐに電話をかけた。

 初日。社員から簡単な説明を受け、配達に出かけようとしたとき、一言注意を受けた。

「私たちの仕事はお客様の家に料理を届けること。それ以上はなるべく踏み込まないように」

 それがこの会社のルールだと。

 でも、と私は内心疑問に思った。顧客とのコミュニケーションだって大切な仕事のうちではないのだろうか。

 実際、お客さんたちはみなお喋り好きで、私は彼女たちとすぐに仲良くなった。


「いつもありがとうね。子どもが二人もいるとなかなか買い物にも行けなくてね。ここの料理はおいしくて子どもたちも喜んでるのよ」

 彼女は私のお客さんの一人、安藤さん。四十代前半で、ご主人と、子どもが二人の四人家族だ。いつもニコニコと人がよく、感謝の言葉を添えてくれる。家族をとても大切にしているのが見ていてわかる。彼女が作る料理なら、きっとおいしいに違いない。

 半分開いた玄関からは、中ではしゃぎ回る子どもたちの声が聞こえてくる。楽しそう。つい、つられて笑みが零れる。

「また明日も来てね。楽しみにしてるわ」

 安藤さんは満面の笑みで手を振った。そんなことを言われると、私も明日が楽しみになる。


 配達のペースはお客さんの希望に合わせてそれぞれ違う。毎日の人もいれば週に一度の人もいる。毎日顔を合わせる安藤さんとは、歳は離れていたが、自然と距離が近くなっていった。

「今日もありがとう。子どもがまだ学校から帰ってなくて、暇してたの。ちょっとお茶でもどう?」

 まだ配達は残っていたが、時間には余裕があった。疲れていたのを理由に、少しだけお邪魔することにした。

 さっぱりとした綺麗な玄関だった。入ってすぐ、家族四人の写真が目に入る。本当に仲のよさそうな家族。私は微笑ましく思いながら、お茶をご馳走になった。

「昨日作った豚の角煮ね、とってもおいしくて、主人に大好評だったのよ。次はもっとうまく作れるといいわ」

「それはよかったです」

 私は笑って答えながら、そんな風に幸せそうに家族の話ができる彼女を、心から羨ましく思った。

 私には子どもがいない。いつかは欲しいと願っているけれど、仕事が忙しい夫はあまり協力的ではない。食事すら一緒にとることはほとんどなく、最近では料理も次第に手を抜くようになっていた。結婚して地元を離れた私には、そんな悩みを相談できる友達もいなかった。

 相談してみようか。ふと思った。この人になら、と。でも、言えなかった。そんなことを言えばきっと気を遣わせてしまう。私は、家族の話を楽しそうにする彼女が好きだったのだ。

 彼女が作る料理の話を聞いていると、その食卓の光景がありありと頭に浮かぶようだった。笑顔の溢れる、幸せに満ちた食卓。そんな光景を想像すると、日々感じているものさみしさをふっと忘れてしまえるのだった。

「ご馳走さまでした。おいしかったです」

「こちらこそ楽しかったわ。明日も楽しみにしてるわね」

 私は頭を下げて安藤家をあとにした。

 車に乗り込もうとしたとき、ふいに声をかけられた。振り返ると、お客さんの一人である、乾さんが立っていた。

「こんにちは。ちょうど今乾さんのお宅に向かおうと思っていたんです」

「そんなことよりあなた、今、安藤さんの家から出てきたわよねえ?」

 はあ、と答えると、乾さんの目が鋭く光った。

 何をしていたのかと訊かれたので、正直にお茶をご馳走になったと答えた。

 乾さんは驚いたように目を見開く。

「それ、本当?信じられない。あの人、三ヶ月前の事故でご家族を亡くしてから、一歩も外に出てないのよ。誰とも話そうとしないし、みんな心配してるのよぉ」

 今度は私が驚く番だった。そんな馬鹿な。じゃあ私が毎日配達している四人分の食材は。あの楽しそうな子どもたちの声は。

 一体、誰のものだったのーー?


 きっと何かの間違いだと思いつつ、三ヶ月前の新聞を調べてみると、一家四人が巻き込まれた交通事故の記事を見つけた。家族旅行の途中、高速での玉突き事故。生き残った生存者の名前も。そこには確かに、彼女の名前が記されていた。

 他人の食卓は、想像しているうちが一番いいのかもしれない。私はこのとき初めて、そう実感した。


「いつもありがとう。助かるわ」

「いえいえ、こちらこそ」

 私は今日も、彼女の家に“料理”を届ける。家族四人分の料理を。

 私たちの仕事は、人の家に料理を届けること。それ以上踏み込んではいけない。それがルールなのだ。


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