死神の役目

 騒がしい定食屋の壁にもたれて私は立っていた。六つある席はほぼ埋まっており、カウンター席も全て埋まっている。狭苦しい店だ。

 私は目の前で食事をする若者に目を向けた。入口付近の席に座り、一人で黙々とハンバーグを食べている。それにしても、食べるのが恐ろしく遅い。

 私の元にはこの若者に関するデータがある。名前、年齢、経歴、身体的特徴、性格、そして死因。

 ーーそろそろ時間か。

 私は壁から体を離し、若者の背後に立った。これが若者にとって最後の晩餐だ。しかし残念ながら、最後まで味わうことは叶わない。

 その瞬間、ガシャン、と派手な音がして、窓ガラスが割れた。

 私が鎌を振り下ろすと時間が止まった。あれだけうるさかった客が、ピタリと口を止め、手の動きを止めた。

 私の振り下ろした鎌が若者の首をハネた。若者の頭部はハンバーグの肉片を口に挟んだまま宙を飛んだ。

 若者は本来ならここで死ぬはずだった。飛んできたガラスの破片が首に刺さり、大量の血を吹き出して。

 ーーがしかしそのとき、あり得ないことが起こった。

 勢い良く飛んだ頭部はブーメランのようにクルクルと回転しながら周囲をぐるりとまわり、やがて戻ってきてピタリと元の位置に収まったのだ。

 その瞬間に止まっていた時間が動き出し、ざわめきが戻ってきた。

「……⁈」

 私は己の目を疑った。何が起こったのだ。

 若者は何事もなかったかのように食事を再開した。たった今、頭と胴体が切り離されたというのにだ。

 私は何が起こったのかと、しばしその様子を見つめていた。こんなことは初めてだった。

 私は送られてきたデータをもう一度確認した。そこにはこう書かれていた。

『死因:窓ガラスの破片が首に刺さって死亡』

 窓ガラスは確かに割れて穴が空いたが、派手な音の割に、破片が少し床に散ったくらいだった。怪我人もなく、客席に届いてすらいない。

 慌てて店員が駆けつけ、掃除を始めた。

「なあに、イタズラかしら」

 夫婦らしき二人組の女の方が眉をひそめて言い、

「物騒だな」

 と男の方が答えた。

 そう言いながらも、彼らは先ほどと同じように食事を続けている。

 若者はハンバーグをゆっくりと味わって咀嚼し、最後の一口を食べ終えた。満足そうに備え付けのナプキンで口まで拭く余裕ぶりだった。

 私は舌打ちした。この若者は、死ななければならないのだ。今ここで、必ず。

 そうこうするうちに、すぐに新しく書き換えられたデータが送られてきた。最後の一部分だけが変わっている。

『死因:毒入りのお茶を飲んで死亡』

 二度も失敗は許されない。私は今度こそと勢いよく鎌を振り下ろし、若者の首をハネた。客が会計を終えて扉を開け、外からの風がひゅうと舞い込んできたところで時間が止まった。

 スパンと小気味よい音とともに若者の頭部が宙を飛んだ。頭部はまたしても、いやさっきよりも大きく店内をクルクルと回ったかと思うと、あろうことか開いた扉をするりと抜けて外に出て行った。

「待てどこへ行く!」

 思わず私は叫んだ。

 こうしてはいられない。早く追いかけて捕まえなければ。

 夜の街中を若者の頭部がびゅんびゅん駆け抜けてゆく。人も車もネオンも何もかもが時を止めている。どこまで行くのだと思ったそのとき、

「⁈」

 突然、若者の頭部は大通りの中心で急降下したかと思うと、道路に飛び出したらしい猫の首を引っ掴んだ。そして、ゆっくりと歩道に下ろした。猫は前足を出したまま止まっている。猫がいた車道のすぐそばにはトラックが迫っていた。

 唖然とする私の横を素通りし、頭部は来た道を戻ってゆく。そして何事もなく店に戻り、またしてもピタリと首に接着した。

 私は敗北感に打ちひしがれながら舌打ちをした。

 また新たなデータが送られてきた。

『死因:腐ったアイスクリームを食べて死亡』

 店員がデザートの抹茶アイスを運んできた。いかにも腐っていそうなグロテスクな色をしている。

 ーー今度こそ、三度目の正直だ。

 腐っているとも知らずにスプーンでアイスをすくって口に運んだ若者の首を、私の鎌が勢いよくハネた。

 若者の頭部はその勢いのまま割れた窓からボールのように飛び出した。

 若者の頭部は止まった夜の街を駆けてゆき、またしても車道に飛び出した。先ほどよりも遠くまで来たようだった。

 道路がひどく混雑している。よく見るとカーチェイスを繰り広げていたらしい逃走車とパトカーが原因のようだった。

 若者の頭部は逃走車のエンジンを切り、犯人のポケットからキーを抜き取って道路に放り投げた。それからパトカーのエンジンも切った。

 ……こいつは千里眼でも持っているのだろうか。いったい何者なんだ。

 まともな思考力すらもはや失った私はよろよろと若者の頭部の後を追って店に戻った。

 頭部は当たり前のように元いた首に収まり、腐っているはずのアイスを食べ終えて満足そうに腹をさすっている。

 その横で私は地団駄を踏んだ。

 ーーこいつ、私をおちょくっているとしか思えない。

 殺気を燃やしているところに、また新たに書き換えられたデータが送られてくる。

『死因:強盗犯に刺されて死亡』

 これが最後だ。私は覚悟した。すでに三度も失敗をしているのだ。そうそう何度もミスが許されるはずがない。

 そのときだった。

「キャーッ!」

 突然、叫び声が店内に響いた。

「動くんじゃねえぞ」

 先ほどの夫婦の男の方が、にやにやと下卑た笑みを浮かべながら女性の首にナイフを当てていた。女の方は見張り役なのか、扉の前で腕を組んで立っている。

 若者は止めに入ったが乱闘になり刺されて死ぬはずだった。死ななければならないはずだった。

 私は渾身の力を込めて鎌を振りかざし、

「死ねええエエエ!」

 と叫びながら若者の首をハネた。

 時間が止まった。

 若者の頭部が店内を見下ろすようにクルクルと旋回し、ついでのように軽々しく男の手からナイフを取った。そして、厨房の『不燃ゴミ』と書かれたゴミ箱に捨てると、涼しげな顔をして自分の首に戻った。

 時間が動き出す。何事もなかったかのようにーーとはさすがにいかなかった。

 店内は騒然とした。騒ぎを聞きつけた警察がやって来て、武器を失った強盗犯は呆気なく捕まった。

 若者は「ごちそうさま」と言って代金をレジに置き、店の外に出た。

「おい待て。お前、何者だ?」

 私は若者の前に出て道を塞いだ。

 見た目はどこにでもいる普通の若者だ。しかし、ただの人間でないことは確かだった。

「そういう君は誰なの?」

 若者は驚いたように目を見開いて私を見上げた。たった今私の存在に気づいたかのように。

「私は死神だ。お前の命を奪いに来たのだ」

「ええ?そんなこと急に言われても……」

 私はガシッと若者の肩を掴んだ。

「頼むから!お願いします!今日中にあんたの首取らないと俺の首が危ないんだよおおおお!」

 もはや意地もプライドもなく私は泣きながら懇願した。

「わかったよ」

「えっ?」

 私は驚いて若者を見つめた。

 若者は慈悲に満ちた目で私を見返した。

 ああ、やっとーー

 やっと目的を果たせるはずなのに、どういうわけか、私は鎌を振るのを躊躇った。

 本当に、この若者の命を奪っていいのだろうか?

 私は死神だ。決められた命を決められた時刻に刈りあるべき場所に運ぶこと、それが役目だ。今まで数えきれないほどやってきたことだ。なんの罪もない人間だろうが、どんなに慈悲深い人間だろうが、一切躊躇したことはなかった。

 だがーー私は思った。この若者よりも、死ぬべき人間は五万といるのではないか。

 猫を轢きそうになっていたトラック運転手は薬物中毒で危険運転をしていたし、カーチェイスを繰り広げていた逃走車は血も涙もない劣悪な詐欺師だった。あの強盗夫婦は幼い子どもがいるにも関わらずロクに働きもせず強盗に押し入るような最低な輩だ。

 不幸しかもたらさない人間より、この若者のような慈悲に満ちた人間こそが、真っ当に人生を送るべきではないのか。

 この若者には未来がある。それをここで断ち切ってしまっていいのだろうか。

 私が、この鎌で、この手でーー

 私は鎌を手放した。カランと鎌は地面に落ちると、呆気なく、粉々に砕けた。

 そのときだった。



「はい、きみ、失格ね」



 突然、頭上から声が降ってきた。

 聞き覚えのある声だった。

「は?」

 おそるおそる顔を上げると、若者がぐにゃぐにゃと体をうねらせながら、次第に老人へと形を変えてゆくではないか。

 私は驚愕した。目の前に立っているのは、私の上司だった。顔は笑ったままだが、目がまったく笑っていない。私は震え上がった。

「全然ダメだよきみ。失格。まあワシもちょっと遊びすぎちゃったから、多めに見て二十点」

「…………」

 そういえば、近々昇格試験があるとか言っていたような。まさか抜き打ちだとは。

「死神は人の生死に私情を挟んじゃいけないの。もうね、絶対やっちゃダメなタブーなの。わかる?」

 死神の役目は、人の魂を運ぶこと。速やかに、間違いなく、たとえどんな不測のアクシデントがあろうと、冷静な判断をしなくてはならない。そして、決して、人の生死を操ろうなどと考えてはいけない。善人だけが生き、悪人だけがいなくなる、そんな世界があってはならない。善と悪、この世界はその均衡を保ってこそ成り立つのだとーー

 それは、一番はじめに教えられたことだった。

「罰としてきみ、見習いからやり直しね」

 私はガクリと地面に崩れ落ちた。

 一人前への道のりは遠い。

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