コルセット

 ブローブラシの筆先が眉をたどってゆく。うっすらと目を開けると、目の前に座る二人連れ、母娘の娘ほうと目があった。事前に目を通していた参加者のプロフィールを思い浮かべる。西村美奈子と西村麻美。娘のほうが麻美だった。
 麻美は大きな目をさらに見開いて私の顔を凝視していた。私の顔というより顔が色づいていく過程を、それを施す者の手の動きを、一瞬たりとも逃さないよう頭に詰め込もうとしているようだった。たまに店長が話すのをやめて参加者に声をかけても視線をそらさない。美容関係の勉強をしているのだろうか。すごい集中力だ。
 店内にはスタッフが私を入れて三人、女性の参加者が五人いる。全員が私の顔を見ているのだが、正面に座る麻美があまりにも強く熱のこもった目を向けてくるので、私はほかの視線を感じられなくなった。
「口紅ははじめに軽く色を乗せてから、唇のしわを埋めるように縦に塗っていきます」
 店長が私の唇に明るいオレンジ色の口紅を塗る。指を添えてなじみ具合を確認し、店内を見渡す。
「リップは顔全体の印象を決める大事なポイントです。まずはいろいろ試して、ご自分の好きな色を見つけてください」
 真ん中の大きいテーブルには絵の具のパレットみたいに何種類もの口紅が並んでいて、ブラシで好きな色を試せるようになっている。五十種類あるので、普段なじみのないカラーや新色も試せて嬉しいといつも好評だ。
 月に一度、職場のエステサロンで開催している無料のメイク教室で、毎回モデルを頼まれる。私は事務員なので、エステや化粧品販売の仕事がなく時間に融通がきくのと、店長いわく「化粧映えする顔」だかららしい。化粧映えすると言えば聞こえがいいけれど、つまりビフォーアフターがわかりやすい薄くて地味な顔ということなのだろう。
 それで言えば麻美は「化粧映えのしない顔」だった。大きな目にふっくらとしたピンクの唇、化粧をほとんど必要としないはっきりとした顔のつくりが印象的だった。
 教室が終わり、所長が私の前に鏡を置いて
「玲ちゃん、おつかれさま。どう?」
 と感想を求めた。
私は、すごい、別人みたいです、とレコーダーのように答えた。何度も口にしてきたお決まりのセリフだが、その通りだった。
 これは誰だろう。メイク教室でモデルをやるたび、出来上がった自分の顔を鏡で見て違和感を覚える。
 教室で使う化粧品は宣伝も兼ねているため売出し中の新色と決まっていて、その中から店長が季節感とモデルに似合う色を考えて選ぶ。プロのメイクに文句をつける気はないのだがどうしようもない不自然さが拭いきれず、私は毎回、呆けた顔で鏡を見つめることになる。
 イベントのとき以外めったに客の前に出ることがないので、普段はほとんど化粧というものをしない。仕事に行く前に、髪を整えるついでに日焼け止めと下地を軽く塗るくらいだ。だから余計にいつもの薄い顔と、作りこまれたこの、濃淡がくっきりとした顔との違いに落ち着かなくなる。
 外は雨だった。絶え間なく続く雨が、ガラス張りの広い窓にヴェールのような膜を張っている。全員にお茶とお菓子を配り終わったあとで
「お母様、お肌の張りがとても五十代とは思えないです。何かしていらっしゃるんですか」
 と店長がいちばん年長である麻美の母親の肌を褒めた。ほかの参加も、ほんとですね、と賛同する。麻美は自分の母親が褒められるのが嬉しそうに、隣でほほ笑みを浮かべながらお茶を飲んでいた。
「最近ね、しわアイロンっていうのをやってるんですよ。アイロンでしわを伸ばすように、指でぐうーっと顔を引っ張るの」
 母親はほうれい線に両手の人差し指を当て、横に引っ張って実演して見せた。
「なるほど。だからそんなにお若いんですねえ」
 店長が感心して言うと、そんなことないですよ、と母親は手を振りながら満足そうに笑った。
 
 参加者たちが出ていってテーブルを片付けていたとき、店長があっ、と声をあげた。
「あの娘さんのほう、チケット入れてなかったかも」
 教室のあとにお土産と一緒に渡すエステの割引券が一枚残っていたという。
「玲ちゃん、渡してきてくれる?」
 私はチケットを受け取り、傘もささずに店の外へ飛び出した。
 店の裏側の駐車場に回ると、紺色とピンク色の傘が見えた。ちょうど車に乗り込もうとしていたところで
「西村さんっ」
 呼びかけると、二つの傘が同時に振り向いて顔を見せた。
「大変申し訳ありません。チケットが一枚入ってなかったみたいで」
「あっ、ほんとだ」
 麻美が袋の中を覗いて言った。
「よろしければ、また今度エステにいらしてください」
「はい、お願いします!」
 麻美は雨の日に咲く花のように顔をほころばせて、車の助手席に乗り込んだ。
 過ぎ去った車を見ているうちに雨が本降りになって、私は慌てて店に戻った。
 
 麻美と再会したのは、その翌月、梅雨が明けてからりと晴れた朝だった。店長が朝礼で今日から新しい人が来るから、と言って、開店前にやってきたのが麻美だった。
「西村麻美です。まだまだ未熟ですが、よろしくお願いします」
 そのときに初めて、麻美が二十三歳で、私の二つ歳下だと知った。エステサロンで働いていた経験があり、前の店を辞めて求職中だったという。求人情報誌で募集を見つけ、見学も兼ねて母親と一緒にメイク教室に申し込んだのだと言った。
「麻美ちゃんは経験があるし、熱意も充分あるから嬉しいわあ」
 と店長は声を弾ませた。
 麻美の指導は、スタッフの中でいちばん経験のある清香がすることになった。清香は二人の子供がいながら、常に売上トップを維持する優秀な美容部員だ。人目を惹く容姿を持ち、清香に憧れて化粧品を購入するお客さんも多い。
 はじめは清香の接客を見て勉強し、慣れてきたら少しずつ一人で新規客のエステを任せるという。
「麻美ちゃん、いい感じですね。熱心だし」
 事務室にお茶を飲みに来た清香に声をかけると、清香はロッカーから鞄を取り出しながら、まあね、と曖昧な返事をする。
「熱心なのはいいんだけど、ちょっと熱が入りすぎっていうか」
 何か問題があるのかと尋ねると
「すぐ泣くのよ、あの子」
 と清香はうんざりした顔でため息を吐いた。
「ちょっと注意しただけで今度から気をつけますって言いながら泣くし、褒めたら褒めたで先輩みたいにうまくできないって泣くの。どうすればいいってのよ」
 清香は愚痴をこぼしながら水筒のお茶をがぶ飲みし、次のお客さんが来たと言って慌ただしく部屋を出ていった。
 うちは店長が一人、エステや化粧品の販売をする美容部員が八人、事務員は私一人の、小さなサロンだ。事務室にいるのは基本的に私だけで、一日じゅう黙々とパソコンに向かって伝票や商品のポップを作ったり売上の集計をしたりするのだが、たびたびスタッフが休憩にやってきては愚痴をこぼしていく。聞いているうちに、麻美がスタッフの中で厄介な存在になりつつあるのがわかった。
「あたし、あの子無理だわ」
 とはっきり言うスタッフもいた。
 内容はだいたい同じだった。すぐ泣く、ネガティブすぎ、慰めて気を取り直したと思ったら次の日また同じことで泣く、まじメンヘラ、こっちまで鬱になりそう。
 店長ははっきりと嫌悪感を口にしないものの、麻美の気分の不安定さには参っているようだった。
「麻美ちゃん、毎日最後まで残って、私が仕事終わるのを待ってるのよ。昨日なんか仕事終わってここに来たら、電気もつけずに泣いてるの。びっくりするわよ、もう」
 と言って、額を指で押しながらため息をこぼす。
「待っててどうするんですか」
 私は驚いて言った。よほど忙しい時期でなければ残業をしないので、麻美がそんなに遅くまで残っているとは知らなかった。
「もっと上手くなるにはどうすればいいですかとか、お客さんに上手く説明できないんですとか。勉強熱心な子供を相手にしてるみたい。子供ならまだしも、もう大人なんだからそれくらい自分で考えてほしいわ」
 面倒見のいい性格のために熱意のあるスタッフを放っておけないのだろう。毎日麻美の気がすむまで話を聞いてあげるらしいのだが、その顔には明らかに疲れが滲んでいた。
 六時になり、集計を終わらせてパソコンを閉じる。
「おつかれさまです」
 とスタッフに声をかけて店を出た。
 たばこを吸いに店の裏にまわると、麻美がいた。壁にもたれてたばこを吸いながら、携帯の画面を見つめている。
「麻美ちゃん、いないと思ったらここにいたの」
 声をかけると、麻美はびくっと顔をあげて
「あっ、すみません」
 と、慌てて吸いかけのたばこを携帯灰皿に押しつけて火を消した。
「いいよべつに。麻美ちゃんも吸うんだね」
 悪いことが見つかって隠そうとする子供みたいだ、と思いながら私は笑った。
「はい、たまに。疲れたときに買うんです」
 麻美は恥ずかしそうに目を伏せて言う。
「もう一本吸ったら」
 と言うと、麻美はそうします、とうなずいて、ポーチからたばこを出した。ピンク色のラインが入ったフィルターの先が紅く燃えて、唇から細い煙を吐く。
「接客だし、匂いがつくから電子たばこのほうがいいと思ってるんですけど、たまにしか吸わないから結局変えられなくて」
「いいんじゃない。好きなの吸えば」
 頭を傾けると、薄茶色の柔らかい髪が首筋にかかる。私はその姿から目を離せなくなる。瞬きで風を起こせそうな長いまつげに大きな瞳、薄いピンク色の頬、半袖のシャツから伸びる細く白い手が日差しの下で明るく輝く。
 素がいいだけではないのだ、とそのとき、麻美の横顔を見て初めて気づいた。頭のてっぺんから淡く色づいた爪の先まで、丁寧に手入れされているのがわかる。化粧映えしない顔と思ったのは間違いだった。よく見なければわからないほどの薄い化粧で、自分を最大限に美しく見せるやり方を知っているのだ。
 女性がみな麻美のようになれるわけではない。ここのスタッフたちはみな顔立ちがきれいで化粧も念入りにしているけれど、陰口を口にするときの顔は同じように歪んでいる。鬱陶しいと吐き捨てながら、本当は麻美の努力を前に、いつ追い抜かれるのではないかと怯えて必死になっている。
 仕事の話はしなかった。麻美は裏で泣きながらもちゃんと自分の仕事をしているし、お客さんからの評判もいい。売上の報告を毎日欠かさず送ってくるのはスタッフの中で麻美だけだ。手を抜かないというより、抜けないのだろう。その生真面目さを鬱陶しく思う者がいたとしても、私には関係のないことだった。
「今日一緒に帰ろうよ。そこのカフェで待ってるから」
 たばこを吸い終わってからそう言うと、麻美は驚いたようにぱっと顔をあげて
「はい」
 と嬉しそうに笑った。
 
 実際、麻美の努力は目を見張るものがあった。その日覚えたこと、気になったことをすべてノートに書き留め、休憩時間まで持参したお弁当を食べながら復習を欠かさなかった。スポンジのようにいくらでも新しいものを吸収し、苦手だと言っていた声かけや販売も積極的にこなした。
「麻美ちゃん、今週売上伸びてるね」
 休憩のときにそう言うと、ほんとですかっ、と麻美は目を丸くして言った。
「うん。伸び率ナンバーワン」
「えー、嬉しいです!」
 そう言いながら、目に涙を浮かべ、躊躇なくあふれさせた。泉みたいだ、と思う。枯れることなく延々と水が湧き続ける泉。私は息を呑む。つかの間、我を忘れてその涙を見つめてしまう。
「玲ちゃんすごいね。あの子の話聞いてると鬱にならない?」
 清香がため息を吐きながら言うのを聞いて、私は笑った。
「もう慣れましたよ。また泣いてるなーくらいしか思わないです」
「すごいね。あたしはどうしても引っ張られるから、なるべく関わりたくない。もう教えることはだいたい教えたしね」
 話を聞いてると感情移入して自分まで暗くなる、付き合ってられない、とみんな口をそろえて言う。関わりたくないと思っていても、無意識に感情を寄り添わせてしまう。それはどこかで自分と相手が同類だと感じているからで、はじめからまったくの別物だとわかっていれば、つられて落ち込むことはないし苛立ちもしないのに。
 仕事を終えて店の近くのカフェで待っていると
「おつかれさまです」
と私服に着替えた麻美が近寄ってきて言った。背中が大きく開いたベージュのワンピース。後ろに大きなリボンがついているのにかわいすぎないデザインがよく似合っている。最近ではシフトが同じのときは一緒に帰ることが多くなり、店長はおかげで仕事終わりまで待たれなくなって気が楽だと喜んでいた。待つのは苦にならなかった。本を読んでいて顔を上げると目の前に麻美が経っていて、仕事の疲れも待っていた時間も瞬きをする間にどこかへ行ってしまう。
 カフェを出て、駅前の繁華街にある小さなバーに入った。コンクリートのひんやりとした階段を下りてゆくと黒い扉があり、開けると暗い部屋の中に青い照明が月の光のように降ってきた。ゆるやかに揺れる壁の青い線が深海を思わせる。
 カウンターの丸椅子に男女が一組腰掛け、奥にいるマスターと談笑している。
 私たちはソファ席に座り、カクテルを頼んで乾杯した。
「売上アップおめでとう」
「ありがとうございます」
 麻美は嬉しそうに笑って小さな泡の立つ透明のカクテルを飲んだ。私のは南国の海を思わせるライトブルーだ。生ハムのサラダとサーモンのクリームパスタを皿に取り分けて食べる。
「先輩、誘ってくれてありがとうございます」
 麻美はうっすらと涙を浮かべながら言った。
「私、気軽に飲みに行ける友達がいないから嬉しいです」
 そうなの、と私は生ハムをフォークに巻きつけながら言った。
「わかってるんです。こんなすぐに泣く面倒なやつ、誰も相手にしたくないですよね」
「自覚あるんだ」
 私は笑って言った。麻美は顔を伏せて、はい、とうなずく。
「私、昔から張りきりすぎちゃうんです。学生の頃は毎年学級委員やってたんですけど、きっちりやりすぎて、まわりに疎まれてました」
「すごいね。立候補したの?」
「母が、そうしろって。そういうのやっておけば先生からの信頼も厚くなって内申点もよくなるからって。勉強も一生懸命して、いつも成績は学年の上位をキープしてました。でも、受験の直前で体調を壊しちゃって。熱が出て、一週間以上も下がらなくて、勉強はやればやるだけ身についたけど、プレッシャーには勝てなかったんです」
 麻美は目を伏せて苦笑する。私は上下する長いまつげを見つめる。後ろめたいことがあると、麻美はさっと目をそらす。それが自分を守る唯一の方法のように。私にはそんなことしなくていいのに。言いかけた言葉を飲み込んで
「それで美容関係に進んだの」
 と尋ねた。
「はい。母には感謝してます。勉強がだめでも、べつの道を探してくれたから」
 麻美を見ていると、すごく女の子だ、と思う。学生の頃はこういう女の子がたくさんいた。だけど、大人になってもこれほど幼く、純粋な空気を全身にまとわせた女の子は珍しい。たいていは歳を重ねるにつれて、まわりにあわせる術を自然と身につけてゆくものだから。
 すぐ泣くところ、話を聞いてもらいたがるところ、母親に依存しそれを当たり前のように思っているところ、涙をためる大きな瞳、上気した頬、厚みのある唇、麻美を包むすべてが女の子だった。それは私のどこを探しても見つからないものだった。
 話しながら、麻美はまた泣いた。仕事中も含めると、今日は三度目だ。
「今日はいつもよりよく泣くね」
 私は麻美の濡れた頬に手を当てた。温かい涙を手のひらに感じる。
 そのままじっと動かなかった。カウンターに座るカップルがちらちらと視線を寄せているのに気づいていたけれど、手を離さなかった。
 麻美がトイレに行っている間に会計を済ませたことを伝えると、麻美が慌てて財布を取り出した。
「奢ってもらうなんて、悪いです」
「いいの。今日はお祝いだから」
 店を出て駅に向かう途中、麻美の指に自分の指を絡めた。体じゅうが熱く火照って、さり気なさを装う余裕はどこにもなかった。麻美の手は一瞬ぴくりとして、確かめるみたいに私の手を握り返した。
 手を繋ぐだけでこんなに緊張したのは初めてかもしれない。指先から心臓の音が聞こえるんじゃないかと思って顔を向けると、麻美は恥ずかしそうに笑った。
 だれかに見られているかもしれない、なんてことは、もう気にならなかった。
 
 一か月前、メイク教室に麻美がやってきた日、私は仕事から帰って一人の部屋で麻美と抱き合った。目を閉じると、私を見つめる真剣な眼差しが鮮明に浮かんだ。仰向けになった私に麻美が顔を寄せて何かをささやく。何と言ったかわからないのに、爪先まで溶かしてしまいそうな甘い声だった。
 深夜に目を覚まし、耐え難いほどの孤独に襲われて裸のまま涙を流した。一度会っただけ、それもひと言ふた言しか話していない相手を思って泣くなんてことは初めてだった。寝ても覚めてもあの強い眼差しが頭から消えなかった。
 そんなとき店長が新人スタッフとして麻美を連れてきて、私はまだ夢の続きを見ているような気分だった。
 ほどなくして麻美はスタッフたちから鬱陶しがられるようになったが、麻美が孤立すればするほど、私の麻美への思いはますます強くなった。すぐ泣くのは感受性が強すぎるからで、制御できないほど急激にあふれだすその感情を受け止められるのは私だけだと思った。
 必要な物しかない簡素な私の部屋に、麻美がいる。色のない部屋がとたんに淡く色づいたように感じた。
 机に置いている麻美の鞄の中で携帯が鳴った。電話の音だ。麻美が、あ、と短い声を出す。伸ばそうとする手を引き寄せ、頬にキスをした。
首筋に、鼻に、額に、麻美は少し体をこわばらせていたが、頬に唇をつけたときふっと力を抜いて私に委ねた。柔らかい頬を撫で、唇を舐める。さっき飲んだカクテルの甘い味がした。その厚みのある唇を割って中に入っていく。
「女同士は初めて?」
 首筋に顔を寄せて言うと、麻美は小さくうなずいた。
「先輩は?」
 初めてしたのが女の子だった、と私は言った。
「高校のとき、友達とふざけてて。その後気まずくなって話さなくなったけど」
 男とも何度か試したが、男は強引で自分の欲を押しつけるばかりでうんざりした。高校を卒業して三年ほど一般企業の事務をしてからエステサロンに移ったのも、男女の関係の煩わしさから逃れるためだった。あそこでは美容の知識がなくても、経理ができるだけで重宝された。
 体の隅々までゆっくりと味わうように口をつける。麻美の体はどこを触ってもマシュマロのように柔らかかった。胸は仰向けになっても丸く手に余るほど豊かで、私の情けない突起物みたいな胸とは全然違った。
 セックスは何度もしたことがあるが、いままでのそれとはまるで違った。私が経験したと思っていたのは誰かの真似事に過ぎなかったのだと知った。自ら欲して手を伸ばす。どれだけ潤しても足りなくて何度も口づけをする。その弾力のある肌が反応するたび、私はこの上ない歓びを覚えた。
 行為のあと、二人でたばこを吸った。いつも一人の部屋に、もう一つべつの匂いがあるのが妙な感じで、少しくすぐったい気がした。
「家では吸えないから嬉しいです」
 と麻美は言った。
 きっと家では素の自分になれないのだろう。私も同じだった。気づけばもう何年も部屋に人を入れていない。それほど離れてはいない両親でさえ、忙しさを理由にいつしか遠い存在になっていた。
誰かがそばにいると無意識に緊張してしまい気が休まらない。でも、麻美の前では不思議なほど気を許せた。
 私だけが知る麻美の顔を愛おしく思い、柔らかな前髪をかき分けて額に短いキスをした。
 
 八月になると、子供の夏休みなどで子持ちのスタッフがたびたび休みをとるようになった。夏は日焼け止めや美白系の商品が、入荷したそばから飛ぶように売れる。休まず出勤している麻美の売り上げは大幅に伸び、エステの新規契約やリピーターも着実に増やしていった。
 それを清香たちベテランのスタッフがよく思わず、目に見えて嫌がらせをするようになった。
 麻美が接客を終えるのを見計らって、清香が声をかける。
「麻美ちゃん、お客様と話すのはいいけど、時間考えてね。次の準備もあるんだから」
「すみません」
「わかってるなら早くしてよ」
 清香は接客用のテーブルに置いてあるチラシをわざと払いのけた。印刷したばかりのチラシが床に落ちるのを、麻美は立ち尽くして呆然と見つめていた。
「どうかしたの」
見かねて声をかけると、清香は何も言わずに奥のエステルームに向かった。
 しゃがんだ麻美の目にうっすらと涙が浮かんでいる。私は何も言わずに散らばったチラシを一緒に拾った。
「ごめんね、麻美ちゃん。ほかのスタッフも先輩としてのプライドがあるから、少し気が荒れてるのよ」
 店長が申し訳なさそうに小声で言う。
 働いた年数ばかり偉そうに振りかざして何がプライドだろう。麻美に当たれば当たるほど、自分の負けを認めることになると気づかないのだろうか。
苛立ちを覚えつつ、事務の私が口を挟むと面倒なことになるとわかっていたから黙っていた。
「でも、麻美ちゃんお客さんに評判いいから、気にせずに頑張ってね」
「はい、頑張ります」
 店長の言葉に、麻美は顔をあげて涙をためた目でうなずいた。
 
 お盆明けに毎年恒例の夏祭りがあった。
 会員向けの感謝祭と、新規のお客さんを呼び込む目的で、誰でも参加できるイベントだ。近所や付き合いのある店にチラシを配っていたおかげで、朝からひっきりなしに人がやってくる。
 店の前の駐車場にハンドメイドや占いのブースを設けてあり、私は子供向けの縁日の係だった。テントの下でボールすくいと風船つりの店番だ。近所の子供たちやスタッフの子供、友人たちがやってきてにぎやかだった。風はなく、じっと座っているとサウナのように汗が噴き出してくる。
 私は子供たちの相手をしながら、店のほうに目をやった。
 ガラス張りになっている店の中で、店長と清香たちがお客さんと話しているのが見える。イベントのときに商品の宣伝をするのは、本来なら売り上げが上位のスタッフがやるはずだった。それなのに売り上げがよかった麻美を外に追いやり、ほかのスタッフをむりやりねじ込ませている。呼び込みのチャンスを新人に渡してたまるかという思惑が丸見えだ。
「お姉ちゃん、すごい!」
 隣のブースでわあっと歓声があがった。見ると、麻美がバルーンアートで動物を作っていた。
「はい、どうぞ」
 麻美がしゃがんで、出来上がったバルーンを幼稚園くらいの女の子に手渡した。ピンクと水色をうまく組み合わせて、可愛らしいくまの形になっている。男の子には剣を作っていて、そっちも大人気だった。
「そんな特技あったんだ」
 私が驚いて言うと
「高校の文化祭で大量に作ったんです。役に立ってよかった」
 と麻美が少し照れたように言った。
 嫌がらせを受けるほど、麻美は意地を張るように店で泣かなくなった。その分私の部屋では思いきり涙を流した。
「私、もっと頑張りたい。認められたい」
「麻美は充分頑張ってるよ」
 私は麻美の頬を撫でながら慰めの言葉をかける。
 私が守らなければ。ほかの誰にもこの場所を渡さない。麻美の隣には私しかいらない。
 寄りかかる麻美の肩を抱きながら、私は体の内側から湧き上がる恍惚を感じていた。
 
 祭りの翌日は店が休みだった。疲れていたのに一仕事を終えて気分は高揚し、ろくに眠りもせず明け方まで何度も抱き合った。その反動で、昼過ぎに目が覚めてもまだ気だるさが残っている。
 人差し指にそっと触れると、麻美が薄く目を開いた。
 私はどきりとしてとっさに笑顔をつくった。
「おはよう」
 と言うと、麻美はまだ眠そうに目を瞬かせながら
「おはようございます」
 と言って体を起こし、無意識に握っていた私の手からするりと指を抜いた。
 昨日の夜の熱気は消えて、外は少し風があるようだった。一晩じゅうつけていた冷房を消して窓を開けると、風が入ってきてレースの白いカーテンを揺らした。
 ときどき、抑えきれないほど強い衝動に駆られる。麻美がいなくなってしまうのではないかという不安と、私たちの関係を誰かに見せつけたいという欲望。
 私はカーテンに麻美を押しつけるようにして唇を重ねた。しなやかな手首を手錠のように掴む。
「先輩、痛い」
 麻美がうめき声に似た声をあげる。私はやめなかった。
「私たち、ずっと一緒だよね」
 不安になるたび、私はそう尋ねた。何度確かめても消えることはなかった。私たちの関係はそれくらい、不確かであいまいなものだった。
「私はここにいるよ」
 麻美はそう言うと、力を抜いて身を委ねた。
 言葉だけでは足りない。一度離したら蝶のようにふわりと逃げてしまう気がして、麻美の白い肩を強く抱きしめた。
 夜はベランダで線香花火をした。ティッシュを捻ったようなか細い線香花火の先にライターで火をつける。数秒して小さなオレンジ色の火がついた。小さな火は徐々に丸く膨らみ蕾のように見える。花が開く前のかすかなともし火。
 静かだった。街の喧騒も車の音もこの狭いベランダには届かなかった。しゃがんでじっと線香花火の先を見つめていると、向かいのマンションが遠ざかり隣の部屋との仕切りも消えて、広い夜の中に私たち二人だけでいるような気持ちになった。ここには奇異な目で私たちを見る人も、嫌がらせをする人もいない。
「来年も花火できたらいいね」
 と私は言った。
「海に行きたいな。水着着てサングラスかけて、あとスコップ持って」
 と麻美が言った。
「スコップはいらないでしょ」
 笑った拍子に、私の線香花火の限界まで膨らんだオレンジの火がぽとりとコンクリートの床に落ちて、追うように麻美のも落ちた。
「終わっちゃった」
 と麻美が残念そうに言って
「まだもう一本ずつあるよ」
 と私は袋から最後の線香花火を出した。
 
 九月に入ったあたりから、毎日欠かさず送られていた麻美からの売上の報告が滞るようになった。売上が落ちたわけではない。仕事もいつも通り手を抜かずにこなしている。
 休憩に入り、コンビニに行こうと事務室を出ると、麻美がいた。壁に背を預けて、小さく息を切らしている。心なしか顔色も悪いような気がして
「大丈夫? 体調悪いなら言いなよ」
 と声をかけると、麻美は首を振った。
「大丈夫です。ちょっと疲れただけですから」
 心配だがずっと見ているわけにもいかない。夕方になると顔色も戻ってきたのでほっとした。
 店長が用事があるからと珍しく早く帰って、ほかのスタッフも麻美に掃除を任せて帰ってしまった。
 掃除を終えてロッカーに片付けていると、ふいに思い立ったように麻美が私のほうを向いて
「そうだ。先輩、メイクの練習、付き合ってもらえませんか」
 と言った。
「いまから?」
「ずっと先輩のメイクしてみたかったんです」
 私は半ば呆れながら、いいよ、と答えた。
「いい加減、二人のときは先輩って言うのやめてよ」
「じゃあ、玲ちゃん」
 麻美は笑いながら、化粧パレットを持ってきた。窓の外を見ると、満月だった。雲のない夜空に浮かぶくっきりとした輪郭の月が、建物の向こうに見えた。
「まずは下地づくりからいきますね」
 麻美は化粧水を染み込ませたコットンを私の顔に滑らせ、パフをはたく。
「目はつぶってください。緊張するから」
 はいはい、と私は目をつむって麻美の指を受け入れる。麻美の細い指が私の目尻をそっと撫でながら
「玲ちゃんには絶対青が似合う」
 と珍しく強い口調で言った。
「そう?」
「私には似合わない色。玲ちゃんの目もとにあると、すごく自然なの」
 目を開けて鏡を見ると、まぶたに青色が広がっている。淡い色なのに存在感のある青だった。
「へえ、知らなかった。明日から少しは化粧して来ようかな」
「そうだよ。事務だからって、美容サロンで働いてるのにすっぴんはないよ」
「言うようになったね」
 私は笑いながら言って、鏡に映る自分をじっと見つめた。メイク教室のときに毎回感じていた違和感がなかった。麻美のメイクが上手いというより、麻美が選んでくれた色だからだ。
 麻美がきれいだと思う色。麻美が似合うと思う色。薄いばかりで好きではなかった自分の顔を、少しだけいいかもしれないと思った。
「結婚式のときは、麻美にメイクしてほしい」
 私は麻美の顔を見て言った。
「あっ、いいねそれ。玲ちゃんの顔すごく化粧映えするんだもん」
 私は目の前に一瞬浮かんだ光景に目を細めた。
「それ、店長にもいつも言われる。地味ってことでしょ」
「違うよー。きれいってことだよ」
 麻美が笑いながら言って、それはどうも、と私も笑う。
 私は鞄からスマホを取り出して、カメラで自分の顔を撮った。自撮りはめったにしないけれど、いまの顔なら残しておきたいと思った。この時間ごと留めておけたらどれだけいいだろう。
 カメラの向きを変えて、麻美の顔も撮った。
「あ、いま、私の顔撮ったでしょ」
「バレた?」
 私は笑った。
「一緒に撮ろうよ」
 麻美が私の隣に来て、ぴたりと体を寄せる。
 私は携帯を上にかかげてボタンを押した。
 
 十月のはじめ、麻美が初めて仕事を休んだ。いままでシフトの休み以外は一日も休んだことがなかったのに。
「体調悪いんだって」
「仮病でしょ」
「まあすぐ辞めると思ってたけどねー」
 休憩でもないのにスタッフたち総出で事務室に集まって、ここぞとばかりに陰口をたたく。
 何度電話をかけてもメッセージを送っても返事はなかった。
 何かあったのだと思った。誰よりも熱心で遅くまで残って練習していた麻美が突然仕事を休むほどの何かが。
 三日後に出勤した麻美は、少し頬のあたりが痩せたように見えた。
「ご迷惑をおかけしてすみませんでした。気分が悪くて、病院に行ったら、赤ちゃんができてました」
 と麻美は言った。赤ちゃん。あまりにも突然で何を言っているのかわからなかった。友達が妊娠でもしたのか。でもどうしてそれを職場で報告するのだろう。
「え、嘘! おめでとう!」
 真っ先に声をあげたのは清香だった。昨日まで散々陰口をたたいていたことなど麻美のそのひと言で忘れたように、ほかのスタッフも続いて、おめでとうと連呼する。
「何ヶ月?」
「三ヶ月です」
 麻美は三日前と何も変わらないように見えるお腹を両手で包み、愛おしそうに微笑む。
「おめでとう、麻美ちゃん」
 店長が麻美に歩み寄って言う。
「出勤してくれたら嬉しいけど、無理しないでね。つわりがきついようなら、落ち着くまで休みをとってもいいし」
「いえ」
 と麻美はもう決めているというふうに首を振って
「たびたび休むとご迷惑になると思うので、辞めさせてもらいます」
 と迷いのない口調で言った。
 清香たちがスタッフ同士で目をあわせて
「えー、残念ー」
「また遊びに来てねー」
 と口々に言った。
 麻美は一度も私の顔を見なかった。頑なに目を合わせようとしない麻美の顔を私はじっと見つめていた。
 赤ちゃんができてました。三ヶ月です。
 それが突然仕事を辞めると決めた理由だろうか。私と目を合わさない理由なのだろうか。お腹の中にいる赤ん坊の存在が、仕事への熱意も私と過ごした時間も全部消し去ってしまえるほどのものなのだろうか。
 麻美がロッカーから自分の荷物を持って店を出ていったあと、私は何かに弾かれるようにして店を飛び出した。
 いつもはバスだが、今日は車で来たようだった。メイク教室の日に麻美の母親が運転していた赤い車が駐車場に停めてあった。運転席のドアを開けて乗り込もうとしている麻美を呼ぶ。
「先輩」
 麻美が振り向いた。やっと目が合ったと思ったら
「いままで、たくさん話を聞いてくださってありがとうございました」
 とまるで面倒見のいい先輩に別れを告げるように、麻美は深く頭を下げた。
「戻ってくるんでしょう」
 私は麻美の手を掴んで懇願するように言った。
「わかりません。でも、当分無理だと思います」
 麻美はそう言うと、車に乗り込んですぐに発進させた。無理なのは仕事への復帰か、私と会うことか、聞くこともできなかった。
 呆然としながら店に戻り、どうしたの、との声に曖昧に答えながら事務室に戻った。棚の脇に置いてある小さなゴミ箱の中に、見慣れた白い箱を見つけた。麻美のたばこだった。中を見ると、一本なくなっているだけで、残りがぎっしりと詰まっていた。
誰もいない事務室で、私は捨てられた麻美のたばこを吸った。
 窓も扉も締めきった狭い室内に、薄く煙が広がってゆく。麻美のたばこは匂いまで甘かった。
 
 真っ白なドレスに身を包み、お揃いのブーケを持って二人で並ぶ。コルセットで締めた腰は緩やかにカーブを描き、レースのついた裾を花のように広げる。
 来場者たちはおめでとう、と私たちに拍手を送る。カメラマンが向けるカメラに私たちは笑顔を向ける。
 私の晴れ化粧は麻美が選び、麻美の手で施されたものだ。目もとには麻美がきれいだと言った淡い青が広がっている。
 せーの、と声を合わせてブーケを投げる。青空に色とりどりの花びらが舞う。
 私たちの薬指には、銀色の指輪が光っている。
 仕事終わりに麻美に化粧を施されながら浮かんだ光景は、幸せに満ちていた。その光景が消えてしまわないように、私はじっと麻美を見つめていた。
 あまりにも現実と遠く、叶わない夢だと知っていても、消すことはできなかった。
 麻美に恋人がいることは知っていた。
 その存在を知ったのは夏のはじめの夜、麻美が初めて私の部屋に来た日だった。
 休憩中や仕事の帰り、たびたび携帯を気する麻美の様子に、誰かからの返事を待っているのだとわかった。
 麻美がシャワーを浴びている間、私はテーブルに置いてあった麻美のバッグから携帯を取り出した。
 着信履歴はほとんど麻美の母親と店長の名前、その間に入り込むようにして、男の名前を見つけた。
 メッセージには会いたいとか、好きだとか、恋人同士の甘ったるい言葉があふれていた。
 シャワーの音が止まったのと同時に、携帯をバッグに戻した。そして何も知らないふりをした。
 麻美はあまりにも無防備だった。まるで見てくれと言わんばかりにバッグを開いて置いたのは、恋人への罪悪感からだったのかもしれない。
 私は追求しなかった。真実を求めて麻美が私から離れてしまうのが、怖かったのだ。
 私はたびたび隙を見て麻美の携帯を盗み見た。メッセージのやりとりから、二人について色々なことを知った。
 学生時代からの長い付き合いだということ。結婚の話が出ていること。男は長期の出張が度々あること。あまりまめに連絡をするほうではなく、それを麻美が寂しがっていること。
 寂しさを埋めるように、麻美は毎日、会いたい、と恋人にメッセージを送っていた。返事はすぐに返ってくるときもあれば、三日間音沙汰がないときもあった。それでも麻美は送り続けた。
 テレビを見ながら、ご飯を食べながら、抱き合ったあと、眠る前、私の目の前で、麻美は、私の知らない男に、好きだと言っていた。
 私の知らない男に向けられた言葉を見るたび胸が張り裂けそうになり、麻美の体を抱き寄せた。麻美は笑っていたけれど、ときどき不安そうに暗闇の奥から私を見つめた。そのまなざしが終わりを知らせるようで怖かった。
 あるときから、麻美の携帯にロックがかかって見れなくなった。
 何度パスワードを入力して試してもだめだった。指紋認証で解除しようと麻美の指に触れた瞬間、麻美は目を覚ました。
 私たち、ずっと一緒だよね。
 私は何度もそう尋ねた。麻美は一度も首を縦に振らなかった。まるではじめから離れることがわかっていたように。きっと麻美は知っていた。この関係が長くは続かないことを。
 でも、麻美は言ったのだ。私はここにいるよ。そう言って、その体のすべてを私に預けたのだ。
 その場限りの言葉ではなかった。なりゆきなんて軽いものではなかった。私たちはたしかにひとつだったのだ。
子供ができて麻美は変わったかもしれない。でもあのときの強い気持ちは、いまもきっと麻美の中に残っている。そう信じていた。
 
 年明けに冬が降った。夜の間降っていた細かな雪は、日が昇ってしばらくすると、溶けた水を道路の端に残して消えていた。
 メイク教室があると、麻美が前と変わらない姿でふらりとあらわれるのではないかと探した。見つけられない日を重ねるたび、少しずつ記憶が、麻美とひとつだった自分が消えてゆく気がした。白昼の中に消えてしまった影をひたすら追い求めているようだった。
 目をつむると、麻美が私の顔にメイクをしてくれた、あの美しい夜が鮮明に浮かび上がる。ほかの誰かに上塗りされて薄れてゆくのが怖かった。
 明日のモデルは辞退しようと思った。ほかのスタッフに替わってもらえないか、聞きにいこうと事務室を出たとき、店の扉が開く音がした。
 店内の雰囲気が、にわかに変わったのを感じた。急かされるように店のほうに行き、私は目を見開いた。そこには、麻美がいた。
 麻美ちゃん久しぶりー、とスタッフたちが華やかな声をあげる。
「お腹大きくなったねえ」
 ゆったりとしたマタニティー用のワンピースを着た麻美が、丸々と膨らんだお腹に手をあてて
「もうすぐ産まれるから、ご挨拶に来ました」
 と声を弾ませて言った。
「えー嬉しい。女の子? 男の子?」
「女の子です」
「産まれたらまた顔見せに来てねー」
 嫌がらせをされていたことも、していたことも、彼女たちは忘れているようだった。実際、この半年間でスタッフたちの間でその名前が出ることは一度もなかった。この和やかな時間の中で、過去のことは今朝の雪のように消えてしまったようだった。
 麻美が仕事を辞めると言ったとき、そんなことで、と思った。子供ができたというだけで、仕事への熱意も私たちの関係も全部忘れてしまったような麻美の態度に苛立った。私に向けた言葉はなんだったのか。ふたりで紡いだ時間が、その一瞬でガラスのように打ち砕かれた気がした。
 麻美。何度も憎もうとしたその名前を口にした。口にするたび、先の尖った異物を呑み込んだような痛みに襲われた。麻美を憎むことはできなかった。どうしても、できなかった。黒く濁った感情はいつしか、顔も見たことのない麻美の夫――結婚しました、と麻美は言い、新しい姓を名乗った、そして、まだ生まれてもいない赤ん坊へと変わっていった。手に入らないのなら、いっそ、壊れてしまえばいい。
 でも、それは間違いだった。麻美は忘れていなかった。なかったことになどしなかった。もしあの時間をすべて消し去りたいのなら、わざわざ私の前に顔を見せたりはしないはずだから。それなら、私たちの時間が、いまも続いているのだとしたら――。
「本当におめでとう。赤ちゃん、楽しみだね」
 私は麻美に歩み寄って言った。麻美が私を見て、はい、とほほ笑む。
 ああ、やっと、目があった。
 そのときにようやく、麻美が戻ってきたのだと実感した。
 なぜ麻美は私を選ばなかったのだろう。私を選んでいれば、寂しい思いも不安にもさせないのに。私のほうが、麻美を幸せにしてあげられるのに。
 私の中に渦巻いていた感情はパレットをめちゃくちゃに塗りたくったように混ざり合い、沈み込み、何が本当なのか、自分でもよくわからない。確かなのは、憎むべき相手は私から麻美を奪った男であって、目の前にいる麻美でも、お腹の中の赤ん坊でもないということだった。
「お腹、触っていい?」
「はい。もちろんです」
 麻美は笑って言った。
 私は体を屈めて麻美のお腹に手を触れた。目一杯空気を入れたゴムボールのように張りつめたお腹だった。服越しにじんわりと温もりが伝わってくる。これが命の温かさ。私が麻美を思って過ごしていた半年の間に、着実に育まれていた命。
 ここにいるのだ。私の一部が、この中に。
 膨らんだお腹の中で、私の細胞が少しずつ形になってゆく。小さな頭になり、手足をつくり、この世に誕生する。その瞬間を想像すると、涙が滲んだ。
「あ、動いた」
 手のひらにかすかな振動を感じる。
「最近よく動くんです」
 麻美は嬉しそうに言った。
 お腹の中の赤ん坊は、いまにもそこから出たそうにひくひくと動いている。その動きを、私は手のひらにしっかりと感じとった。
 麻美に似たら、きっと目が大きくて、唇はふっくらとしたピンク色で、よく笑う可愛い女の子になるだろう。でもやっぱり母親に似て、泣き虫になるかもしれない。その姿が、まぶたの裏側に浮かぶようだった。
 私は何度もお腹をなでた。はしゃいでいた周囲の声がやがて止み私をじっと見つめているのに気づいても、やめなかった。いつまでも触れていたかった。
 早くあなたに会いたい。
 いつか、私が迎えに行くその日まで待っていて。

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