彼岸の前、叔父の死去で思い出す、脳梗塞21ヶ月目
◇概要◇
9月に入り、彼岸花の赤があちこちと、秋を知らせる。叔父が、最期頑張ったがお彼岸の前に逝ってしまった。5年前に亡くなった親父、その弟に当たる、脳卒中の血筋なのだろう。
死ぬまでいい人だったという思い出、古き良き時代の記憶が甦る。
ワレンベルグ症候群という脳梗塞の一種を突然発症したのは、2022年末の大晦日、緊急搬送だった。そのまま年が明け2023年初から寝たきり状態、少しずつ回復し4月に退院。療養し一年後2024年4月から再就職、社会復帰もぼちぼちと。
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4月より役所の出先機関(とある施設)でのパート事務職員(公務員扱い、一年契約)となった自分。
2022年大晦日の脳梗塞発症、そこから1年と9ヶ月目の今。
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はてなブログ・・「脳梗塞 ワレンベルグな日々」は、日々感じたこと
「ワレンベルグのパート生活(脳梗塞の狂想曲)」は、この4月から始まったパート就職後の変化を綴っている。
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◇彼岸花の赤が目に止まる、叔父の死去、脳卒中◇
9月11日(木曜)、夏場前に入院して、お盆まで持たないかもしれないと医者に言われた叔父が、頑張ったがとうとうお彼岸の前に逝ってしまった。入院してからは食事が殆ど喉を通らなかったというが、綺麗ないい顔をしてたよと、お通夜に行った実家の母が電話で言っていた。
5年前に亡くなった親父の弟に当たる、親父同様、私もそうだけど家系的な、脳の病を抱えて、長く生きられないとは思っていた。
自分が最後に姿を見たのが北陸の実家に戻る前、親父の葬儀の時だから、5年前になる。その時も抱えられる様に、やっと歩いているような状態だった。そんな体をおして親父のお通夜も葬儀も出てくれた、最後までいい人だった。
今頃は、親父とふたり、あの世で楽しく積もる話や昔話をしていて欲しい。最近の話題、私が脳梗塞に倒れ、回復中であることも。
◇父との関係、叔父の思い出◇
親父と叔父は、仲が割と良く、近く住んでいたこともあって、元気な頃はお互い行き来があった。自分も小さな頃、叔父には釣りによく連れて行ってもらったり、たまに地方球場に来たプロ野球の試合に連れて行ってもらったりした記憶がある。当時、小学校の頃だろうけど、本当に子供の娯楽など無かったのだが、自分も親父に似て内気で、特に釣りはあんまり楽しめなかったのだったけど。
うちの親父は、あまり外に出るのが好きでなく、インドア派(パチンコか麻雀)であまりどこかに連れて行ってもらえなかった。これに対し、叔父は、公務員の職業柄か割と社交的で話が面白かった、日曜大工など多趣味で何でも出来る人であったようだ。親父はその道具を借りて来たこともあった。
2人は、それぞれ普通のサラリーマン、家庭を持っていた。
しかし、祖父母が亡くなったあと、4人兄弟の下2人の弟のことがいろいろ起こった、2人は定職を持たず、結局祖父母の蓄えを食い潰してしまった。また年老いた祖母の妹の世話などで長男たる親父が、親代わりで単独で何かと動くことが多かったようだ。
もともと口数の少ない親父だったが、還暦退職後は、自身の健康が年々衰えるとともに社会との繋がりもなくなり、叔父とも徐々に疎遠になっていったようだ。
衰えていく体を、弟の目には晒したく無かったのだろうか。
自分も就職で実家を遠く離れた、盆と正月、年に2度しか帰れず、何かを共有することもなく、点けるともなくついているテレビのお笑い番組を一緒にみているようで、皆が疎遠になっていった。
老いも、個々に進んでいく。親父が寝たきりになり施設に入った後、叔父の家を用事で何度か訪ねたが、その姿は家の中で歩くのもやっと、昔の滑舌の良い社交的な感じはもう残っていなかった。
◇叔父たちの思い出、古い記憶が思い出される◇
親父と叔父、5人兄弟の長男と次男、その下に弟がふたり。
自分がまだ小学校の頃、というと50年近く前だと思うが、田舎の山の中の祖父母の家で、お盆の頃はその兄弟、親戚が(その時は)のどかに楽しく集まっていたのが思い出される。
何もない時代だった。テレビくらいしか娯楽のない世界、今とは違う。
エアコンなんて勿論ないが、その頃は夏も今ほど暑くはなく、テレビも気候変動や災害を伝えることもなかった、山の中の祖父母の家は、簾が下がった全開の窓から涼しい風があり、扇風機だけで皆過ごしていた。庭に井戸水で冷やしたスイカがあった。蝉や鳥が鳴いていた。昭和のお盆はのどかだった。長閑な時代。
親父ら4人の兄弟と祖父たち男どもは、昼から決まって居間で雀卓を囲んでいた。勝った負けたと騒ぎ、煙を吐きながら、楽しそうだった。祖父もまだ元気だった。煙草の山が灰皿から溢れていた。
その中心に、親父と叔父がいた。もちろんまだ若く元気で溌剌としていた。普段は物静かな親父が熱くなり叫ぶと、チャチャを入れてはぐらかし笑いをとる叔父。扇風機の風が、男どもの熱気と煙と匂いを窓の外に運んでいた。
大きな居間の傍のテレビの画面ではNHK、相撲が流れていた、勝つべき力士が最後は勝つという予定調和の中の見応えがあった。
今の液晶テレビのほうが画面は大きく精細な映りだが、あの時代の置物のような大きなテレビの、湾曲した小さなガラス画面の相撲の方が迫力があり、感情が動いた。
全盛期に向かう横綱、北の湖が憎たらしいほど負けなかった。
大関横綱が場所ごとに休場とか変わるとか、いや大関が何場所も負け越すなんて、あの時代はあり得なかった。
全然負けない上位陣に、何とか一矢報いようとする下位力士、番狂せはそうそう起きない。
番付通りの勝敗が続く、予定調和の世界が実は落ち着いていて、何事も緩やかに変化が起こる、平和な昭和の世界。
煙草の匂いや煙を、扇風機が運んでいた平和な夏。
あれから、世の中は主に携帯電話の普及によって便利になり、いっぽう変化が目まぐるしくなり、個人が小さな個々の画面で過ごす時間が増えた、TVの凋落も叫ばれ、個人の権利が尊重され(煙草は煙たがられ)、日本中がエアコンの効きが悪い部屋にはいたたまれない夏になり、なぜか社会も気候も不安定で不確実になった。
何より、平和が切実な時代に変わった。携帯電話は便利になり、世界の戦争まで映し伝え広める時代になった。
そんな時代の少し前、市街の病院のベッドで寝たきりのまま親父が逝ったのが、5年前、そして先日、叔父も似たような最期だった。
晩年は、疎遠だったふたり、時代も大きく変わり老いもあった。
似た者兄弟は、あの世で、いまの世を楽しく話をしているだろうか。
(実はあの世でも、疎遠だったり、今年は暑い夏だったなぁと、携帯で話していたりするかもだが)
つづく