ワレンベルグ症候群を発症してから今日まで 2024 0601版
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ワレンベルグは厄介、普通の脳梗塞よりマシというが。
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ワレンベルグ症候群。自分が向き合っている病気の名前。小脳や延髄の脳梗塞の一種
2022年大晦日前夜の深夜に自室で突然発症、翌朝自分で呼んだ救急車で赤十字病院へ運ばれた。そこからそのまま4ヶ月の入院、そして奇跡的に回復し、退院。
何とか普通の生活を送れるまでに戻ったが、今でも脳が受けたダメージの影響か、フラつきやしびれ等の後遺症と向き合っている。
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症状が特殊、お先真っ暗
発症直後は、ワレンベルグ特有の症状である、
起き上がれない(体の平衡が全く取れず、吐き気もある)、
左顔面麻痺、
複視(ピントが合わない)、
右半身の失調(腕や足に力は入るがうまく使えない、温痛覚異常、痺れ)、
そして嚥下(えんげ)障害(唾すら飲み込めない、喉のごくんの反射が起きない)などの多くの症状が起こる。
意識だけはしっかりしている。
手足などは力は入り、そこそこ動く、だが立つことはできない。そして頭を揺らせば、吐き気が続く。いつまで続く?
そしてそこへ、脳梗塞はすぐ治らないよと医師、非情な宣告を受ける。
これから寝たきり生活、良くて車椅子生活だろう
と将来が悲観的になる自分。
入院直後の体と心、支え
大晦日から年明けという時期に起こった不幸。
独り病院で寝たきりになり、ベッドでぼーっとするだけの一日。
先が見えない不安でいっぱいになる。
ぼんやりと霞み、焦点の定まらない眼、顔の左目周囲は麻痺のようだ。
体中はたくさんの管に絡み取られている。
寝返りしただけで吐き気が止まらない脳、
眠ることもままならない。
唾すら飲めない喉、
数分おきに唾を取り出したティッシュで溢れるゴミ箱、、辛い。
つい先日まで普通に暮らしていて、何の落ち度もない自分が、
どうして突然に不幸のどん底に突き落とされるのかと、
生きる屍になったか、と天を恨み、父(三年半前に他界)を恨んだ。
コロナ禍で院内面会ができず、家族にさえ連絡が出来なかった。
辛うじて片目と指先は動いたのでスマホが使えた、状況を伝えねば。
家族や職場上司に状況のメールが何とか出来たのが1月2日。
短時間ですぐ吐き気、眠り続けていたいが現実に少し戻った。
情報が少なく心配を掛け続けている家族への連絡はもちろん、
何も知らない職場への一報、悪い報告であれば急がないといけない。
実は脳梗塞の直前12月23日から会社を休んでいた、コロナで。
止まっている仕事をどうしたらいいかとぼーっとする意識の中で悩む。
運がいいほうで、下手したら死んでたと家族からメールで知らされた。
小脳や延髄の梗塞で今回のように入院が翌日まで遅れた場合、
呼吸系が止まるリスクが高かったらしい。
生かされたんだと、生かされたことに感謝、そう思うしかないと。
体は動かなくても、こうして会話ができるだけでもいいと家族から伝えられた。
また職場の上司は、ともかく安静で仕事メールは一切不要!と休み中に即返信もらい、有難かった。
同僚も仕事初めの日から全力でカバーしてくれた。
あのときから、みなに支えられ今がある。
入院〜最後は嚥下回復、退院
その後家族や職場、病院の方々のお陰で、療養とリハビリに集中でき、
立てなかったのが何とかつかまり立ち出来たりとか、一つずつ出来なかった事が出来るようになり、すこしずつ回復に向かった。
寝返りでも吐き気の体が、いったん立てるようになると、歩けるまでは割と早く、車椅子生活は実質的になかった。
ここが普通の脳梗塞と異なるワレンベルグ症候群の特徴なのだが、
4月末の退院の最後に回復したのは嚥下障害。
これが厄介だった。
2月中旬に嚥下リハのための転院日、救急病院では手がおえなかった。リハビリ病院の空き部屋が出るまで訓練を続けた。
だが全く喉が反応しなかった。何も喉を通らない2ヶ月。
それまで唾すら飲み込めなかった喉が、しかし、転院日に転院先で幸運にも奇跡的に反応。驚きだった。
転院先では、移ってそこそこに特別食開始、これは退院も早まるかと思ったが、でもそこから更に2ヶ月かかった。
発症から入れっぱなしの鼻から胃への経管食用の管、これがぬけるまでは最初の入院から4ヶ月間もかかったのだ。長かった。なぜか?
一部の食べ物が飲み込めるようになった後も、誤嚥性肺炎のリスクがあり危険だからだ。そこが確実に小さくなる訓練と確認、
それが退院の条件=普通の生活への復帰のGoサインだったのだ。
退院、4ヶ月ぶりの食事を普通に飲む食べる、
その普通の当たり前の有り難さ、
そして退院し戻った自宅で家族が喜ぶ姿、
自分でもここまで回復できたのは奇跡に近いと思った。
自動車免許の再認定もされ、今はほぼ普段の生活ができる。
退院後そして今(2023年8月当時)
4ヶ月の入院で嘱託職員は残念ながら退職。そして諸事情で2ヶ月後鹿児島へ。
自宅療養の今は、やや残るフラつきや痺れなど、無くなることはないと言われている後遺症と向き合い、最小化をめざしつつ、
再就職の実現にむけて準備をしている
(翌年2月、パートだが再就職を果たすこととなった。)
運が悪ければ、死んでいたかも知れない、
じっさい、死ななかったけど、でもずっと寝たきりだったかもしれない、
そして歩けるようになったけど、飲む食べるは普通に出来ない体になったかもしれない、
とだんだんと安堵しながらも、次々と不安を抱え続けながら
いままで支えてくれた家族やその他の人々、
感謝を忘れずに今も病気と向き合う。
----※ 追記2024年2月 ※---
退院後、好転しない後遺症、変化
後遺症のフラつきや痺れは、一進一退を繰り返し、
年が変わった2024年の今も治りそうもない。
さすが脳の病気で、終わりが見えない。
2023年4月末の退院時は、体力さえ付けば、普通のヒトに戻れる、
そう信じて疑わなかった。
5,6月は、飛び跳ねないエアロビもどきを自宅で汗だくで
毎日、息をはぁはぁしながらやっていた。体力はついた。
しかし後遺症は治らない。そして体を傷める羽目に。
顔の麻痺(左側が他人の皮膚を移植したような違和感)はかなり取れた。
しかし、冷えや痺れ、軽い痛みが退院少し前から出始めていた。
それが、自宅療養になって、完全空調の温室で無くなり、
梅雨や夏へ季節が変わりエアコンの風にも過敏になり、
生活リズムや食事などが変わったこともあるが、
より強く痛むようになった。
右脚も同様で、特に食後には、確実に痛みが顔と右脚に来て辛くなった。
痛み止めの薬を追加で、ここ鹿児島で処方してもらい、未だに飲んでいる。
いわゆる血行障害、神経痛のようなものらしい。
特に食後は、消化のために内臓に血が集中する?ことから、
血流の悪化が生じ、顔左と右脚に冷えや痺れが来る。
さらに、脳の意識により、痛みの成分がそこへ作られるようで、いやらしくシクシク痛む。
脳梗塞なのに、脚のももや足首が痛むのである。
加えて失調の右脚は、不十分な可動域と協調運動にもかかわらず、
自己リハビリ(エアロビもどき)のやり過ぎ?で、
股関節を傷めてしまったようであった。
自己リハビリの限界に、遅まきながら気がついた。
夏場を過ぎて、専門的なアドバイスを求めて、他の病院などを探した。
後遺症で、リハビリ通院もした
その股関節痛や、フラつきの改善等の運動能力の回復を目指して、
2023年10月から週一ペースで隣市の病院に12月末まで通った。
専属の理学療法士が、失調の右半身の動きを見定めて、
マッサージや特別な運動メニューを準備してくれた。
お陰で、歩くときに右半身(股関節、臀部)が使えるようになり、
フラつきは少し治まってきた。歩き方は左右差が治まり、より自然になった。
また体全体のバランスや股関節の柔軟性改善などが進んだ。
こんなことなら、もっと早く始めれば(長くやれていれば)良かった。
鹿児島での主夫生活
話は前後するが、2023年7月に鹿児島に移り、嫁との同居を再開した。
その生活は、働く嫁と主夫の私。
稼ぎがない自分は、家のこともすすんでしないといけない。
富山の実家では、母が食事などの全ての面倒を見てくれていたが、
運動不足の解消やリハビリに家事が有効である(という理解に至った)。
この歳になって料理を嗜むようになった。
野菜中心の献立、あるいはスパイスカレーもどき等、
常にローカロリー重視、健康的だ。
生活も変わった。
平日の朝、嫁を送り出し、No+eの日記を書いたり、洗濯したり、
散歩や運動したり買い物したりしつつ、昼を過ごす。
そして夕食を作り嫁を待つ。
夕食後は風呂を準備し、入った後は早めに(9時から10時には)寝る。
再就職の思い
退院前の2023年4月初旬は、数ヶ月もすれば体も元通りになり、
転職活動、就職時期的には微妙だが、後期9月には再就職し、
完全復活!という夢物語を描いていた。
2022年12月の出勤を最後に、2023年3月末に退職していた。
しかし、4月末の退院後に、後遺症が明らかに強くなった。
その痺れ痛み、フラつきが予想以上に治りが悪く、痛みはどうかすると
退院前より酷い時もある。これでは、すぐ仕事に就けないと観念した。
鹿児島に移ってすぐ、ハロワに行き、失業保険の受給開始保留の申請をした。
「すぐに職に就けない人」という括りになった。
しかし、ハロワの求人のネット検索で毎日、地域の求人の状況は眺めていた。
田舎故、思ったような求人がなかなか出てこなかったので必死だった。
鹿児島に移って、夏が過ぎ、秋から冬に入る10月に、
リハビリ通院という明るい兆しが見え始めた。後遺症も手に負えなくなり、自己リハの限界、孤独な戦い、退院後に進まない回復、、疲れが見え始めていた。
週一だったが、自己リハで、正しく動ける体に一歩一歩手応えを感じつつ、後遺症の良き理解者がいる!というのが心強かった。
じっさい、後遺症は日替わり、一進一退だったが、
時間が経てば同じような症状でも、慣れてきた、心が落ち着いてきた、就職へ前向きに変わっていった。
2023年末、就活開始、不採用を3度、何とかパートタイムで
2024年4月始まりの仕事が、いわゆるラストチャンス、
そこからの就職にターゲットを絞ると、年初から就活に動く必要があった。
情報戦線はもう始まっていた。
そして、少し早く年末、師走に前職に非常に近い求人が出た、
ハロワを通じて応募した。
脳梗塞退院という事実は、履歴書等で敢えてオープンにして受けた。
書類選考を通り面接まですすんだ、
就職が決まれば2月初旬からの勤務だったが、初陣で見事に不採用。
面接で「重いモノを持つのが苦手」ということを言ってしまった
のがいけなかったかもしれない(事実なのだが)。
ハロワとかかりつけ医にも相談し、本格的に就活を開始することにして失業保険の正式手続きをし、明るい話題を取り込めないまま、年の瀬を迎えた。
年が明けて2024年1月、また別の前職に近い4月採用の求人、
同様に脳梗塞の病歴をオープンにして応募したが、今度は書類で早々と落ちた。
かなり落ち込み、もう自分はフルタイム求人への応募自体が厳しいのかなともこの時、思った。
そんなおり、ハロワのすすめでも、2月始まり〜3月の短期のパートはどうかと言われて受けた、4月からいきなりフルタイムは大変でしょ?と薦められるまま。
しばらく返事が無く、だめかなと思ったが、何とか採用が決まった。
2月14日は、就職記念日。三月末までの臨時採用事務アルバイト。
5時間のパートタイムだが、やり甲斐のある仕事、
皆やさしい、病気上がりの自分には勿体ないくらいだ。
約6週ほど勤務したが、何とか体も動いた。完全週休2日がこなせた。
寝たきりだった自分が、ようやくだが仕事が出来る、小さな一歩大きな喜び、そんな6週があっという間に過ぎた。
仕事が平日、毎日続くという緊張と、週末の緩和がリズムになる。
就職活動継続、夢のフルタイム、敗れる。
仕事と並行して、4月始まりの就職活動はしていた、まずは確実に、
一年契約のパートタイムの求人を探し、2社受けた。
面接も受けた(最終的に、何とか一社のパート内定を得た)。
そして、フルタイムの求人がまたあった。
やはり2度敗れたが夢も捨てきれず、
最後の挑戦で書類応募し、面接を受けることになった。
やるだけのことはやったが、残念ながら不採用。
フルタイムの壁。
やはり3度目もダメだった。
パートでやってみて、、という神のお告げと思う、しかない。
勤め始めていた2月中旬からの短期のパート(完全週休2日の5時間アルバイト)を3月末まで。そのパート第一章がスタートした後、
今は4月からの第二章が続いている。
つづく。