見出し画像

強制されることへの嫌悪

集団行動。勉強。部活動。仕事。
集団に属している限り、様々なことを強制的に「やらされる」
私はそれが嫌いだった。
居心地が悪かった。

例えば学校の朝会。
教師たちは、管理する者として上に立ち、または全体が見渡せる場所から、外れるものがいないか見張る。
生徒の一挙手一投足を見て、評価する。
整った姿勢で素直に話を聞く人は、「真面目で優秀」と捉え、
時間に遅れたり、話に集中していないような人は、「不真面目な指導すべき対象」として、マークをする。

管理される生徒は、そこに自由はない。
その場から逃げ出すことなど許されない。
管理する者は自由なのに。

とまあ、だいぶ偏見が入ってる気がするが、当時の私はそんなことを思っていた。

でも私は「臆病で真面目」な人だったので、そんなやさぐれた部分を表に出すようなことはしなかった。

私は学ぶことが好きだったので、勉強は苦ではなかった。
でも、「勉強の仕方を強制されること」が嫌いだった。事あるごとにテストがあり、レポートなどを出され、それに束縛されるのが嫌だった。
自分で計画を立てて、進めることが、1番やりがいがあって楽しかった。

私の通っていた高校は、「自由」を校風にしていたので、まだ自分で好き勝手できる余地が残っていてちょうど良かったが、
朝補習への参加を強制させられたり、テストの結果を貼り出してくるような学校に行っていたりしたら、真面目な私でも勉強嫌いになってた気がする。

でももちろん、そうしたくなる先生たちの考えもわかる。
手取り足取りどうやって勉強を進めていったらいいかを教えてもらって、その通りにやればいい結果が取れるというのならば、余計なことを考えないで済むから楽だろう。

でも私は、こうしなさい、ああしなさい、と言われることが嫌いだった。

もちろん、「やりなさい」と言われたことをやったことで、絶対自分の意思ではやらなかったであろう貴重な経験をたくさんできた。
よかったことももちろんたくさんある。

「強制」と言いつつも、その内容は長く人生を生きてきた大人が「これはやっておくべき」と思ったことのはず。
だから、やって損になることではないはずだ。

「強制」と「自由」のバランスは人それぞれ。
私たちが気をつけなければいけないことは、進路を決める時、仕事を決める時、節目節目でその環境をしっかり見極めて選ぶことなのだろう。

それが1番難しいんだけどね。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?