幸せを恐れる心——現代を生きる私たちの葛藤
いよいよ今年も終わりを迎えようとしています。1年という期間の体感スピードが年々上がっているように感じ、気を抜くと時代に取り残されていくような感覚さえ覚えます。
何はともあれ、この激動の2024年を乗り越えた私たちは立派な戦士です。精一杯自分の事を労ってあげようではありませんか。
「苦しむために生きているわけではないが、幸せになりきれない自分が確実にいる。どこか、幸せになることを恐れている。」
素直に幸せになる事を受け入れればよいものを、あーだこーだといろんな面から批判する、ひねくれ者の考えかもしれません。
心の底から何かを楽しむという感情であったり考え方、心の持ちようをどこかに忘れてしまった。
なんと言うべきか。昨今、いわゆる”若者”と称される世代は、生まれた時から経済不況であったり、国の借金が膨れ上がっているんだと謎の脅しをかけられたり(財務省め、クソだな)、少子化だと騒いだり、何かとずーっと暗い話題ばかりが目に付き、明るい希望や将来を描けた人が少ない傾向にあるのではないかと感じる。「元気な日本」を知らない世代。生まれて物心がついた段階で、そう遠くない未来に日本全体の問題のしわ寄せが我々世代に来ると知る。そのことが明確な上で生きていかなくてはならない。子どもながらに「なんでやねん」と思ったのを覚えている。
加えて、ネットやSNSが普及したおかげで「情報」へのアクセスハードルが劇的に下がり、熾烈な情報戦が繰り広げられるようになった。社会が複雑化し始めたのである。”インフルエンサー”と呼ばれるジャンルが確立され、情報の流通に拍車をかけるようになった。一方、特定の個人を徹底的に叩くような行為も目立ち、まさに「出る杭は打たれる」といった状態が生まれた。これはいつまで経っても改善せず、むしろ悪化の一途を辿っている。一昔前より更に巧妙な手口になっており、収拾が付かなくなっている。ネットの世界でけでなく現実世界でも似た事例は生じており、好きなことや物を主張する事に、どこか後ろめたさを感じることがある。
このような社会的背景を踏まえると、私は一歩引いた考え方を取る方が無難なのでは?と思うようになった。つまり、自分の夢や理想を持つより、今日明日を生き延びる事の方が、優先度としてかなり高くなってしまった。現実主義にならざるを得なかったのである。更に、日本独特の同調文化に飲み込まれ自分の本心とはかけ離れた主張をしてしまう。本心を押さえ続けると、次第に自分を見失ってしまう。
このようにして、幸せになる事を恐れるようになったのではないかと考える。自分の中の別人格が「浮かれてんじゃねーぞ?テメェごときが」と厳しく律してくる。浮つくのは確かに怖い。いつ足を掬われるか分からないから。だから、いつでも一歩引いた考え方を取るようになってしまい、現実を俯瞰的に眺める。出来るだけ「個人」という杭が出ないように怯えながら。
ここで、ある本の中から一節を紹介したいと思う。
もう、まさにこれ。端的に表現されています。「喜怒哀楽」という四字熟語は破綻したのか。「喜哀楽、行く末は怒」くらいの今日。何をしても怒られるのでは?と怯えることすらも、もう日常的になってしまった。この文章に出会ったとき、思わずそのページの写真を撮り、いつかnoteの記事ネタにしようと考えていた。
心の中に形成された雲は年々厚みを増しており、一筋の光さえ通りにくくなっている。雲を突き抜けた先の景色を見る希望すら、いつの頃からか忘れ去ってしまい、今日明日を生きるべく、薄暗い雲の下で奮闘する事を選んだ。奮闘することは生きる事のような気がする。たまには何もかも諦めて、もぬけの殻にようになっても構わない。
我々は今日も小さな奮闘を繰り広げる戦士なのだ。
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ではまた次の記事で会いましょう。