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お前の父ちゃんもう還暦なった?

 同年代の友人が「お前の父ちゃんもう還暦なった?」と訊いてきた。ぼくは察して、「還暦祝か?」と訊き返すと、「そう」と彼は応えた。自分の父の還暦祝に何を選んだらいいか、参考にしようと思ったのであろう。20代も終盤に差し掛かり、ぼくらもそういう年になったのである。
 
 ちょうど父が今年還暦を迎えたので、その時の経験を話した。父が何歳であることなど思い至りもしなかったが、誕生日当日に家族のグループラインで皆がとりあえずおめでとうとメッセージを送る中、「あなたももう還暦ですか、おじいちゃんですね」という母のメッセージを見てはじめて気が付いた。
 
 とうに実家を離れているので、直接会って祝うことは困難である。というかそれでなくても今は疫病のせいで直接には会いにくい。適当なものでも贈ることにした。
 ネットを見ると、「ちょっと高級なお酒、メモリープレート、タイピン、万年筆などが男親への還暦祝にはおすすめです」などと謳った記事が散見された。そういったものはたいてい万円以上する。だるい。それにあれこれ思い悩むのも面倒だ。

 名前に「寿」という字が入っている父は、その字のために学生時代は「すしお」というあだ名で呼ばれることがあったという話を聞いたことがあった。それに寿司は縁起物でもある。そこで、布製の寿司の小物入れをイッセイミヤケのプリーツプリーズで買い、送付先を実家に指定した。正直そんなに高価ではない。とはいえ、イッセイミヤケが出しているだけあって、生地も美しく、細部も含めてなかなかしっかりしたつくりなのだ。

 「還暦のお祝いに寿司折を買ったのですが、東京からお送りしてはその途中で腐ってしまいますので、いつまでも鮮度を保てるようにしました」とメッセージカードに添えた。我ながら薄ら寒い文句だが、これでも見て笑ってくださいよという話である。ほどなくして着荷し、父からは礼の連絡があった。友人に話した内容は以上のようなものだ。参考にならないのは承知の上でいった。

スシ2

寿司折の左から、マグロ、タマゴ、イクラ、ウニ、鉄火巻き、かっぱ巻き。

 友人の話では彼のお父様も今年の7月に還暦を迎えられるとの由。そこで赤いちゃんちゃんこならぬ赤いジャケットでもひとつ贈ろうかということになったのだという。しかし服をどこで選べばいいか分からないし、どんな服がいいかも分からない。何、百貨店に行け? 百貨店てのはどの百貨店だい。阪急か伊勢丹だって? するってえと何かい、おれひとりで阪急メンズ東京に行って親父の還暦祝にふさわしい服を選べってのかい。べらぼうめ、こちとら田舎育ちの山猿よ、阪急だかサンキューだか知らねえが、日比谷くんだりのお高く止まった店なんぞに繰り出して、ひとりで満足のゆく買い物ができるわきゃあねえだろうが、ちきしょうめ。服のブランドなんざ別段興味もねえが、親父の還暦祝に半端なモン買うわけにゃあいかねえや。そこへいくとお前さんはよ、安月給のくせに着道楽じゃねえか、え、なんのためにお前さんのお父つぁんの還暦を尋ねたと思ってんだい。ニブい野郎だな。少しは脳ミソ使いやがれってんだ、だからお前さんよ、親父のための服選びについてきてくんねえかっていってんだよ、いいか、飯代くらいは出してやらあ、え、悪い話じゃねえだろうが、さァさァさァ! とこう来たのである。

 疫病流行の時世もあり、かなり悩んだが、「雨が降った日の開店直後、そして滞在時間は90分以内」という条件付で承諾した。悪天候の日の午前中は、百貨店がもっとも空いている時間帯である。

 ただ、彼の依頼を受けた最大の理由は、予算を告げた彼の台詞にあった。彼は「2-3万で足りるかな」といったのだ。正直かなり適当に阪急メンズ東京の名前を挙げたので、2-3万のジャケットがそこに売っているかどうかはわからない(たぶん売ってない)。

 彼がお父様のために3万の身銭を切ろうとしているという点が衝撃的だったのである。仮にぼくの銀行口座に現金8兆円あって、麹町に広大な敷地の別宅を構えていたとしても、父のために3万円遣おうとは思えない。言い訳をさせてもらえるなら、これは父が嫌いとかそういう次元の話ではない。たとえていえば、うまい棒は確かにとてもうまいが、それが「自分の為だけに株式会社やおきんが作った極めて貴重なうまい棒」だとしても、そのうまい棒に3万円払う気になれないと似ている。ぜんぜんうまく例えられてないかもしれないが、ともかくそういうことなのだ。

 3万円で思い出した。話が逸れるが、ご祝儀に入れる額が最低3万円という旧弊の価値観はどうにかならないのか?
 徳川時代までの日本には結婚式という式典そのものがなく個人宅や料亭で「祝言」を挙げていたはず、と思って軽く調べてみると、遅くとも1964年までにはいわゆるホテルなどで結婚式を挙げるという様式が生じたらしい。というのも、この年に行われた東京オリパラのために都内には大型ホテルが乱立されたため、ホテル側が部屋を遊ばせないように「打掛ではなくドレスを着て、美しいホテルで結婚式をなさいませんか」と提案するというビジネスが生まれたという寸法のようである。
 そして「ご祝儀は3万円」という謎の慣習が生まれたのは、あくまでネットの調べだが、どうやらバブル期の可能性が高い。バブル期ってあれだぞ。日経平均株価が38957円(89年12月29日時点)を叩き出した時代だぞ。ちなみにきょう2020年7月13日の日経平均株価の終値は22784円だ。ぜんぜん違うじゃねえか。

 あの時代の3万円など、たぶん、今でいうところの5000円くらいの価値だ。その時からご祝儀はずっと3万円なのだ。こちとら生まれてからずっと不景気なのに結婚のやつだけはいまだにバブル期の感覚引きずってるってどうなってんだ。平野ノラでさえバブルの衣装から令和の服装にソフトランディングしてんだぞ。
 すみやかにこの悪習を撤廃してほしい。誰にいえば是正してくれるんだ? フワちゃんか?


 それで話は友人の御父君の還暦祝である。雨の降る日の午前中に阪急メンズ東京で待ち合わせをして、ではふさわしい服を選ぼうかという段になったのだが、ぼくたちは「日本の60代男性はあまり赤いジャケットを着ない」という事実にその日まで気づかずにいたので、どのテナントにも赤のジャケットが置いていないことにびっくりしてしまった。まったく無いということもないのだが、そういうものに限って「理系の院卒の初任給かよ」という値段なので買うに買えないのだ。

 さて困った。御父君はスーツをお召しにならないため、ネクタイや革小物といういわゆる定番の品は不要なのだという。友人も頭を悩ませていた。そこで一通りすべての店を見て回ったところ、地下一階で高級扇子を見つけたのである。
 それはなんとかという日本画家が絵付けをした渋好みの扇子で、紙には金箔をまぶしてあり、骨の部分の竹も高級なものを使っているという逸品だった。2-3万円という予算の範疇にもぎりぎりおさまっており、友人はそれに目を留めた。
 扇子は「末広」といって縁起物でもある。君の父君は夏のお生まれであることだし、父君への還暦祝の贈り物としてはぴったりではないかと話したところ、それもそうだと思ったのか、彼はさっさとその扇子を買ってしまった。決断が早い。もっと迷うかと思った。購入手続の際、販売員の方に「熨斗は外熨斗になさいますか、内熨斗になさいますか」と訊かれて友人が答えに一瞬迷ったので、横から「内熨斗で」と割り込んだ。
 
 後日、別の同年代の友人(一緒に漫才をやろうと思った人)に、これこれこういうことがあり、友人がお父様のために2-3万円を使うことにびっくりしたよという話をした。
 すると彼はなんでもないような顔で(実際はテキストメッセージだから表情は見ていないが)「うちの父が去年還暦を迎えた折には、高級ブックカバーを贈り、さらに温泉旅行をプレゼントし、さらにさらにサプライズ帰省して写真館で家族写真を撮った」といった。ぼくは砂になった。
 しかも砂になったことをツイッターで呟いたところ、また別の同年代の友人(和歌が好きな人)が「当家はラコステの赤いシャツをプレゼントし、デパートで調達した牛肉を使って皆ですき焼きを食べたよ」というので今度は塵になった。
 
 なぜみんなそんなに父親への愛が深いのか? というのが正直な感想だった。そしてそれは逆説的に、ぼくは父親への愛が他者と比較して足りないのか? という自己批判にもつながる。彼らが皆一様にいうのは「金額じゃないよ、気持ちだよ」という台詞だった(和歌が好きな人だけは「わたしの手取りが月9兆ユーロだから出来たことです。庶民はご無理をなさらず」といっていた)。
 たしかに贈り物で大事なのは金額ではない。ぼくの貯金残高は120円くらいで、いまにも貧窮問答歌を歌ってしまいそうな身の上ではあるが、そういう者こそ貧者の一灯というやつで、金額よりもまごころこそが大事なのであろう。しかしそうなると、あの贈り物にはさしてまごころを込めておらず、なんとはなしに贈っただけであるため、こちらの論理でいっても詰む。当然のことだが、イッセイミヤケの寿司型小物入れは悪くない。こっちが勝手に喚いているだけだ。イッセイミヤケは全くもって悪くない。むしろどうもありがとうございますと思っている。

 彼らのような心ある人たちと、心ないぼくの還暦祝ではなにが違うのだと考えたが、いうなれば時間と労力だという結論を得た。

 「わざわざ普段行かない百貨店に足を運ぶ」「わざわざ帰省して家族写真を撮る」「いつもよりも良い肉を買って皆ですき焼き鍋を囲む」などのように、時間と労力を親のためにかけるという彼らの気概がぼくを塵にさせる。仮に金銭がさほどかかっていなくても時間と労力がかかった贈り物は非常に尊いものである。そして労働によって得た金銭は紛れもなく時間と労力の結晶なので、その結晶を親のために遣うということもまた、ぼくをして砂に成らしめるのだ。

 再度いうが父のことが心底嫌いなわけじゃない。むしろ徹底して彼を憎むことができたのなら「他者は心を尽くして親の還暦を祝っているようですが、還暦祝は贈りません、絶対に」と開き直れただろう。
 しかし開き直ることもできない。ただただ親への愛が薄いのではないかという思いに苛まれる。もちろん、ぼくなりに父の還暦を祝う感情を寿司型小物入れに込めたつもりだ。親への愛がないわけではない。ただ、自分自身をより愛しているだけなのだ。

 ちょうど今日(2020年7月13日)、ツイッターでは「ミモレ丈」がトレンドワードになった。その原因は『32歳腐女子自分の子供っぽさに気づいて恥ずかしくなる』というブログである。

 このブログでは「久しぶりに会う同世代の友人はミモレ丈のスカートやドルマンスリーブのトップスなどのきれいな服を着て、服装に気を遣っていた。それに引き換え私は……私ときたら……」という論調で、お金の使い方や話し方なども含め、自分は他者と比べて幼稚なのではないかという暗い渦に呑まれていくさまが克明に描写されている。これに人びとがそれぞれに反応した結果、なぜか「ミモレ丈」だけがトレンドワード入りしたのである。この話の真偽や細かい点は措くとしても、他者と比較した結果自分が劣っているように感じた結果つらぽよ、という点のみにおいては相通ずるものを感じた。

 結婚式でのご祝儀のようにある程度の社会基準を設定されれば、とりあえず当該人物への思いの軽重を比較されることは少なくなるが、一部の人間がその基準への不満を抱く。しかし一方で、今回の還暦祝のように各人がそれぞれに贈り物を設定することになると、それはそれで一部の人間が砂になってしまう。どちらにしてもエラーが生じるのだ。まことに人間関係というやつは面倒だ。漱石が「とかくにこの世は住みにくい」と書いた気持ちが痛いほどわかる。
 漱石は、この世が住みにくい世だとしても少しでも過ごしやすくせねばならず、そのために画家や詩人が社会に要請されるのだと書き、「あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするが故に尊い」という芸術礼賛につなげるのだが、これが本当ならぼくには千の絵と万の詩が必要だ。
 
 真に面倒なのは人間関係よりもぼくの性格ではないかと内なる声が囁く。しかしまた別の内なる声がそれはそれとして人間関係が面倒なことは疑いない事実であると嘯く。相反する声が響き合い、自分でもよくわからなくなってきた。でも久々に「美しい他者と美しくない自分との間の往復運動」が発生して、魂がぐわんぐわんに揺れたのが面白かったから書いとこ。
 

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