やってやれないことはない29話 『49歳獣医学部学生 研究室と骨折とフレンチブルドック』
三年後期になると決めなければならないことがあります。 目指すところの希望する研究室に入れるかということです。
これには難関の関所があります。
第一グループは140名中60番までの成績にいること。この中に入れば、好きな研究室選択の優先権が与えられます。
目標は60番以内です。エンジンがかかります。
されど辛い事実があります。これは相対評価です。
そうなると29歳も歳の差のある優秀な学生たちと戦うのは不利です。
単純に言うと、私の年齢や勉強から遠ざかっていた期間を勘案すると一番ビリでもおかしくないというのが、もっぱらの評価でしょう。
ムムム… 何としてもクリアしなければと意気は上がるが頭は動かぬ。
一年生は何とか再試もなく単位クリアして進級できました。
二年生は再試もなく単位を落とさず進級できました。
三年生になると専門的な科目や授業が増えてきて、特に理解力を要求されてきます。
シラバスを丹念に読みほどくうちに学習方針が決まりました。
高校の知識の必然性は薄まり、若い学生たちと三年生のスタートが僅差になったことを理解しました。
ならば、理解力重点の方針を推し進め、徹底することにしました。
四年生になり、そうこうしながら授業と試験をクリアし、いよいよ成績発表です。
メールで順位が届きます。
目が点になりました。
「あなたの順位は61番」
又もや人生の綱渡りです。
なぜか悔しさより、安堵感がありました。
第二グループの1番とは、よほどのことがない限り研究室に空きはあるはずと読みました。
私がやりたい卒論研究テーマは、「湿潤療法による創傷治癒」です。
このテーマの先進性は、人医療で行われ始めており、獣医療ではまだ、数人が治療に応用している程度です。
第二グループ1番目に選択した研究室はBME。
バイオメディカルイングリッシュ研究室です。
この教室の教授は、米国人のケネディ教授です。アメリカ合衆国の大統領であったケネディ家の親せきだそうです。
この教授の方針によって、自由にテーマを決められるとのことでしたので、教授と面接の上、適否が決まります。
私の意図するところを理解していただき、無事研究室に入れてもらえることになりました。
但し、条件付きです。教授はPhDなので論文の内容は指導できず、論文の構成のみの指導を受けるということになりました。
つまり、論文が正しく書かれているかどうかは、自分次第ということです。自己責任で頑張るしかありません。
四年生後期からBME研究室に所属となりました。
構成は総説論文として、世界中の多くの関連論文を集めると同時に翻訳するということになり、多少不安になりました。
論文というのは、構成が一定しているうえに、専門用語もある範囲に収まり、読み進めるのは慣れによって進度が早まりました。
論文を読みながら構成を作り、さらに読み続けていきながら構成を変更するという作業を繰り返し、最終的に150本程度の論文に目を通し、40冊余りの関連書籍から知識を得て完成させました。
総ページ数55ページの大作となりました。
この間にいろいろなことがありました。
冬休み直前の下腿骨折は、生まれて初めて救急車に乗りました。
時は冬休み2日前。クリスマスに手術となりました。
年が明けると後期試験です。それまでに退院して試験を受けることが出来るか心配になってきました。
試験を受けられなかったら留年。ふと頭をよぎります。
大学の学生課の職員の方が、各教授に諮っていただき退院後の春休みに受験させてもらえることになりました。日程もすべて調整して頂けたので安心しましたが…
一カ月を超える入院中、外は大雪で身動きが取れません。
思考転換でプラス思考です。どうせ動けないのなら、ベッド上と談話室で試験勉強をすることにしました。
退院後、大学の決めてくれた試験日程に従って受験です。
場所は教授の部屋。一対一で受験。再試験組と一緒に行ったのは、1教科のみで後は、各教授と一対一です。中々できない経験となりました。
無事に全教科合格点に達し、再試験なしで進級できました。
入院中にハタと気づいたことは、過去30年以上、命の息遣いと身近に触れ合っていないことです。
獣医になるのに、机上の空論ばかりで知識の話をしても、臨床の現場でどれだけ役に立つかということです。
早速、愛犬となる仔犬を調べました。
飼育可能でもマンションで飼育するには、吠えないことが大切です。住民に迷惑をかけないようにしなければなりません。
まず吠えないまたは、ほえることが少ない犬種。
人懐こくて、丈夫な骨格の犬種。
中型犬より小さい犬種。
探し当てた犬種は、フレンチブルドックです。
岡山県から飛行機に乗ってやってきました。
片手のひらに乗るほどの元気いっぱいで人大好きな男の子です。
名前はマックス。ビロードの被毛と眉間に白い流星の入った男前です。
犬を今まで幾度が飼ってきましたが、32年ぶりでしたので、初心者と一緒です。
糞便はそこいら中にまき散らし、噛める物は何でも噛んで傷だらけにしてしまいます。テッシュは箱から全部出して床一面にまき散らす。それも偏りなくきれいに敷き詰めるという表現が正しいほどに。
こんなに飼うのが大変なんて気づいてよかった思うことしきりです。
1年経つとようやく落ち着いて、時に私の息子と思うようになりました。
世のお母様の育児ノイローゼが理解できると同時にその過酷さは、かわいいと思える気持ちがなければ続かないことを、痛切に感じる出来事でした。
おおよそ人の18年の成長が、犬では1年で来てしまうスピードにアタフタしてしまう日々を過ごしました。
マックスとの同居から、人と動物の違いを感じるよりも同じ動物としての視点が持てたことは、何物にも代えがたい収穫でした。
言葉の会話はできなくても、理解しようとする視線を送っていることを感じ取る感性が人間にあれば、通じ合えることがあります。
人医療の視点からしか見ていなかった医療を、動物全体としての医療をみる視点に立てたことが、この後非常に役立つことになりました。
健常者と障がい者の意思疎通も感じ取ろうとする感性があれば、困難なことも前進できるようなると確信が持てました。