【深読みフリーレン】「人は死んだら無に還る」は本当か?
アニメ『葬送のフリーレン』が好きです。
※がっつりネタバレです
アニメシーズン1エピソード4のワンシーン。
ドワーフの戦士アイゼンには、魔族に村を襲われ家族が亡くなってしまった過去があります。
その村を訪れた勇者一行。
僧侶ハイターがお墓の前でひざまずき、お祈りをしました。
当の本人、アイゼンは言います。
「人は死んだら無に還る」
ハイター
「天国に行くんですよ」
そこに、一番長生きしているフリーレン
「数千年前までは無に還るって考えが主流だったからね。ドワーフは伝統を重んじる。まあ、私も天国には懐疑的だけど。いまの人類の魔法技術じゃ死後の魂の観測ができないから、実在を証明できないんだよね」
すかさず勇者ヒンメル
「どっちでもいいと思うけどな」
天国についてさまざまな意見が出てきました。
伝統を重んじる人、論理的に考える人、どっちでもええやんと思う人。
そこに、天国という言葉を最初に出したハイターは、ぶっちゃけます。
「そうですね。私も実在するかどうかはどっちでもいいです」
ヒンメル
「僧侶がそれを言っていいのか?生臭坊主」
ハイター
「でも、たとえ実在しなかったとしても、あるべきものだと思います」
アイゼン
「なぜだ?」
ハイター
「そのほうが都合がいいからです。必死に生きてきた人の行きつく先が無であっていいはずがありません。だったら天国で贅沢三昧していると思ったほうがいいじゃないですか」
ヒンメル
「確かに都合がいい。祈るか」
アイゼン
「ああ」
そういって、僧侶も、伝統派も、論理派も、どっちでもええやん派も、みんなで手を合わせ、お墓の前で祈りを捧げました。
ここからは私の解釈や考えが存分に入ります。
みなさんは「天国はある」派ですか?
それとも「天国なんてない」派でしょうか?
それとも「どっちでもええやん」派?
私は「天国なんてない派」です。
あるかないかは、死んだ人にしかわからない。
そして、私は死んだ人と話をすることができない。
まず、私は主観的体験は真実だと思っています。
死んだらどうなるかは、自分が死ぬとわかる。
逆に言えば死ぬまでわかりません。
そして、客観的体験も、信じられる根拠があれば真実だと受け止めることができます。
だから、死んだ人と話ができれば真実がわかるかもしれないけど、私は死んだ人と話をしたことがないのでわからない。
だから、天国があるかどうかは、わからない。
と、ここまで考えてみると、
「天国なんてない、とは言えない…」
ということがわかってきました。
「天国なんてない」派だったのは「どっちでもええやん」とは思えなかったからでした。物事に白黒つけたがる思考が強かった。
結論を出したがるクセはいまも変わりません。
「天国なんてない」というのは、たくさん思考したわけでも、さまざまな角度から検証したわけでも、たくさん調べた結果でもありません。
非科学的な思考ですし、信念もありません。
ただ、
「見えない世界を疑いの目で見る自分でいたいだけ」
「多数派の中にまみれて安全圏にいたいだけ」
だったのだと思う。
天国があるか?ないか?
それをはっきりさせられるのは、死後の世界を体験したことがある人か、科学的思考を持って調査・検証し続けた人だけです。
中途半端な経験で、非科学的な思考で、結論を出してはいけないと感じました。
そのうえで、天国はあるか?ないか?
私は「どっちでもええやん」というスタンスを取りたいと思う。
もちろんできるだけ勉強をしたうえで、体験的に科学的にすぐに結論が出ないことに対しては、
「自分にとってどちらが都合が良いか?」
と考えるクセをつけようと思いました。
あるか?ないか?の議論の世界から外れてみようと思いました。
たとえば…
以前、田坂広志さんの『死は存在しない』という本をYouTubeで紹介したことがあります。
死後の世界を科学の仮説で説明したらこうなる、というようなお話。
これには猛烈な賛否がありました。
だって、死んだあとどうなるかいまのところ誰にも証明できないんだから。
それを「死は存在しない」ってタイトルで言い切っちゃってるし。
賛否両論になるのは当然のことです。
でもこれが、科学的な仮説に基づくものであれ、なんであれ。
「死は存在しない」という言葉に救われる人はたくさんいるのだと思う。
その根拠に確からしさを感じられれば感じられるほどに、心が救われる人がいるのだと思うんです。
奇跡的な生を当たり前のことのように消費してしまう私のような人間にはわからないのです。
死と隣り合わせの生を享受している人の心が、ぜんぜんわかっていないのです。
私には計り知れない苦しい思いを抱えている人の心が、少しでも軽くなるのなら。
そこにほんの少しでも希望が生まれるのなら。
死は存在しない
と私は言い放つ。
その方が、私にとって都合が良いから。
理想のあり方、人生のゴール、使命や役割。
そのために、自分にとって「都合の良い」考え方を取り入れる。
真実は足元にある
どの考え方を選択するのかは、私たちの生き方・信念・大切な人に関わること。
ハイターの「天国が実在するかはどっちでもいいけど、それはあるべきものだと思う」という信念と同じだと思う。
周囲からの要請・期待・価値観に振り回されることなく。
いつでも自分軸で。
かといって情報を遮断し閉じこもって独りよがりに考えるのでもなく。
他者は自分の鏡であると心得て。
さるべきごうえんのもよおせばいかなるふるまいもすべし
「私はあなただったかもしれない」
という可能性に目を開き、理想のあり方・人生のゴール・使命や役割にぴったりの考え方を採用して、生きていく。
真実は、私とあなたの中にある。