おかしなお留守番旅 鎌倉 ー宿編ー
私に訪れた朝までの無限の時間。
それはある意味本当に無限の夜のつもりだった。私はこの日、眠らない覚悟でこのホテルへ来た。というのも、3年前の秋に重い不眠症を患った私は、それ以来、自宅以外では、医師の処方薬なくしては眠れない体になってしまったからだ。服薬しても一睡もできなかった旅の夜も幾度かあった。その薬は、念のため防災上(というか、ただ単になんとなく心配なので)、夜ひとりきりの日は飲まないことにしている。今夜は眠る努力は放棄して、ただ横になるのみだと思ってここへ来た。
時間はたっぷりある。テイクアウトのカレーを食べてもまだ夜7時頃。私はまず、ずぶ濡れになったショートトレンチコート、ベレー帽(流行っていることを抜きにしても鎌倉はベレー帽女子が実に多かった)、そしてspring fieldのハイカットのスニーカーをひたすらドライヤーで乾かし続けた。部屋での足元は靴下だ。板張りの感触が気持ちいい。
バストイレが共同だとしても、ドライヤーだけでも部屋に備え付けてあるというのは、女性にとっては本当にありがたいことだ。共同スペースで必死にドライヤーをかけつづけるのは実に所在ない。これで旅の夜の過ごし方に格段に余裕が出る。
いっぽう、この宿には「ない」ものが3つある。テレビ、湯沸かしポット、そしてカーテンだ。
テレビはまあ観るほうだが、なければないで平気だ。ないほうが非日常気分が盛り上がる。私はwi-fiに接続してradikoで以前聴き逃した番組を、小さく流しっぱなしにした。
食後のコーヒーが飲みたかった。カフェインを制限せざるを得なくなり、コーヒーがまともに飲めなくなって8年がたつ。私の日常の楽しみは喫茶くらいだというのに、この無念さよ! 今日も紅茶1杯がやっとだった。そんなこともあり、私はデカフェのドリップパックやハーブティをいつも持ち歩いている。しかしこの部屋には旅館によくあるような湯のみとポットがない。共同スペースにあるポットにはすでにオリジナルブレンド茶が入っている。
少し緊張しながら部屋を出てカフェラウンジに行くと、キッチンでは女性のほうの宿主が、静かな空間で台所仕事をする音が響いていた。おずおずとドリップパックを差し出し、カフェインが苦手なのでこれが飲みたいのです、お湯をいただけませんか、と言うと、彼女は私の渡したパックのパッケージをしばしじっと見た。
「140mlで…30秒蒸らし… あっ、あのカップでいつも私たちも140ml淹れているので、淹れてお持ちします!」
そういって彼女は棚の上の丸みをおびた、取っ手のない器を指差した。私ははっとして、次の瞬間自分のいい加減さにあきれた。私はいつも自宅の大きなマグカップに適当になみなみとお湯を注いでコーヒーを淹れるのみで、何mlだとか、何回に分けてお湯を注ぐとか、パッケージの説明書きをまともに見たことすらなかった。
彼女は真剣だった。引き受けたからには一定のクオリティのものを提供しなければいけないということが、当たり前のように染み付いているのだと思った。私より年若いであろう彼女に、私は「へへい、おそれいりました」とひれ伏したくなった。私はどう転んでも丁寧には生きられない!
かくして彼女が部屋に持ってきたコーヒーは、私がいつも自宅で飲んでいるのと同じものだとは思えないくらいの美味しさだった。本当に奇跡的に美味しかった。きっといくつもの力が働いていたのだと思う。雨の夜にひとり静かに飲むコーヒーはまったく最高だ。
そして、もうひとつ、ないことが珍しいもの。このホテルにはカーテンがない。
正直なところ私はそれを恐れていた。この夏にぶり返した不眠症を、なんとか1級遮光カーテンで乗り越えた私は、すっかり光に過敏になってしまい、カーテンに隙間があることさえ怖かった。しかし客室の写真を見るに、ベッドのすぐそばに窓があるではないか。ひとり旅での安眠は最初から諦めていたが、ストールやマフラーを吊るせば少しは光を防げるのではないかと、洗濯用のピンチを複数持参してきたほどだった。
しかし、私はこの客室に入った瞬間、窓にカーテンがない理由がはっきりわかった。青い夕闇がきっちりと四角に切り抜かれ、それはジェームズ・タレルの作品のようだった。ないほうがしっくりくる。私は安心した。その色はこのホテルに吊るされた藍染のタペストリーと同じだった。
シャワーを済ませて部屋に戻り、寝る体勢だけでも整えると、もうすでに雨は小降りになっていた。今日までの疲れ、今日の疲れなどをすべてほぐすために、私は腰をすえてヨガを始めた。iPhoneのヨガアプリを使い、体のコリと痛みにひととおりすべて気づき、丹念にほぐすと、12時近く。例によってまったく眠くはなかったが、疲れてはいたのでひとまず電気を消し、ベッドに仰向けになってみた。窓の外では早く流れる夜の雲の隙間から、洗いたての星がまたたいていた。
幾重にも重なる雲がふっと目に入った。私は仰向けでそのまま目を覚ました。
驚いて時計を見ると朝6時少し前。6時間も眠っていないのに実にすっきりとしていた。奇跡が起こったと思った。夏に旅した信州で、カモミールの香りにつつまれながら、眠れない眠れないといって夫の横であっちに横になったりこっちに横になったり、足に座布団を挟んだりしていたあれはなんだったのか。
。けれど、私の体には、まだまだ私も知らない可能性があるんだ。
窓の外は台風の名残の空だった。煮魚と炊きたてのごはんと色とりどりの香の物を食し、Aさん母娘と人生のよもやま話をし、連絡先を交換し、私はひとり朝の散歩に出た。ホテルの前の道を渡ると、小さな路地があって、その先に小さな稲荷神社がある。鳥居の向こうに光る海が見える。
長谷の海岸は思ったより砂浜が少なく、それほど散歩できるものではなかった。それでも大きな犬を連れた地元の人が、あちらからもこちらからもやってきて、その向こうに輝く波間でサーファーが見え隠れしている。坂の下の路地ではトンテンカンと、台風の傷跡を補修しているであろう音も聞こえる。猫も複数でにゃあにゃあ鳴いている。贅沢なフレンチトーストを提供するというカフェからは、焼きたてのパンの香りが漂う。
今日、夫は帰国する。夕飯はいらないから、私は何時に帰ってもいい。大げさではなく、人生でいちばん自由な朝が来た、と思った。
今日は青空のもと、久しぶりの鎌倉文学館や、成就院、御霊神社なども行っておこう。甘縄神社の石段を登って見下ろす海が美しいそうだ。けれどおそらく、日が高くなってからは、いつもの、普通の散歩になるのだろう。旅の魔力は帰る日の昼には消えてしまうものだから。
2019年現在、ひとり旅でも、おおむねシラフでよく眠れます。
午前にカフェでおやつを食べてしまえるのも旅の醍醐味。朝8時から営業の「福日和カフェ」ではこんな乙女なチョコレートタルトが/御霊神社は、踏切をまたいで境内へ。ちょうどトンネルから出てくる江ノ電が見られる/1980年創業の喫茶店「浮」は2日目のランチに。内装が船。神奈川県鎌倉市長谷3丁目8−7 12:00〜不定 /帰りの電車を前にカフェインがこれ以上とれないため、鎌倉駅から歩いて「スターバックスコーヒー鎌倉御成町店」でデカフェを。漫画家・横山隆一氏の邸宅跡を生かして作られている