2024年5月 急転日記②(まだ事情は言えない)神田橋処方の日々
2024年5月13日(月)
明け方トイレに起きたら、なんと霊が出た。
前回の除霊から2週間。除霊の効果は2週間あるかないかと専門家が言っていたが、ちょうどそのタイミングかよ。
除霊を行い、なんとかすべてを水を流し、ふたたび心が折れる。
4時間しか眠れなかった。
訪問看護師さんがきて、急転のいきさつを話す。
私はなんのために金沢に帰ってきたのだろう、私はひとりで生きられない人間なのだろうかと落ち込んだ、という話をしたところ、
「今はその出来事の意味がわからなくても仕方がないと思います。あと、シェアハウスみたいな老人ホーム、すでにありますし、私たちの頃はもっと増えてるから大丈夫ですよ!」と励まされる。
この方は本当に素晴らしかった。とても頭の回転のよい方だった。
ご本人も能登のご実家から家族を受け入れて暮らしていて、今大変だというのに。
そういえば、こちらでの担当の美容師さんも、能登町の出身で、金沢に戻る途中の里山道路で被災したそうだ。
金沢には能登出身者が本当にたくさんいる。みなさん気丈に働いていて頭が下がる。
仕事を少しして、近くのスーパーに遅いカーネーションを2輪買いに行く。
もう、母の日に母に会えることなどこの先ないだろうと思って。
夕方、バスに乗って実家に着く頃には、1本ポキンと折れていた。
夕方夫と少し通話。夫の親族に突然の不幸があって驚く。
夜、父母が大喧嘩する。
ふたりとも私と話すときは普通なのに、夫婦というのは雑と甘えの極みなのだ。
でも私たちだって、一緒に暮らしていた時はこれに近いこともあった。夫が戻ってきた時、決してそれに戻らないようにしなければ。
邪気をかぶりまくって実家にて就寝。
2024年5月14日(火)
生理が始まりかけなのもあるし、どうも邪気をかぶっていて、心がふさぐ。
明け方薬を2回も飲んで、なんとか睡眠時間を確保した。
正直、この街を離れたら、もう実家とはあまり濃く関わらないようにしよう、と思っている。みな、あまりに問題をかかえていすぎる。私は自分のことでせいいっぱいだ。
私は何も期待されていないし、結局まともにクルマの運転もできないのだから、薄いつきあいでいいのだ。
時々姉と会うだけでいい。私は私で幸せになればいいのだ。
帰り、父に送ってもらいがてら、西南部のスーパー「どんたく」へ行く。
素晴らしかった。野菜、お惣菜、お菓子、パン、どれもこれもオリジナリティーがあって品揃え豊富、自然派の食材もたくさんあれば特売品もたくさんあって、普段使いもできる。
地方のスーパーに行くと、その食材の貧しさにどんよりした気持ちになることが多い。どこもこんな感じだったらいいのに!
そう、地方はその豊かさに感嘆することと、貧しさに悲しくなることの両極端なのだ。
今朝はじめてシッターさんに来てもらった。今後家をあける時にはちょいちょいお願いするつもり。
もう、何がどうしてこうなったのかもわからないし、
金沢に一旦戻ってきたのは私の意志だが、それ以降は自分が決めたことではない。
家族に問題がありすぎるが、私は何も当てにされていないのだから、何か言われるまで何もしなくていいし、私は自由に生きればいい。
クルマを買ったのも私の意思だが、それ以降は何もかも仕方がなかった。乗れなくても仕方ないし、もう、どうでもよくなってきた。
私は引き続き、この症状を克服していく道をさぐるだけだし、夫と幸せに生きていく道を探るだけだ。あとは知らない。
2024年5月15日(水)
24:立夏 72:竹笋生 (たけのこしょうず)
夫と離れていると、一緒にいて楽しかったことばかり思いだすが、悪いところ、しんどいこともたくさんあった。
すぐに機嫌が悪くなるし、質問に対してYES、NOで答えずにつらつら話し出すので、私がイライラすることも多かった。
とにかく自分が根気良く丁寧に接することで、相手にも丁寧に接するように導くしかないのだろう。子育てと同じだ。
そして、一緒に暮らしたら、どれほどかまた料理がしんどいことだろう。
夫はふたたびともに暮らした時、ドイツでどんなに不自由だったか、いつまでも覚えていてくれるだろうか。覚えていてくれれば、日本ならコンビニだろうがお惣菜だろうがじゅうぶんだと感じてくれるとおもうのだが。
昨晩少し夜更かしをしたので、薬で二度寝をしたら8時だった。
ドーピングとはいえ長く眠れるのは生理だからだろう。
今月は25日できた。次の生理が来てもまだクルマが出せないと思うとげんなりする。
いちにち、家で仕事。ずっと食べてしまう。
これも生理のせいか。
ものごとが動くのは明日の夜以降だ。まだいろいろ辛抱するしかない。
我が家に猫たちがきて、丸2年がたった。
今までもこれからも、激動でごめんよ。
2024年5月16日(木)
目が覚めたら6時をすぎていた。
昨晩眠りについたのが23:30すぎだったから、なんと、6時間半一度も目覚めなかったということになる。こんなこと、こちらへ引っ越してきてからはもちろん、いったいいつぶりだろう。
明け方に薬を飲み(これは必要ない日もあったが)、戦々恐々としながらトイレへ行く、を毎晩繰り返した3か月間。それがなかったのははじめてのことだ。
3か所の猫トイレを見てみると、おしっこが1回のみ。
よく眠れたのは漢方が理由だと思いたいが、これが大きな理由なのだろう。だいたい猫のトイレのタイミングで起きていて、こちらに引っ越して以来猫たちは夜中ばかりトイレに行くようになってしまった。朝起きると、だいたいトイレの砂を4カ所くらい掃除する日々だったのだ。きのうはたまたま、私の起きているうちにふたりとも何度かトイレに行ったのだ。
まあ、漢方(神田橋処方)のおかげだと思いたい。
今日も終日仕事の予定。料理もちょっとしたい。
朝晴れていたのでスウェットパンツ含め洗濯をするが、昼頃から予報通り雨。
すぐやむかと思いきや、しとしとと、そんな気配がなくなったので、ぜんぶ取り込む。
日本時間の今夜と明日の夜、たぶんいろんなことが決まる。
急変とは何かを言えるかもしれない。
「私はこの不自由を持ってどう生きていけばいいんだろうか」
たぶん完全に克服する日は来ないのだろう。
しようとするほどに苦しくなるから。
今度カウンセラーさんに訊いてみたい。
2024年5月17日(金)
今度はなんと、7時間近くぶっ通しで眠っていた。
やはり神田橋処方のおかげなのか。
仕事で新しい案件が入って朝からバタバタする。
きのうからどうしても冷たいうどんが食べたくて、昼は思い切ってクルマで近くの丸亀製麺へ行けたら行こうと思っていた。
しかし、私の駐車場、まわりのクルマが全部とまっていたら、出すことはできても(私には)戻すことができない。
運悪く、今日は昼をすぎてもすべてのクルマがとまっていて、これは無理だと思って、でもうどん欲はおさまらないので、自転車で行った。
自転車で行っても多少の気晴らしにはなった。人がいっぱいいるし、近くの高校生もいる。自転車でも来れる飲食店が、このあたりはたくさんある。
午後、駐車場をちらと覗くと、前方のクルマがいなくなっていた。
ガタガタ震えながら、駐車の練習だけはしようと思って思い切ってキーを持って降りる。
ひとまずクルマを出す。切り返しなしで出せた。狭いので出すのも緊張するのだ。
そして、エントランスで方向転換する。このあたりは敷地がやたら広いので、これもできた。
いよいよ戻って車庫入れ、という時、クルマを斜め前にふったところ、どうやら前の駐車場の車止め(ここは縦列なのだ)にタイヤが乗り上げてしまったらしい。バックしようとするとひっかかる。
不思議なことにこのクルマ、少々の段差でもほとんど前進の際は衝撃を感じないのだ。
バックでぐっとアクセルをふんで抜け出す。左右ともクルマはあったが、そこはスムーズに真ん中に駐車はできた。
が、前方に車止めがあるとわかっているのに、その距離感がつかめなくて乗り上げてしまった。軽なのに。とにかく、右以外の距離感がわからない。そのショックにふたたびうちのめされる。ましてやここにクルマがとまっていたら。駐車なんかできるはずがない。
東京で練習していた時は、走行は怖くても駐車は怖くなかった。瞬時の判断が生死を分ける走行に比べれば、駐車はゆっくり何度でもやり直せばいいし、まわりに歩行者が多いとかでない限り、人の生き死にに関係ないからだ。
が、今は震えるほど怖い。このマンションの駐車場ですっかり怖くなってしまった。人のクルマに当ててしまったら。
東京の駐車場は、幅は狭いけれど、とにかく不特定多数の人が使うので、それなりに誰でも駐車できるよう、きちんと計算されて作られていた気がする。地方は路面も駐車場も整備が不十分で、野生であると感じる。よほど難しい。
夕方、夫から連絡。日本の本社といろいろミーティングをしたようだが、今後のことは少し先延ばしになっただけのようで、結局明確には何も決まらなかった。
クルマの練習もできないで、私は明日からも何をすればいいのだろう。
仕事すりゃいいんだろうけれど。
ショックが大きかったのか、夜になってもなかなかおかながすかなかった。
2024年5月18日(土)ここから先は後日別途noteにしようと思います。とりあえずメモ
明け方、目が覚めた。
トイレに起きあがろうとしたとき、のどを痛めないようにいつも首に巻いている手ぬぐいが、どこかにひっかかった。
首がひっぱられたその時ふと思った。私はなぜ死なないのか。
死を選ばないのか。
乗り物にのれず、クルマの運転もできず、移動の自由を失い、一人暮らしもできず、10年以上を無駄にした。何にもなれなくて、ろくに働くこともできない。世の中の役に立ったことなど一度もない。
今後何の希望があろう。以前のような文章も書けなくなった。
とたんに怖くなった。薬だけ飲んだ。
しかし不思議と、「この怖さ、はやくおさまれ」と思わなかった。
はやくよくなりたいと、気を紛らわせていろんな音声を聴いたりリラックスを試すのは、つまり「生きたい」からで(堀込高樹のいう「死にたいってのは生きたいってことかい」だ)、この時の私は、不思議とそうしようとすら思わなかった。
直面してみよう、と思った。
私の中の絶望を分解していくと、「パニック障害による広場恐怖」ただこれにいきつくのだった。
それさえよくなれば、私はクルマに乗れなくてもかまわないし、たぶん一人暮らしもわりと平気だし、何より、世界がきらきら輝きだし、ふたたびいろんなことが書きたくなるのだ(以前のようには書けない可能性もあるけれど)。
そして、「これさえよくなればいいのに!」と思っている自分を責め続けてもいた。
「これさえあれば、あれさえあれば、と望むのが不幸のもとです」
と、誰かからの声が聞こえてくる。
私は、地下鉄が駅ではないところで止まってしまったところにいる場面を想像した。
その時は心臓がバクバクして、「出してくれー!!!」と叫びたいだろう。
が、実はその「出してくれー!!!」を実際に声に出した瞬間に、恐怖はけっこうおさまるのである。実際、電車の中で人に助けを求めた瞬間に怖くなくなった経験がある。
では、「出してくれー!!こわいー!!」を口に出せなかったとしても、それを自分で全肯定してはどうか。
怖い!怖い!怖い自分はおかしくない!私の脳はこうなっちゃったんだから。こうして自分を守ってきたんだから。
そして、わかっている。最初の過呼吸発作が、救急車に乗り込む頃にはもうおさまっていたように、それは必ず、おさまるのだ。今こうして、希死念慮っぽいものが、薬でいつの間にか消えていくように。
何より、電車に閉じ込められても、死なない。
みんなが不安だけど大丈夫だよ、しぬこたないよって顔しててくれる。
叫ぶと他の人も怖くなるかもしれないから、うずくまればいいんだ。そしたら大丈夫?って誰かが声をかけてくれる。
かけてくれなくても、自分がその声を全力できいてあげればいい。
こわいのは、おかしくない。
あなたが感じることは何も、おかしくない。
いま脳内で、曝露療法をしたのだ、と思った。
なぜこんなことが自分の中でできたのか、それが神田橋処方の漢方のおかげか、日々ちょっとずつやっている瞑想のおかげなのか、わからない。
いや、ふたたび私は書きたい、そう思い始めているからゆえかもしれない。
さっき、とあるカフェで、安達茉莉子さんの『毛布-あなたをくるんでくれるもの』をようやく読み終えた。
自死が何度も彼女の中をよぎった描写が出てくる、最終章は怒涛のように赤裸々だった。
私は役に立たないで生きてきた。
「猫は役に立たなくてもそこにいればいい。役に立たない私が生きていけなくなったら、この世の終わり」
そんなことを冗談めかして何度も口にしてきたが、内心では、役に立たない自分に反論しないでは、とてもつらくて生きられなかったのだ。
けれど私は今、本当に役に立たなくてもいいから、ただ、自由に、自分のやりたいことをやりたい、見つからなければ見つけるまでやってみたい、と思っている。
縛るものは己の恐怖心、ではなく、己の恐怖心を否定する己のみだ。
夫だってそんな私のほうが好きなのだ。
幸せになってもいいのだ。それを許可していいのだ。
逗子に住んだって鎌倉に住んだっていいのだ。
自分はそれに値すると信じていいのだ。
はじめてのカフェで入ったトイレで、私はいつものように鍵がちゃんと開くか、閉じ込められないか確かめようとして、やめた。
いや、いいのだ。それは必ず、おさまるのだから。
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