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知覧特攻平和会館を訪れて

時々、無性にnoteに今考えていることを書き残したくなる。
「よし、書こう。前いつ書いたっけな?」と振り返ってみると、8ヶ月も前だった。なかなか続かないが、長い目で見ればちょこちょこ書いている。恥ずかしくて消してしまった記事も数知れず。これからもちょこちょこ書いていきたいなあとは思う。ホントは毎月欠かさず書きたい。

こんにちは、ヤマトです。

休みを利用して、ずっと行きたかった知覧特攻平和会館へ行ってきました。福岡に住み始めてから知った存在でしたが、少し遠い鹿児島だった(車で4時間ちょっと)こともあり、なかなか足を運べませんでした。あとわずかの福岡生活の中で、「ここは行かねば!」という思いに駆られ、弾丸で行ってきました。感じたことを忘れる前に、つらつらと綴ります。

知覧特攻平和会館。館内は写真NGなので撮っていません。
Googleのストリートビューで館内の様子を見ることができます。

特攻隊員の想いに触れる

そもそも、なぜここ知覧なのか。
初めて知りましたが、元々は操縦士育成のための訓練所だったこと、飛行場建設にあたり地質や気象条件が恵まれていたことに由縁があったそうです。戦いが激化した沖縄にも近く、最も特攻隊が出撃した場所でもあります。その数は402名。多くは10代20代の若者で、特攻隊の平均年齢は21.6歳とのこと。

館内には、特攻隊員の最後の手紙、遺書、遺品が数多く残っていました。一人ひとりがさまざまな想いを抱えていたことを知ることができました。両親、恋人、子ども達。貸出されていた音声ガイドでは、それぞれのエピソードを聴くことができます。

愛する婚約者へ手紙を書いた穴澤隊員は、

「あなたの幸せを希ふ(ねがう)以外に何物もない。徒(いたずら)に過去の小義(しょうぎ)に拘(こだわ)る勿(なか)れ。あなたは過去に生きるのではない。勇気を持って,過去を忘れ,将来に新活面(しんかつめん)を見出すこと。あなたは,今後の一時(いっとき)一時(いっとき)の現実の中に生きるのだ。穴澤は現実の世界には,もう存在しない」

https://www.chiran-tokkou.jp/digital_archive/10

と書き残しています。
穴澤隊員と手紙を受け取った婚約者は、どんな想いだったのでしょう。
想いを馳せても、心の奥底までは到底理解することはできません。

他にも、祖国朝鮮から駆り出され日本の特攻隊として出撃した隊員。「未練があってはいけない」と、妻と子どもが川に身を投げたのを知って出撃した隊員。機体の故障で出撃できなかった後、もう一度知覧まで戻って出撃していった隊員。まだまだ一人ひとりのエピソードを聞きましたが、同じ特攻隊であっても、そこに至るまでの境遇や想いの違いを知り、考えることが多くありました。

ちょうど来る前に、映画『あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。』を観ていました。これも特攻隊を描いた映画ですが、作中に出ていた特攻隊員をお世話する女学生やおもてなしをする食堂のおばちゃん(鳥濱トメさん)が、実在していたものだったとも知覧で知ることになりました。戦後に特攻隊員が中傷される中、隊員の想いや平和の尊さを伝え続けていたそうです。

トメさんの富屋食堂の想いを受け継いで営まれている知覧茶屋。
ここでお昼ご飯をいただきました。

想いに触れて、考えたこと

語り部による講話も聞きながら考えていたことが二つありました。
一つは、特攻隊員の想いはどれだけ報われたのだろうかということ。敵艦に機体もろとも突っ込んで轟沈させる姿がイメージとしてあります。が、実際の映像を見ると突っ込む前に迎撃されて駆逐されたり、機体不良で不時着したりと、あれだけの想いを手紙等に書き綴っていたのにも関わらず、その想いを遂げられなかった隊員もいるようでした。

操縦技術の差なのか、天候や機体不良で思うようにいかなかったのかは不明ですが、本当の意味で決死・必死の覚悟を持っていたのに、敵艦に体当たりすることもできず死んでいったことは、あまりにも無念と感じてしまいます。実際、敵艦の心臓部分に命中することは至難の業だったそうです。

もう一つは、他に戦死した人達はどのような想いだったのだろうかということ。ここでは特攻隊員について学びました。しかし、当時はアジア圏で戦いが行われており、レイテ島やガダルカナル島にも日本兵がいました。彼らは敵との戦い以上に、飢えや病気との闘いに苦しんでいたと聞きます。十分食事もできず、手当も受けられず、想いを伝えることもできない。そんな状況ではなかったのだろうかと考えます。

特攻隊員は決死・必死であり、ほとんどが若者だったことは心を馳せるべき事実です。ただ、死の直前の周りの人からの温かいふれあい、愛する人へ想いを残す伝えることができたことは、まだ良かったことだったのかなとも感じます。

展示されている零式戦闘機。
海に沈んでいたものを引き上げたため、腐食が激しいそう。

恒久の平和に向けて

広島の原爆ドームを訪れた際のショックは計り知れませんでしたが、今回は考えることが多かったです。多分、人として少し成長した分、ただショックを受けるだけにはならなかったのだと思います。

今回行った時は、ツアーの外国人の方や航空自衛隊も館内にいました。
どんなことを感じ、学び、受け取ったのかは聞きたいところでしたが、そこまでの勇気は出ず。日本から見た太平洋戦争の史料はどのように映っていたのでしょうか。外国から見た太平洋戦争について学ぶことで、また新しい発見がありそうです。いつか訪れてみたいな。

ここまで。ありがとうございます。

読んでいただきありがとうございました!