トランスジェンダー名乗ってるけど別に自分がトランスだと思ってない【週刊恋心ミルフィーユ12/13】
わ~いやったぁねぼろくさんの記事だぁ~!
絵名のあのときの行動はものすごく慎重で真摯で、でもきちんと踏み込んでくれてすごいと感じてはいたものの、自分ではうまく言語化できませんでした。なのでこういう風に書いてくれることはすごく勉強になるし嬉しいですね。
ちなみに私がnoteでも書こうと思えたのはねぼろぐさんの記事に感動したからです。ありがとう。
二時沢静音さんの記事も、私自身が一度全てを諦めて終わらせようとしていた身というのもあって、めちゃくちゃ共感してしまいました。瑞希のあのときの気持ちを丁寧に書いてくれていて嬉しかったです。
私は基本いつも感情ベースでしか文字を書くことができないので、ねぼろくさんや二時沢さんのように客観視して丁寧に文字を書ける人のことを心から尊敬します。そしてそんな記事が流れてくるnoteって、結構いい場所なのかも。
ということでこんにちは、恋心ミルフィーユです。
いきなりの記事紹介すいません。あまりにも良すぎて、そして自分がこの内容を書けないことが悔しくて急なシェアから始まりました。
note、眺めていると色々な記事が流れてきますよね。はてブにいたときは外部の記事は流れてこないし、大体訪れる人はgoogleの検索やtwitter経由だったので、こうやって簡単に見つける/見つかることが出来るのはちょっと不思議な感覚です。
私の元に流れてくる記事は主に瑞希とLGBT関係。
私が投稿してる内容や興味がある内容からそれをピックアップされるのは正しいし、実際ジェンダー関係について色々な意見に触れることができるためとてもありがたいです。ですがジェンダーについての悩みなどを読んでいると思うんですよね。
あれ?私ってトランス名乗っていいのかな?
この問い自体は2年くらい前から抱えていることではあります。でも考える必要もなかったので、特に考えてませんでした。
でも最近ジェンダーの記事や瑞希のことでまた考える機会が増えてきたため、改めてよくわかんなくなってきたんですよね。自分って何者…?
なので今回は、以前からよく語っていることではあるんですが改めて自分の今の現状と、自身の性について考えていきたいなぁ~と思っています。
週刊を名乗っておきながら全然週刊じゃない「週刊恋心ミルフィーユ」…という名のただの日記、始まるよ。
過去を振り返る
こちらの記事でも書いていますが、改めて。私自身、今はノンバイナリーを名乗っています。性別という概念自体が私には存在しないですね。
昔はXジェンダーを名乗ってはいたのですが、実際問題よくわからなかったんですよね…。Xって何?というかこの私の感情に名前を付けていいの?ただ今の自分が嫌なだけなのに?みたいな。男性でありたくもないしでも女性であるわけでもない。よく言われる最悪の言葉として用いられる言葉をあえて用いますが「思い込み」なのではないかと。
Xって結局なんなのかよくわからん…となった結果、自分の中でしっくりきたのはノンバイナリーでした。性別なんてない。概念自体。
男性と女性の狭間とか、どちらでもあるとか、どちらでもないとか、そういう次元じゃないです。私の世界には存在しないです。だから自分自身が例外とも思えないし、他の人に性を求めることもありません。
例えるなら「希望皇ホープのレベルって何?」って聞くようなものですね。エクシーズモンスターにレベルという概念は存在しません。私にとっての性別ってそういうものです。完全に関係のない存在。有る無し以前の話。…え?伝わらない?そんな…。
社会のせい
生まれたときからこうだったのかはわかりません。
親にカミングアウトしたときは「昔からちょっと感じてた…」とは言われたものの、私としては自覚が無いし親の発言もカムに引っ張られただけの可能性もあります。
ただ一つ言えること、それは社会の求める性別論が耐えられなかったことですね。男らしく、女らしく、男なら、女なら、全部無理でした。理不尽で、意味不明で、なぜ周りの人は何も感じていないのかわかりませんでした。
正確に言えばわからないというよりみんな私と同じで嫌だと思いながら渋々従っていると思い込んでいたことです。嫌だけど、それが「生きる」ってことならしょうがない。だから受け入れられないのならば死ぬしかない。
きっと私以外の人も同じことを考えながら生きていると思ってました。
違いました。違いに気づいたのは18歳のときでした。おっっっそ!!!
まあ遅いんですけど、そういう時代だったんですよね。『平成』って。『令和』の感覚では考えられないハラスメントがまかり通っていた時代。変だと思っていても、変だと追及できずにいた時代。そしてテレビではオカマがコンテンツとして消費され蔑まれてきた時代。
そんな時代だからか、知識を得るのにも、自分を知り向き合うのにも時間がかかってしまいました。性的マイノリティー?もしかして私も…?そうかな…そうかも…。
そして向き合って最初に思ったことは「じゃあ髪伸ばしたい!」でした。
髪について
短髪、本当に無理だったんですよね。私の通っていた高校は外面よくしたい教員達が頭髪検査なるものをやっていた悪魔の学校であったため、かなり制限がありました。今もあるの?あったら世の中終わりだよ終わりマジで。
本当に嫌でした。伸ばせないことも、そして切ったら喜ばれることも、全て。
当時の私はこの世のフェチズムの塊である山口賢二ことヤマケンにBIGLOVEだったので、同じような髪型をしてました。毎回バチボコに怒られてました。怒られるくらいならついでに金髪にしとけばよかった。
高校を卒業して様々な生き方があることを知り、「好きな髪型をしたい」という思いを持ちながらも、だからといってすぐ移行には踏み出せませんでした。髪も伸ばしたいとはいってもがっつり伸ばす勇気は持てませんでした。基本的にボブカットのようなジェンダーレスに部類される範疇の髪型にして、お茶を濁す濁すだけ…という。
結局は怖いんですよね。社会の求める「普通」から外れるのって…。
ヤマケンは好きだし、なんならボブカットも割と好きではあったんだけど、自分の中ではなんというか、逃げのような感覚ではありました。考えたくない故の選択。女性で「も」こういう髪型の人いるし!という言い訳を持つことでしか、沈みゆく心を留めることはできませんでした。
壊れちゃった
ジェンダーレスと言ってしまえばいいものの、生きる社会も全てジェンダーレスで済ませることなんて当然できませんでした。大学のシステム、交友関係、アルバイト、その他諸々。様々な場所で性を求められ、そして自分の心にナイフを刺し続け偽りの自分を作り上げることしかできませんでした。
その結果結局自分が何がなんだかわからなくなり、すべてが嫌になって大学も行かなくなって、単位も落として留年して(これは単に私の学力がアホなだけという説もある)、誰にも何も言わずに全員ブロックして大学を辞めて全てをゼロにしました。
こういうときに私の周りに絵名のような人がいたら、救われたのだろうか。
わからない。でも私の持つ心の壁は(今もだけど)めちゃくちゃ強固で、常に人間不信で人間に期待することを諦めているから…。でもそれでも手を伸ばしてくれていたら、何かが変わっていたのかもしれません。私はバッドエンドの方の瑞希です。
そのあとは自死を考える以外何も出来なくて、結局死なずに生き延びて、とりあえずこのままの可愛くない姿で生き続けるのは無理だからとホルモン治療を始め(まだ始めてなかったよ!はよしろ!)、そんな時に暁山さんに出会いました。
まあ暁山さんとの出会いは今さらなので割愛しますが、その時書いた上記のブログきっかけでありあんちゅと仲良くなり、同年代(…と言うには烏滸がましいかもしれないが)で性別移行して生きる人という姿を知り、自分自身の進む道が見つかったという流れです。
多分んちゅはこの記事を引用されることあんまり好きじゃないと思うけど。もし私なら「こんな過去の記事ひっぱりだすな!」と言いたくなるので。ごめ~んね。
移行してみて
で、なんやかんやあって移行した現在。そう、なんやかんやです。終わってしまえば全てがなんやかんやです。
私にとっての移行は女性になることではなかったです。自分自身の信じる可愛い、綺麗を体現することでした。そこに性別は存在しない。
…と言えればいいんですが、私の好きな服に合わせるためには結局女性装で女性として扱われる方がどちらかというと楽なので、そういう形に落ち着きました。この写真からあなたに私がどう見えているのかわからないけど、圧倒的美少女!人間国宝!全世界よ私を見ろ!私という才能を!!!という気持ちで私は世界を生きれるようになりましたね。
死にたがってた頃に比べれば進歩!
服とかメイクとか語りだすといくらでも語れますが割愛。
ありがたいことに会社も移行することに否定せず、そして名前の変更にも付き合ってくれたおかげで、スムーズに今の形になることが出来ました。そして移行して気づいたのは、性別って呪いじゃなかったんだなぁということでした。
性で括ることなく、一人の人間として生きる。常に性に縛り付けられていたから気づかなかったけど、移行してみれば「その程度だったのか」と思えるくらいに生きるのが楽になりました。やはり性を常に求められ続ける学校ってカスやな!様々な形を体験しながら模索し、性別が無いと「決める」よりも、性別自体が「存在しない」と概念ごと抹消する方が自分にはしっくりくると気づき、そして今に至ります。
トランスジェンダーかわからない
ということで長い自語りの中でも語ったんですが、性別が無いんですよね。そして性別が無いっていうことは、そもそもトランス"ジェンダー"という枠組みすら、私には当てはまらないような気がしています。
そもそもの定義から解説するとトランスとノンバイナリーは全く違うものではあります。ですが定義って本当にあやふやというか人の解釈次第なところがあるし、私は結局出生時性とは違う形で生きているので、この2つは地続きのように感じています。そこはご容赦。
どうなんでしょうね。名乗っていいのでしょうか、トランスだと。正直こんな形の私が名乗るなんて烏滸がましいというのが率直な意見です。「性別がないから~」とかさっきは綺麗事を言っていましたが、本音としてはこんな私が他の悩み頑張っている方々と同じ土俵に上がる資格があるのかわからないといった感じです。
暁山瑞希さんと私は同じ土俵に立っていいのでしょうか。こんなにも悩んで、挫けて、でも自分の中の可愛いを信じて、その先にあった絶望をも絵名と一緒に乗り越えることが出来た瑞希と、私を、隣に並べていいのでしょうか…。
実は私は埋没したうえでのRLEというものをあまり体験してきていません。…いきなり見知らぬ用語が出てきたと思いますので説明していきます。
すごくざっくりというと、ニーゴにおけるこれまでの瑞希の過ごし方です。
瑞希はこれを「隠し事をしている」「よくない」と後ろめたさを感じていましたが、RLEを積むことで自身がどういう姿で生きるのが一番いいのかを知ることができるため、もしSRS(性別適合手術)を考えているのであれば最も必要なプロセスであると私は考えています。
私はいつも語っていますが、オープンです。自身に性別が無いと伝えることに躊躇はありません。なぜならそれが私にとって一番生きやすい形なのだから。
もちろんオープンとクローゼットに優劣などはありませんが、それでもクローゼットで生きる方々の努力や辛さは人よりも知っているつもりではいるため、自分よりも凄いと言わざるを得ません。そんな私なんです。
あれ?私ってトランス名乗っていいのかな?
記事冒頭で書いた疑問です。こんな私はトランスを名乗っていいのでしょうか。自身に性別が無い私が、トランスとして日々苦悩しそれでも前を向いている方々と、肩を並べていいのでしょうか…。
こちらの記事でも書いていますが、私はトランスジェンダーのことを『この性別で死ぬまで生きなさいという課題を背負いきれなくなった人たち』であると認識しています。そしてその認識でいえば客観的に見たとき私は間違いなくトランスジェンダーです。
でももう私は自身に性別がないと言い聞かせすぎて、もはや洗脳に近い状態に陥っているんですよ。「肉体的性別?生まれたときの性別?そんなものないです。何を言っているんですか?」と本気で思っています。
もう過去の、それこそ名前を変える前のことって何も覚えていないんです。ひだまりスケッチが好きという記憶以外、本当に何も残っていないんです。前半の回顧もかなりなんとなくで書いています。
悩んでいた記憶もない。苦労した思い出もまるで赤の他人のよう。生まれた瞬間から今の私であり、性で悩んでなんていない。なぜなら性が無いのだから。
だから客観的にみたらそうでも、主観では、何もわからない。記憶の蓋は開かず、暁山さんのように頑張る人を見て自分には無い光を感じる。
これが私が私をトランスだと思っていないということです。
つまり何の話?
いや、私にもわからないです。自身がトランスだと思っていないことを説明しようとした結果、余計にわからなくなっちゃっただけな記事です。
自身の性の悩みを乗り越えた結果、これまで追っていた目的を見失い、どうしようもなくなっています。実はこれ2年くらいずっと続いています。
すごい失礼な話なんですけど、私って顔がそこそこ整ってるせいで移行の大変さとか感じてなかったんですよね。すっぴんでもナンパされてたくらいだし。だからなんか、特に困らずここまで来ちゃったせいで乗り越えた感とか一切ないんです。それが自己肯定感低い原因なのかな?
あーあ、もうマアプ始めて汚い性別の世界に足突っ込んで遊ぶしかないか~