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源頼朝の配所は蛭ヶ小島なのか

 源頼朝が島流しの刑にあったのは、つまり、伊豆の国に配流はいる されたのは、永暦元年(1160)3月のことである。14歳であった。

 なぜ頼朝が島流しの刑にあったのかを説明するためには、少しだけその前の歴史を顧みる必要があるだろう。


保元の乱(1156年)

 武家が台頭する契機になったのは、保元元年(1156)の保元の乱である。初めて武家が動員された乱であるが、そもそも源氏と平氏が争った戦いではない。原因は、皇室および摂関家の内部対立である。

 皇室では皇位継承をめぐり崇徳上皇後白河天皇の兄弟が対立し、摂関家でも藤原忠通・頼長兄弟が摂関職を巡って争っていた。

 崇徳上皇は、藤原頼長とその父忠実が結び、後白河天皇は藤原忠通が接近した。鳥羽上皇の死を契機に両陣営間の緊張が高まった。後白河天皇と藤原忠通は、平清盛や源義朝らを味方につけ、崇徳上皇側も、源義朝の父源為義ら源氏を味方に招き入れた。

 京を舞台に双方が多数の武士を動員しての戦いが起こったのだ。結果は、後白河方の勝利に終わった。

  しかし、この保元の乱は、決定的な歴史の転機となった。中央政界の雌雄を決するために、源氏と平氏という武家を動員したことは、武家の台頭を促すことになった。それは結果として、頼朝による鎌倉幕府設立の呼び水となったのである。

平治の乱(1159年)

 保元の乱後、後白河は上皇として院政を始めた。戦功のあった平清盛と源義朝の間に勢力争いが起こったが、平清盛は後白河上皇の寵臣藤原通憲と結んで権勢を誇り、源義朝を圧倒した。

 保元の乱から3年後の平治元年(1159)12月、源義朝は、平清盛が熊野参詣中に挙兵し、清盛打倒をはかった。13歳の頼朝もこの挙兵に参加している。後白河上皇の幽閉、藤原通憲殺害などには成功したが、急いで帰京した平清盛に敗れてクーデタはあっけなく失敗に終わった。

 頼朝の父義朝は、逃亡中の尾張で殺された。頼朝も捕縛され、京に連れ戻された。成人の戦闘員は処刑されるところ、平清盛の継母池禅尼の嘆願で助命され、永暦元年(1160)年3月、伊豆に配流となった。
 
 『日本史広辞典』によれば、流罪るざい流刑るけいは、律の五罪の一つで、死刑についで重い刑罰である。流罪の刑に処せられることを、配流はいるといい、この刑に処せられた人を流人るにんといった。流された場所を、配所といった。

通説:配所は蛭ヶ小島

 これまでの通説では、頼朝の配流はいる先は、伊豆の蛭ヶ小島ひるがこじま(現在の静岡県伊豆の国市)とされてきた。

 戦後の日本中世史を率いてこられた永原慶二氏は、次のように書かれている。

 配所は、蛭ガ小島と言われている。東西を低い山々に囲まれて、南北を長い盆地を、修善寺から沼津に向かって、狩野川かのがわが貫流している。その流路にそって、律令制のむかしから修善寺・天野・北条・江間・仁田などの集落がひらかれていた。山国の伊豆のうちでは、もっとも肥沃な地帯である。

永原慶二『源頼朝』(岩波新書、1958年)

 石井進氏も『日本の歴史7 鎌倉幕府』の中で、配流先を蛭ヶ小島とされている。

 頼朝の配所は「蛭ガ小島ひるがこじま」だとつたえられ、いま山木と北条の中間の田のなかに、一本の老松と大きな石碑の立っている場所がそこだといわれている。山間の渓谷から急に小平野に出た狩野川の流れがしきりに乱流してつくりだした中洲のひとつで、低湿地で蛭が多かったからその名が生まれたのだという。しかし、今日いう「蛭ヶ小島」のあとは、江戸時代の中頃に伊豆地方の郷土史研究家がこの辺だと推定して碑を立てた場所であって、けっしてはっきりした証拠があるわけではない。

石井進『日本の歴史7 鎌倉幕府』(中公文庫、1974年)

 この説は、戦後生まれの研究者によっても支持されている。細川重男さんは、『頼朝の武士団 鎌倉殿・御家人と本拠地「鎌倉」』の中で次のように述べられている。

少年は流人である。行き先は配所はいしょ(流人の在所)とされた伊豆国いずのくに田方郡たがたのこおり蛭ヶ小島ひるがこじま

細川重男『頼朝の武士団 鎌倉殿・御家人と本拠地「鎌倉」』(朝日新書、2021年)

 同じ年、2021年に出版された『源頼朝』の中で川合康さんも蛭ヶ小島説を採用しておられる。

永暦元年(1160)3月、伊豆国田方郡北条に配流された14歳の源頼朝は、その後、20年余をこの地で送ることになる。頼朝の配所は、通常、北条の「蛭小島ひるがこじま」と呼ばれる、狩野川が田方平野に乱流して作り出した中洲の一つにあったと理解されている。
 典拠は、 
 真名本『曽我物語』巻第二の「同月の13日には流罪に定まり給ひぬ。伊豆国北条郡蛭小嶋に移され給ひしより以降」という記事をはじめ、延慶本『平家物語』などでも「流人前右兵衛佐頼朝コソ、平治ノ乱逆ニ父下野守誅セラレ、シタシキ者共ミナミナ失ワレテ、只一人キリ被残テ、伊豆国蛭嶋ニ被流てオワスナレ」

川合康『源頼朝』(ミネルヴァ書房、2021年)

典拠は?

 川合康氏は、真名本『曽我物語』巻第二の「同月の13日には流罪に定まり給ひぬ。伊豆国北条郡蛭小嶋に移され給ひしより以降」という記事を典拠にされている。
 同様の記事は、『平家物語』にもある。

かの頼朝は去んぬる平治元年12月、父左馬頭義朝が謀反によって、すでに誅せらるべかりしを、故池の禅尼のあながちに歎き宣ふによって、生年14歳と申しし永暦元年3月20日の日、伊豆の北條蛭ヶ小島へ流されて、20餘年の春先を送り迎ふ。年頃もあればこそありけめ、今年いかなる心にて、謀反を起こされけるぞと云ふに、高野の文覚もんがく上人のすすめ申されけるよってなり。

佐藤謙三校注『平家物語』(角川文庫、1959年)

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