1970年、新宿に住む
1年ぐらい前に、今から半世紀以上前に浪人するために上京して、最初に住んだ下宿について書いた。
本日の投稿は、その続きである。
1970年のことである。半世紀以上前の話しである。
最初の下宿は、杉並区の地下鉄新高円寺駅から徒歩10分ぐらいのところにあった。住宅街の一角である。
先日、何かの用事があって新高円寺駅に50数年ぶりに訪れた。近くを歩いたらまったく風景が変わっていた。青梅街道沿いにたくさんのお店が出ており、ビルの数も圧倒的に増えていた。
しかし、昔の下宿があった付近は、昔と同じような住宅街であった。
2畳の部屋から4畳半の部屋へ
東京で最初に長期に住んだのは、高校の先輩のアパートである。京王線の調布駅から徒歩で10分ぐらいのところにあった。そこに1ヶ月以上お世話になったような気がする。
東京での自分の部屋の最初のものは、杉並の住宅街にあった2畳の浪人生専用の下宿である。それは、先輩が見つけてくれた。基準は、安さだった。記憶が本当におぼろげだが、3,000円ぐらいだったような気がする。
2畳の部屋は長くは住まなかった。同居人同士での会話の禁止とか、どうでもよいルールが部屋の狭さ以上に耐えがたかったからである。
次の物件は、自分で探した。条件は、新宿・渋谷・池袋などのターミナル駅から徒歩10分とか20分のところにある物件である。
いくつか物件を見て回り最終的に決めたのが、新宿駅西口から徒歩20分のところにあったアパートである。2階の角部屋、4畳半の部屋だった。
新宿中央公園からも近い場所にあった。
安く住むための方策としての寮
仕送りは、月2万円だった。それなのに、新宿の4畳半の部屋の家賃は1万だった。明らかにバランスが悪い。高すぎる。
安く住むためにの方策はあった。しかし、当時の私はそういうことにはまったく疎かった。その存在さえ知らなかった。
熊本県の県人寮は、早稲田大学のすぐ近くにあった。そこは、朝食か夕食がついていて、6畳の部屋に二人で住んで、3,000円以下だったような気がする。当時の学費は、年間8万円だった。
出身地である熊本県の球磨郡の寮、球磨寮というのもあった。この存在を知ったのは、まったく偶然の出来事からであった。
大学では、剣道の同好会に入っていた。大学1年の秋に剣道の昇段試験(3段)があるというのを聞き、高校時代の後輩に型の練習につきあってもらったのだ。彼らが住んでいたのが、球磨寮だったのである。ここも格安で住めたように記憶している。
彼らのお陰で一発で昇段試験に合格し、3段となった。
なぜ新宿に住むことを選んだのか
安い部屋を見つけるためには、ターミナル駅である新宿から出ている小田急線沿線、京王線沿線の各駅停車の駅から少し離れたところにあるアパートを探すことである。
小田急線沿線や京王線沿線よりも安かったのは、西武新宿線の各駅停車しか止まらない駅のアパートである。
駅から10分とか20分のところの空き部屋があるようなアパートにすめば、もっと安く上げることができた。
しかし、私は、ターミナル駅から徒歩圏内にある物件にこだわった。
なぜか?
私は田舎者である。農家の次男坊として生まれた。米農家である。小学校まで1時間以上かけて歩いて通っていた。今でもそうだが、当時も近くにお店はなかった。
商店街は、小学校の近くにしかなく、本当に田圃の中に農家が点在するようなところに住んでいた。
だからこそ、田圃や畑が広がるような景色のところに住みたくなかったのだ。 とにかく都会に住みたい、都会の香りがすることに住みたい、ちゃんと商店街が近くにあるところに住みたいと思っていたのだ。
それが、仕送り2万円に対して家賃1万という、バランスの悪い物件を選んだ理由である。