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伊東祐親、源頼朝と八重姫との恋

 源頼朝と伊東祐親の三女とのロマンスについては、伊東市の観光協会や郷土史家の方たちは熱弁されている。

 しかし、私自身はまったく知らなかった。

 伊東市の図書館から本を借りてきただけでなく、アマゾンで関連文献を買い漁った。その結果分かったのは、日本の中世史専門の先生方もちゃんと書いておられるので、要するに私が無知だったということである。

 出典を調べると、すぐに出てきたのが『曽我物語』である。

 研究者の方によれば、『曽我物語』には様々なバージョンがある。歴史的史料として価値があるのは、真名本『曽我物語』だそうである。しかし、アマゾンで手に入れることが出来たのは、岩波版と太山寺本である。

 ここでは、太山寺本から、伊東祐親の三女と兵衛佐ひょうえのすけつまり、頼朝との恋路について文章を引用する。

 三四は未だ祐親の許にあり。兵衛佐殿、聞こし召して、潮の干る間のつれづれ、忍び忍びの褄をぞ重ね給ひける。年月重なりける程に、若君一人出で来給ふ。
 佐殿、喜び思し召して、御名をば千鶴殿とぞ付け給ひける。

村上美登志校注『太山寺本 曽我物語』

 兵衛佐というのは、平治の乱の後に賜った頼朝の最後の職名である。原文でも何となく分かるが、次に該当箇所の現代語訳を紹介しておこう。

 伊東次郎祐親には娘が四人いたのだが、・・・(略)・・・、三番目と四番目の娘は、まだ親元にいた。
 なかでも三番目の姫君は美女のほまれが高く、兵衛佐頼朝殿はひそかにこの姫君を愛して、とうとう若君が二人の間に生まれた。佐殿はたいへん喜んで、千鶴御前と名付けて可愛がった。

葉山修平現代語訳『曽我物語』

 京都での大番役の勤めから帰ってきた伊東祐親は、三女に息子が生まれたことに気づく。その相手が流人源頼朝であることが分かると、伊東祐親は、怒った。この頃は、まさに「平家でなければ人ではない」(平時忠)と豪語するほど、平家の全盛期だった。

 平家の家人であった伊東祐親は平氏を恐れ、頼朝と三女の八重姫とを別れさせただけでなく、二人の間に生まれた息子、そして祐親にとっては孫の千鶴せんづるを家臣に命じて殺害させた。

 三歳になっていた千鶴は、家臣に簀巻きにして重石をつけられ、生きたまま松川の上流の淵に沈められたという。

 伊東祐親は、三女は他の武将に嫁がせ、頼朝を殺害しようとするが、伊東祐親の二男の祐清の手助けで逃げ延びる。

 『吾妻鏡』ではそのことについて次のように述べている。

寿永元年(1182)2月15日条 
 丙辰。頼朝が伊豆にいらっしゃった時、去る安元元年9月のころ、祐親法師が頼朝を殺そうとした。祐清はこのことを聞き、密かに告げてきたので、頼朝は走湯山(そうとうさん)へお逃げになった。その功を忘れずにおられたが、(祐清は)孝行の志が厚く、こうしたことになったという。

本郷和人訳『現代語訳 吾妻鏡』

 室町時代に作られたという『曽我物語』はともかく、『吾妻鏡』は歴史書である。その『吾妻鏡』に記されていることから推測するに、頼朝と伊東祐親の三女八重姫との恋、そして、息子千鶴の誕生、3歳になっていた孫の千鶴の殺害、そして、伊東祐親による頼朝の殺害未遂は、どうも史実であるようだ。
 
 

 

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