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2つのまちから始まった「まち探訪」ー「はじめてのまち」:その1

今月のエッセイのお題は「はじめてのまち」。今回の担当は鳴海です。

 私にとって、「はじめてのまち」は2つある。

 1つめは横浜駅周辺だ。ここは小さい頃からよくいった。

 当時横浜市の南側にすんでいた私は、ときおり母に連れられて横浜駅に行き、横浜そごうや横浜高島屋に連れて行かれることがあった。
 そごうでは屋上に行って岡本太郎の怪しいオブジェクトを見つつ水辺ではしゃごうとしたり、人工芝の敷かれたアスレチックで体を動かしていた。祖母がいるときは、相鉄ジョイナスの1階で待ち合わせ、上にある高島屋の食堂へ行って「お子様ランチ」を食べた。必ず飲むのはオレンジジュースだった。あとエビフライが大好きな子供だったと記憶している。

 そうした記憶のせいか、しばらくは「そごうは若い世代向けで、高島屋はシニア世代向け」と認識していた。まさに母と祖母はターゲティングされている場所に行っていたのだった。いまでも祖父母と食事をするときは高島屋に足を運ぶ。

 そして社会人になって横浜を離れるまで横浜駅周辺が私にとっての「まち」であり続けた。駅はずっと工事をしていて、変化していく横浜駅も変化しない横浜駅も見てきたし、年齢によって行く場所も変わった。
 シアルの2階の東急改札口は、昔、珍しくなりつつあった自動改札化されていない改札があった。駅員に入鋏してもらうために、よくそこにいったものだ。自動改札化した時や東急の地下化で改札がなくなったときはさみしい気持ちになったことをよく覚えている。
 2005年にできたヨドバシカメラには様々なモノを買いに行き、累計でいくら使ったのか覚えていない。大学受験の前には駅から少し遠くにある有料自習室に籠もっていた。初めての彼女ができたのも、初デートも横浜だった。

 なんだかんだでかなりの思い出がこのまちにあるのだった。好きかと問われると「好きでも嫌いでもない」と言う。けれど、愛着はあるのだろう。これからがどう変わっていくのかも当然気になる。古くからの良さはなくならないでほしいなんて身勝手なことも思う。

 でも、「まち」を調べて考えようと思ったのは横浜ではない。
 そのきっかけは長野県上田市だった。

 あるとき、友人と上田交通別所線(当時)に乗りに行き、すっかりこの鉄道が気に入ってしまった。ちょうど存廃問題が持ち上がり、市長が支援を表明し、再建計画が策定されていた頃だった。

 どう考えてもクルマに対して不利そうなこの鉄道をどう生かしていくのか。どこにその理屈を見つけたのか。とても気になった結果、私はここを研究対象にすることにした。
 調べていくうちに段々と「なぜ人は電車でわざわざ買い物に出るのか」と考え始めた。例えば我が家の場合、食料品の買い物は主に荷物を載せられるクルマで行っていた。鉄道を使うのはクルマで行くには面倒な場所という印象だった。

 しかし、上田の場合は横浜とは事情が異なる。朝を除いては基本的にクルマで市内移動をした方が楽だ。なによりも市街地や沿線に「用事のある」場所はなく、鉄道存続の意味がないように思えた。そこで初めて「まち」とは何か、人はどうしてまちに行くのかということを考えることになる。

 以降、人々がまちに様々な思いを持つことや全く違うまちがたくさんあることも知り、全国のまちが気になって訪ね歩くようになる。いつも思うのは、「どういう暮らしができるのか」、「このまちで足りるのか」、「何がこのまちを形作っているのか」、「なぜここに人は集まるのか」。自分の日常生活から見ちびきだした推論から「まち」を意識したからこそ考えてしまうことだ。

 そしていまも「まち探訪」を続けている。

 横浜駅周辺と上田。場所、「まち」の性格共に全く違うが、私のことを話すにはどちらも欠かせない「はじめてのまち」だ。

まちコトメディア「matinote」では、まちのことについて書き残しています。
ぜひ、アクセスして、読んでみてください。 http://matinote.me/


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