メンタルジャーニー文学(続編)
※'メンタルジャーニー文学' '万事意見書'コラボ企画として、
先回の続きではあるが、関連性、接続方法においてはやや雑さと曖昧があることは自覚している。とはいえ、さほど的外れなものどおしを結び付けているつもりは全くない。
突然だけど、
計画を、正確に、上手く、運ぼうとするとき、比較基準、いわばベンチマークのようなものがあることはいいことだと思う。
僕が文章を書くと綺麗事が多い。
そして理屈っぽい。
そうらしい。
本来僕は理屈とは真逆の人間です。
その部分が疑われることは最近特に多いけど。
理屈っぽく思われるのにはいくつかの事情が関連していると思う。
全体容量からすると、僕が披露する理屈の占める割合は半分程度。裏と表で分ければおそらく表の部分。人生の時系列で言えば後付けの部分。
大きな流れというものは感覚領域で引き込むのが僕の手口であり、周囲からは異常と言われるレベルの知識(マニアックなだけであるが)や理屈を探求した結果を、得意領域である”感覚”で牽引することでうまく運べる。
これについてはもう少し掘ったほうがいいと思う。
理屈や原理についての思考、それらをYes or No などの分岐の矢印で進めていく。その時々の目的に対して、この思考で得られた一旦の結論(方法論)を仮採用する。
これが要は目標物。
これを実際につかみに行く段では、思考データを感覚データに変換するといい。
このデータタイプの変換作業は、既に感覚的作業。
思考データの場合、論理的に順序立てて手前から紐解いて行くのが通常。これを感覚的なものに置き換えていく。
例えば私の場合、
おでこの前方上45度線の10cmくらいの位置から上に向かって一定の範囲を反復しながら考察を繰り返す。
そんなイメージ。
一方感覚データというものは、思考によるそれと比較すると、全ての要素においてシンプルそのもので、容量も随分軽い。
それもそのはず。
思考データは、’知識’と’分岐’と’無数の矢印'の集まりで、それらのオブジェクトに加えて履歴情報も含まれる。そうでなければ、デバックなどのエラー発生時の原因特定が困難となり、データとしての実用性を失うから。だからものすごく重い。
感覚データは思考履歴後半部の感覚的満足を得た位置的なものと、感情的な熱量を一本の長い放物線のようなものに集約したもの。それを矢印とするなら数量は一本。
「あの方角の、向こうに見える2番めに高い山の上を無理なく超えていく放物線。」
そんなかんじ。
やはり変換作業はすでに感覚的領域だ。
ちょっとディテールの話を掘りすぎたけど、僕は今でも油断すると、ついつい思考や理屈に偏りがちになることがある。そしてある程度の時間を過ごしてから気づき、すうっと感覚プレイに戻っていくわけ。
思考も感覚も、基準やベンチマークのようなものは必要。
何もないうちは何もないのだから。
僕がくどいほど、文章や作品にのせて言ってる基準のはなし。
何もない場所に打つ杭のはなし。
ここでもまたそのはなし。
思考データと感覚データ。この2つの間には大きな特筆すべき違いがあると思う。それはこの基準に関するもの。
思考データの始まりの杭
こいつは実に明確で、出どころに曖昧なことがあっては不具合が多い。それは特性であり変わらない。
それなのに人は、日常の複雑性や効率化の中で、知らぬ間にその正確な位置を見失ってしまうし、場合によっては、基準である杭の存在さえ忘れてしまう。
これには注意が必要になる。
正確さが武器であるはずの思考が、そもそもの前提を見失う。
数学で考えればどれほど重大なバグであるかは誰にでも理解できる。
なんせ、基準点であるゼロの位置を見失うのだから。
だから人はよく、長く悩むうちに
「いったい自分は何に悩んでいたのだろうか」と、
気はまぎれ、
感情は時間がなだめて、
「まあいいや」とあいなることがある。
無意識の内に、許容範囲のストレスのゴミを蓄積する流れかもしれない。
正確始まりの
曖昧終わり。
未解決。
感覚データの始まりの杭
これはいつも曖昧で、曖昧始まりのずっと曖昧。
なんとなく...
そういう特性の感覚データが曖昧であることは不具合に直結しない。おまけに、私のやり方の場合、短期から中期の正確な思考データから変換しているため、安心感やしっくり感が常に伴い支えになる。
「このプロジェクトの杭の出どころは思考データだから、的外れではないだろう」と。
正確だった記憶を曖昧な感覚で担保する。曖昧でいいのだから長持ちする。
ここで、先日息子と交わした旅先での会話を一つ紹介したい。
紀伊半島のとあるパーキングで、ガチャガチャの群れに遭遇した我ら父子一行(男ども)は、母親に内緒で、群れの中にあるレアなコンテナに惹きつけられた。
レアとは普段の行動範囲で見かけないという意味だが、我々の参加意欲を引き立てる要素は他にもあった。
テーマそのものの魅力に加え、ラインナップが4種類と少ない。
要は、的中率は1/4ということ。
おまけにどれを引いても喪失感は少なそうな印象。
クオリティは安定している。
要は、回さない案はないわけ。
当然出てほしい狙いはあるわけで。
われわれの狙いは鷲鳥のフィギュアだ。
※羽根が大きくてかっこいいからだ
コインを投入し、いざハンドルに手をかけると同時に息子が言うわけ。
「鷲じゃなかったら、俺たち、運が悪いよな・・・。」
ここで初めて意見が割れたわけ。
私は遠慮なく言葉を返すわけ。
「いや、ガチャガチャは運ではない。縁だ。」
その心は、
運というものは、良いか悪いである。
縁というものは、あるかないかである。
運というものは、白黒はっきりついてしまう。
縁というものは、ないものはそこにない。
ガチャ×2を運に預けてしまうと、投資のほとんどは損失であり残念な結果の残骸になりかねない。
※この説に賛同する母親は数しれず。
だから、私はこの世のすべての運を縁に置き換えて考えたいんだ。
※この思想を歓迎しない母親も数しれず。
そうすれば、ここにあるものへの愛しかない。
※ちなみに、ここにあるものを愛さないという選択はなくはないが、それは多くの場合、不幸の入口になり得るものだと私は思う。
まとめ?
随分遠まわしになったけど、
今回のミドルストーリーで言いたいことは、
エンターテイメントや瞬発的な賭博などは、時間で見れば人生の点にすぎないものも多い。ならば時にその結果の繰り返しを楽しむのも一つであるけれど、
人生の線の上に一定以上の時間を共にするような物事に関しては、その結果さえも曖昧にしてしまうような捉え方の方が、むしろ真実に近い実感が得られるように思う。感覚的選択とでも言おうか。
例えばそれは、
思考と感覚。
論理と直観。
正確と曖昧。
運と縁。
終わりに
井上陽水さんは言います。
手を止めると見つかることも良くあると。
ボブディランさんは言います。
答えは風の中だと。
これはあきらめるどうこうはなしではない。
要は、曖昧なのではないかと思うのです。
2021.05.28 Mateo=flat