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不自然に、自然なことばを選ぶ

#おもしろい文章 #キナリ杯

皆さんは、偶然飛行機で乗り合わせた自分の席の近くにいる異性に<より自然に>話しかけるとしたらどんな話題やことばを選ぶだろうか?

もう20年くらい前に「学生の頃だから時間があるし思い出になるし」という理由で、スペインのとある田舎町の私立の学校に短期の語学留学をしたことがあった。スペイン語は第二外国語で選択していたわけでもなく、ただNHKのラジオ講座で週に何度か聴いていて「私の名前は〇〇です」「お腹が空いています」「〇〇が好きです」程度は暗唱できるくらいに勉強はしていた。とはいえ難しい文法の知識やらたくさんの語彙などは持ち合わせておらず、いま思い返してもその「話す」レベルはなんもないに等しかった。相手の言っていることは理解できないし、こっちの言いたいこともスペイン語で言えない。そのため一か月ほど通った学校の授業はほとんど付いていけず落ちこぼれ同然だった。

当時(日本で語学留学を計画していた頃の話である)、語学学校を終えたあとは滞在先の地方都市からバルセロナに鉄道で移動してサグラダ・ファミリアをはじめとする観光スポットを巡る小旅行をしようと計画していた。日本への帰国便も滞在先近くの首都マドリードではなく、旅の最終目的地としてのバルセロナ発の飛行機を予約した。けれども前述したように、私はまったく付いていけなかった学校の授業に疲れ果てていて正直バルセロナになんて行かずにそのまま近くの空港から帰国便に乗ってまっすぐ日本へ帰りたい気持ちでいっぱいだった。

とはいえ帰りの便はバルセロナの空港から出発するし、その日までの3泊分のホテル代はすでに支払い済みだし、もう行くほかになかった。そして夜行の寝台列車やバスなどを乗り継ぎ、バルセロナの鉄道駅に降り立ち、観光をし、それなりに美味い物を食い、帰国便の日を迎えた。

空港は平日の朝早くであったせいかどこか閑散としていて、一人旅である私の立ち位置というか心情にどこか似ていた。にぎやかでもなく物寂しいわけでもない。あとで記憶をたどって気づいたことだが、私の腰掛けていたベンチの近くに、のちに知り合うことになる道代さん(仮名)が彼女を見送りに来ていた地元バルセロナ出身の友人カップルと一緒に過ごす姿も目にしていた。

搭乗便はオランダのアムステルダム行きだったが、搭乗する乗客の多くは日本人観光客で、団体客は通用口に近い席に、またわれわれのような個人旅行客はその奥のほうの席に付いていた。私の席は通路側で隣には誰もおらず、またその通路を挟んで右手側には道代さんが同じく通路側の席に一人いた(つまり、われわれは席こそ離れていたものの隣りの同士だったのだ)。私はとても時間を持て余していたので見知らぬ彼女に話しかけたくて仕方なかった。とても物静かで知的な雰囲気の同い年くらいの彼女に。いったいどのように話しかければより自然に、ちんけなナンパ風に思われないかあれこれ考えを巡らせた。そして私が出した結論は、語学学校の授業でうまく呑み込めなかった日本で起きたとても悲惨な事故の話を聞くことだった。

のちに調べてわかったことだが、それは北海道で起きた「豊浜トンネル岩盤崩落事故」だった。トンネル内を走行していた路線バス1台と乗用車2台が岩盤の崩落に遭い、乗客や運転手など20名の人命が奪われる痛ましい事故だ。そのニュースは当時のスペイン国内でも大きく報道され、学校のクラスの仲間も先生たちもそしてホームステイ先のおばさんまでも「あなたの国でとても痛ましい事故が起きてるわよ」と心を痛めてくれた。けれどもスペイン語をうまく理解できない私は、それがトンネル事故ということも、はたまた日本の、そして北海道で起きた出来事だということもすぐに理解できなかった。「トンネル内の岩盤が崩落した」という事実は、仲間が絵に描いて説明してくれて理解したくらいだ。そのことを思い出しながら私は向かい隣りの席に座る道代さんに詳しい経緯を尋ねた。事故は、帰国便から一か月ほど前に起きた出来事だったからだ。

道代さんは知ってる限りの事故の話を気さくに、そして丁寧に説明してくれた。事故後しばらくはテレビ等々のメディアで連日取り扱われていたこと。とにかく痛ましい事故であったこと。そうした流れでわれわれは事故のこと以外にもお互いの自己紹介やスペインの旅の経緯などプライベートなことの話題にも触れながら機内での時間を過ごした。気が合うなと思った。なにより楽しかった。できれば連絡先を交換したいとさえ思った。

3時間ほどのフライトが終わり、飛行機は無事アムステルダムの空港に到着した。われわれにとっては日本行きの便に乗り換えるためだけのオランダ滞在だった。彼女の連絡先を聞くにはその空港内で過ごす1時間くらいが勝負だ。いまであれば共通のSNSのアカウントでより気軽に連絡先を交換できただろう。しかし当時は連絡先といえばメールアドレスや電話番号、いまの時代では耳を疑うが自宅の住所も交換する個人情報の一つだった。そして私は意を決して、またスペインに関する情報交換をしたいとかなんとか理由をつけて連絡先の交換を提案した。空港内の長めのベンチに2人並んで腰を掛けながら。

帰国後。週に一往復はする頻度でわれわれの文通(←時代錯誤的な響き!)は始まった。遠距離だったこともあって実際に会って食事する機会は少なかったけれど近況報告の連絡だけはマメに続いた。じつは20年以上が経ったいまでも、お互いそれぞれの家庭をもったいまでも連絡を取り合える関係は続いている。手さえ繋いだことのない間柄なのだが、その間一度だけお互い異性として意識した瞬間があったか否かを話題にしたことがあった。お互いの回答は、"イエス"だった。そんな不思議なご縁の良き友人関係は今後も続くのだろうと、おそらく思う。

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