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人生に数学を、思想と哲学と

僕は、多くの行動の指針を僕自身の思想・哲学に委ねている自覚がある。

そして僕の思想・哲学は決して直感的でなく、かと言って必ずしも論理的というわけでもない。

人生は直感的にも論理的にも、時には感情的にも生きられるといい
思想・哲学はそれら全てに反映され、思考を重ねることで洗練される

というのが僕の思想だ。

要するに僕の人生は思想・哲学に基づいて直感的になったり論理的になったり感情的にもなったりするし、より豊かなものにするためにたくさん思考する。
(ここでの「基づいて」は「意識的にそうしている」というよりは「機械的にその過程が組み込まれている」の方が近い)

これこそ僕の哲学とも言える。

あなたの人生の思想・哲学はどんなだろうか。
僕の思想・哲学には共感が得られただろうか。


そもそもの話、僕らの思想・哲学は完全には重なり合わないはずだ。

その形も色も、大きさも密度も、日々の思考の積み重ねによって削がれたり膨らんだり、煌めいたりしていて、きっと明日には明日の模様を呈している。

そんな歪なものがパズルのピースのようにピッタリ一致するなんて……

「きっとないだろう」というのが、僕の現時点での思想だ。
あるいは、もしかしたらそんな奇跡が起こり得るかもしれないが、そんな2人が出会うことすらも同じくらい果てしない奇跡だろう。

だからこそ、僕は共通の思想・哲学が共有できる瞬間に幸福を感じることができる。

重なる部分が確かにあって、自分の手でなぞってみる。
感じてみると僕のものよりもフワフワだったり模様が違っていたりする。
それに「なるほど」と納得することもあれば、「ワケわかんねえよ」となることもある。

けれど、意外と「もうお腹いっぱいだ」となったことはない。

僕は、ずっと空腹だし、ずっと喉が渇いているのかもしれない。
空腹は、基本的には苦痛だと思う。
しかしどうやら、これは何度おかわりをしても無料だし、フリードリンク付きらしい。

「空腹は最高のご馳走だ」とはこういうことなのだろうか。

こんなにも限りないお得は、間違いなく贅沢だ。

思想・哲学を他人と共有できることは、贅沢なのだ。



僕の思想の一つに、

人生は数学そのものだ

というものがある。

「大きく出たな」と思わせてしまったかもしれないが、そんな意図は全くなく、むしろ人生を「選択の連続」として小さく・細かくして見たときに、それぞれが数学と同じだと思うという思想だ。

人間は、脊椎反射を除いて、基本的には行動を起こす前に「選択」をする。
あなたがここまで読んでくださっているのも、「読む」という選択を取っているからだろう。

僕は、それを数学と同じだと思っている。

僕にとっての数学とは、

いくつかの解き方を学び、自分のものにし、設問に出会ったときにはその解き方の選択肢の中から「選択」をし、解答まで導くもの

だ。

数学はたった1つの答えに辿り着くために真っ直ぐレールを敷いた上で、決して踏み外せないような厳格なイメージをもたれがちだが、実はそんなことはまったくない。

ほら、数学には別解があるでしょう?

別解とは文字通り「別の解法」という意味である。

xy平面上の図形に関する問題において、座標を用いてもいいしベクトルを用いてもいいし図形の性質を用いてもいいし、それらを組み合わせてもいいというのが数学だ。

そしてどの解法を選択するのかは完全に解く人の思想・哲学に委ねられる。
「速さ」「正確さ」「美しさ」どれをどのくらい重視するかに、あなたの数学の思想・哲学は反映される。

あるいは、計算をするのに暗算をするのか筆算を使うのかそろばんを使うのか、それとも工夫して簡単な計算に変形するのか、順序を入れ替えるのか。
これもほんの些細なことだが、あなたの思想・哲学だ。

まさに数学とは選択の連続で、そこには人の思想・哲学が反映され、グラデーションするように解答は創られる。



人生もそうなのではないか。

今日の夜ご飯は何を食べようか、
どんな服を着て行こうか、

そんな些細な選択が、僕らの毎日にはたくさんあって、時として大きな問題に直面して難しい選択を迫られる瞬間が、人生にはきっとあるでしょう。

僕はその問題を解くのに、正攻法はあっても解法が1つではないことを知っている。
それを教えてくれたのは、僕の場合は数学だった。

数学を学んでよかったと思う。

僕には確かに、人生を数学している感覚がある。
だから数学を面白いと思っているように、人生も楽しいと思っている。

思想・哲学が形創られる過程は僕にはとても鮮やかで、誰かと共有できる瞬間は贅沢で幸福で奇跡の時間なのだ。



以前、こんな面白い話を聞いた。

物理学者は、数式で会話する

そんな馬鹿げた話があるかと思うかもしれないが、どうやら間違ってはいないらしい。

正確には、物理学において人の考えを100%反映するのは、「言葉」ではなく「数式」ということだ。

僕は到底その域まで数式を操ることはできないが、恐らくは、

ブラックホールってなにさ?
アインシュタイン方程式の解の1つだよ。
シュバルツシルト解を見てごらん。

こういうことなのだろう。
確かに人の思想・哲学を完全に理解したければ、人が立てた数式を見る必要がある。

それくらい、数式には思想・哲学が反映されているのだ。

物理学者とは、なんて幸福な職業なのだろう。
いいなあ。なってみたいなあ、と思う。

ただ、僕も幸いなことに、今は数学を教えている。
人の思想・哲学が反映された数学に触れられる、恵まれた環境で暮らしている。

「教える」という立場にありながら、生徒に新しい思想・哲学を教えてもらっている。

生徒の答案用紙を見るのが、何より楽しみだ。

僕が教えたことを根拠にして解答を創っている子もいれば、本当に全く根拠がないのではないか?と感じるような解答にも、実はその子の思想・哲学が隠されていたりするから、面白い。

そしてそれは誰かの思想・哲学を共有してもらえるということだから、本当に幸せなことなのだ。


あなたは数学が好きだろうか。


たとえ嫌いだったとしても、あなたは何も間違っていないと思う。
僕が数学を好いているように、あなたは数学を嫌っているだけなんだろう。
僕は好きか嫌いかよりも、そこに繋がるあなたの思想・哲学に興味がある。
あなたは人生を、どう数学するのだろうか。

もしよかったら、聞かせてほしい。
またよかったら、共有させてほしい。

人生に数学を、思想と哲学と


僕らは今、思想・哲学を共有する奇跡の時間を生きている。
だから明日も、僕らは奇跡の中を生きているに違いない。
根拠は、今日の奇跡だ。

今日の奇跡を根拠に明日を生きるのなら、僕らは明日も奇跡の中だ。

そしてそれは、僕らの毎日だ。



これが、今の僕の思想・哲学である。



最後まで読んでいただいたことに心から感謝します。
ありがとうございました。


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