『哀しみのベラドンナ』失われた美術原画復元計画(第4章)影響を受けたと思われる映画について(4)ジョージ・ダニング『イエロー・サブマリン』
1962年『ラブ・ミー・ドゥ』でレコードデビューしたビートルズは、自分たち自身での作詞作曲を貫いたバンドで、またたくまにイギリスのヒットチャートを駆け上がり、以降出すレコードすべてがヒットチャート1位になるなど、歴史的な快進撃を続けた。
1964年1月のフランス公演中、アメリカのヒットチャートでシングル『抱きしめたい』が1位になり、メンバーは2月に初渡米してCBSテレビ『エド・サリヴァン・ショー』に出演。視聴者は全米で7300万人に及んだと言われ、押しも押されぬ世界的な人気ロック・バンドに躍り出た。
この人気に注目した米国ABCテレビはキング・フューチャー・シンジケートにアニメ制作を依頼し、1965年から土曜日の朝に『アニメ・ザ・ビートルズ』を放送開始した。番組は全39話78エピソード続いた。アイドル的音楽グループが主演するテレビアニメの先駆となった同番組には、毎回ビートルズのヒット曲が1~2曲挿入され、メンバーも番組を楽しんでいたと言われる。
『アニメ・ザ・ビートルズ』制作の中枢にいたのがアニメーション監督ジョージ・ダニングである。映画『イエロー・サブマリン』の企画はキング・フューチャー・シンジケート社長のアル・ブロダックスがビートルズのマネージャー、ブライアン・エプスタインに企画を持ち込むことで始まったが、ブロダックスは最初から監督にダニングを指名していた。
ジョージ・ダニングは1920年カナダ生まれのアニメーター・監督・プロデューサーで、カナダとフランスでアニメーターとして働いた後、1955年にニューヨークに移住してUPA(ユナイテッド・プロダクションズ・オブ・アメリカ)で『ジェラルド・マクボイン・ボイン』シリーズのアニメーターになった。UPAは戦前戦中にかけてディズニーで働いた社員アニメーターと脚本家が揃ってディズニーを離脱、ディズニーとは異なるアニメーションスタイルを模索するために設立した制作会社であり、しばしば「アンチ・ディズニーの騎手」と呼ばれる。1951年に始まった『ジェラルド・マクボイン・ボイン』シリーズは彼らが開発したリミテッド・アニメーションと呼ばれる様式を確立した作品として知られる。
リミテッドは「限定」の意味。それまでのディズニー流アニメスタイルはフル・アニメーションと呼ばれ、画面に映る全てがフルに動くアニメのことを指すが、リミテッド・アニメーションは画面の一部のみを動かし、止め絵も大胆に使うことでリミテッドと呼ばれる。またキャラクターや背景も略画でデザイン的に描かれることが多く、一見してディズニーとはまったく異なるスタイルのアニメーションだ。
ディズニーのフルアニメは一種の大艦巨砲主義であり、巨額の製作費がかかるので、これを製作できるアニメ会社は限られていた。60年代においては、毎年コンスタントに長篇のフルアニメが製作できる会社は、映画に国家予算を投じる共産圏を除けば、アメリカのディズニーと日本の東映動画くらいしかなかったのである。
リミテッドアニメは50~60年代におけるアニメ表現の革命となり、その効率的な作画スタイルからテレビアニメが生まれ、また個人ベースでの制作も可能になったことで画家やデザイナーが手掛けるアートアニメが生まれた。さらには広告界がこれを歓迎し、リミテッド形式によるCM制作の需要が増えてアニメーションに新しいビジネスも生まれたのである。
こうした新時代の洗礼を受けたダニングは、テレビアニメーションを制作するかたわら個人的なアート作品も発表している。この流れで彼は『アニメ・ザ・ビートルズ』を制作し、『イエロー・サブマリン』の監督を任されることになったのである。その時点でビートルズはアイドルグループから完全に脱却しており、時代の最先端を行くアーティスト集団、若者文化に革命を起こしたカリスマ的存在となっていた。
『イエロー・サブマリン』は様々な制作上の困難に見舞われたことで有名である。まず制作中の1967年にビートルズのマネージャーでこの映画のプロデューサーでもあったブライアン・エプスタインが急死し、ビートルズのメンバーとともに制作現場も混乱に陥る。さらに契約上の問題で、制作期間が1年、予算も100万ドルに制限されていた。納期に間に合わせる必要から、ダニングは作画スタッフを200人に増やし、予算超過分は自己負担を覚悟した。
一番問題だったのは、ビートルズの4人がこの映画の制作に消極的なことだった。彼らはレコーディングで不出来な曲ができると、「この曲は『イエロー・サブマリン』に回そう」と冗談を言い合った。しかし制作途中で完成したフィルムの部分試写を観て、彼らは考えを変える。ダニングが採用したアニメーションスタイルは最先端のポップアートで統一され、挿入される曲ごとに異なるアニメ技法が採られ、そのどれもがアート・フィルムとしての完成度が高かった。そして全体がビートルズのテーマである「All You Need Is Love(愛こそはすべて)」のメッセージで統一されていたからである。
そこからメンバーは態度を改め、映画のための新曲を作り、作品のラストには実写で登場するなど、積極的な協力姿勢に転じた。(作中に登場する口が掃除機になって何でも吸い込んでしまう怪物はジョン・レノンのアイデアである)結果として映画は世界的にヒットし、ダニングは破産を免れたのである。
現在『イエロー・サブマリン』は音楽映画、ポップアート映画の傑作として歴史に名を留めている。またビートルズナンバーに合わせて制作されたアニメーションは、MV(ミュージック・ビデオ)の先駆として、現代の音楽シーンにも影響を与えているのである。
『イエロー・サブマリン』の中で一曲を挙げろと言われれば、私はジョン・レノンの『ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイヤモンド』を挙げる。これは曲名の頭文字をつなげるとL・S・Dとなることから、ビートルズのドラッグソングとして有名である。ジョン・レノンはインタビューで「ドラッグソングだなんて心外だ。あの曲は僕の息子(ジュリアン・レノン)が幼稚園から帰ってきて、同じ園に通うルーシーが宝石を持って空に浮かぶ絵を見せてくれたので発想した曲なんだ。LSDだなんてまったくの偶然だよ」と否定するのだが、誰一人その言葉を信じないことでも有名である。
『ルーシー』は実写フィルムをトレースするロトスコープの手法で描かれているが、色彩が超現実的で、LSDを服用した人間が見る幻覚の世界が完璧に表現されている。転調を繰り返す奇怪なコード進行とメロディ、アップテンポとスローテンポの混在、ジョン・レノンによる歌詞もとことんシュールで、まさに歴史的なドラッグ・ソングだと言える。
この当時、LSDはまだ合法であり、これと大麻を服用して、日がな一日映画館でディズニーの『ファンタジア』や『不思議の国のアリス』を見ることが、ヒッピーや大学生等、非生産的な若者たちの間で流行になった。このため1940年の初公開時には大赤字だった『ファンタジア』は、25年ぶりのリバイバル上映で莫大な制作費を回収することができたのである。彼ら若者は幻覚剤とアニメーションの親和性が高いことを「発見」したのであるが、しかしLSDを飲んで自分を鳥だと思い込み、ビルの屋上から墜落死する間抜けが続出したため、LSDは世界的に禁止薬物となった。
『イエロー・サブマリン』は単館でアート映画を上映していた日比谷みゆき座(現・TOHOシネマズ日比谷)でも大当たりを取り、これに驚いたみゆき座の支配人が「日本でもああいう映画が製作できないか」とアニメラマを配給していた日本ヘラルド(現・角川ヘラルド)に持ちかけ、ヘラルドから虫プロに声がかかって『哀しみのベラドンナ』製作が実現した経緯がある。
『イエロー・サブマリン』の影響は、児玉喬夫が担当した次のサイケデリック・シーンにみることができる。これは3〜4コマごとに前の絵に次の絵が被さる作り方のアニメで、児玉はこの1分間の場面を約一年掛けて描いた。ベラドンナの作中、特にプロのアニメーターに評判が高いシーンである。
余談であるが、日本では欧米のような意味のドラッグ・カルチャーはついに定着しなかったが、ドラッグの代わりにアニメがあったのだと私は考えている。
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