『哀しみのベラドンナ』失われた美術原画復元計画(第4章)影響を受けたと思われる映画について(2)クリス・マルケル『ラ・ジュテ』
フランス・ヌーヴェルヴァーグ作家の一人であるクリス・マルケルは、ゴダールやトリュフォーなど他の人気ヌーヴェルヴァーグ作家に比べて知名度が少しだけ低い。理由は彼がドキュメンタリー映画監督であって、ほとんど劇映画を撮らなかったことにある。しかしマルケルは1962年に「時間と記憶」をテーマとした短篇劇映画『ラ・ジュテ』(29分)を撮り、この一作で世界的な名声を得た。la jetée(ラ・ジュテ)は空港の送迎ブリッジを意味するフランス語である。
『ラ・ジュテ』はその衝撃的な物語もさることながら、なにより映画を構成する技法がユニークで、そのどちらもが特異なことで映画界の伝説になっている。
『ラ・ジュテ』は作品の99%がストップ・モーション(動画の一部を静止させる手法)で構成された映画である。よく誤解されるが、マルケルはスチル写真を構成して映画にしたのではない。最初は動画として一本の映画を撮り、それのほぼ全シーンをフィルムから静止写真に抽出して映画を再構成したのだ。それが音楽とナレーションで繋がれている。観客は次々に映写される静止写真を見るのであるが、ただワンカットのみ、動画のシーンがある。これが効果的でドキリとするのだが、映画を見てのお楽しみで、ここには書かない。
なお、ストップモーションは関節人形などをコマ撮りして動かして見せる立体アニメーションのことも指すが、この文章でのストップモーションは動画のある瞬間を静止させることを指している。
子供時代の記憶に囚われた男の物語である。子供の彼はオルリ空港の送迎ブリッジで「事件」を目撃する。それが大人になっても彼の記憶に焼き付いて離れないのだ。
やがて第三次世界大戦が勃発し、生き延びた人間は放射能から逃れるために地下で生活している。滅亡寸前となった人類を救うため、科学者は捕虜を実験台に、人間の「記憶と想像力」を利用した時間旅行の実験を続けている。記憶を遡るのではなく、人間の精神力を使って時間を遡るのだ。そして戦争前にタイム・トリップして核戦争を阻止することが実験の目的である。
しかしそれは人間の精神の限界を超える作業だった。被験者は死ぬか、ことごとく発狂する。科学者たちは特に過去への執着心が強い被験者を探し、主人公の男が選ばれる。彼は多くの被験者が発狂した実験の第一段階をパスし、過去へのタイム・トリップに成功する。
彼は過去のパリで一人の女性と出会い、夢なのか現実なのか分からない時間の中で二人は恋に落ちる。実験は成功し、男は用済みとなった。男は過去に逃亡し、オルリ空港の送迎ブリッジで女と再開する。気がつくと、そこは子供時代の記憶に焼き付いた、あの送迎ブリッジだった。
短篇ながらSFとしてユニークなアイデア、ユニークな制作手法のこの作品は映画界に衝撃を与え、これに刺激されたゴダールは、一切のSF的ギミックを排したSF映画「アルファヴィル」を撮った。
さて、山本暎一が静止画で構成された『ラ・ジュテ』を観て、静止画が映画の大半を占める『哀しみのベラドンナ』を作ったのかどうかは正直わからないが、この映画は公開当時(日本での初公開は1966年)映画関係者・映画ファンには大変な話題作だったので、見ている可能性は高いと私は思う。
ただ静止画の使い方・目的では、2つの作品は全く違う。『ラ・ジュテ』のテーマは「時間と記憶」である。ストップモーションは、本来は動画として見せる一瞬を静止画として切り取る(時間を止める)ことで、その「瞬間」を強く印象付ける。時間を止めることで、観客にその瞬間を凝視させ、逆説的に時間を表現しているのである。
一方『哀しみのベラドンナ』だが、この作品はアニメーションなので、1コマ1コマは始めから静止画として描かれている。アニメーションと普通の実写映画との違いは、少しずつ異なった静止画を作品時間のコマ数だけ撮影して映写することで「動いて見える」アニメーションと、最初から動いている事物を映画カメラで撮影してフィルムにする実写映画の違いである。しかし、どちらもフィルムの状態で見る限りは静止画の連続である。
『ラ・ジュテ』と『哀しみのベラドンナ』は、静止画を主体に構成した映画という共通点はあるものの、すでに述べたように、その目的は異なっている。
映画の中で静止画を扱う場合、ある瞬間を「凝視」させる効果があることはすでに述べた。それを最大限に使ったのが『ラ・ジュテ』であるが、『哀しみのベラドンナ』は、深井国の静止画を「凝視」させることで絶大な美的効果を上げている。『ベラドンナ』は、深井国の美術を見せるために作られた作品なのである。そこには物語もあるが、見終わって強く印象に残るのが深井国の絵であり、その意味でこの映画最大のスターは深井国なのだ。静止画を見せるための映画とは、なんと転倒した創作なのだろう。