日本の大人たちよ、チャゲアスを聴き直そう(前編)〜"ミッドライフクライシスの歌い手”として〜
1992年リリースの「SUPER BEST Ⅱ」から、1996年の「CODE NAME.2 SISTER MOON」まで。私がCHAGE&ASKAの「ファン」だったと胸を張れるのは、この期間だったと思う。
5年と書くと意外と短いな、とも思ってしまうが、中学生、高校生という一番多感な時期、彼らの歌は常に私の心に最も寄り添っていた。間違いなく、一番大好きなアーティストだった。私にとっては、B'zよりも、ミスチルよりも、スピッツよりも、やはり、チャゲアスだった。「ファン」というのは「彼らの歌に心を揺さぶられている状態」として、ここでは使いたい。
そして、彼らがJ-POPのトップランナーとして世の中から認識されていた=出せば売れる、という状態だったのも、ほぼこの期間と重なる。
ソロ活動期間を経て、デュオとしての活動を再開した1999年。私は大学3年生になっていた。シングル「この愛のために」「群れ」、アルバム「NO DOUBT」。もちろんいずれも購入したが、活動再開後の彼らの歌は、私の心から遠くなっていく感覚が拭えなかった。
CDを買い続けていた動機は、半ばファンとしての「義務感」であった。彼らのファンであることは、間違いなく自分のアイデンティティの一角をなしていたのだ。正直、楽曲に心を動かされたからではなかった。それは例えるなら、恋の終わりに冷めていく気持ちを感じながらも、別れの言葉を切り出せない感じに似ていた。
そして2000年代以降は、その「お布施行為」にもピリオドを打った。社会人になって、音楽が生活に占めるウェイトが激減したのも追い討ちをかけた。
もちろん、彼らの新譜情報は、意識しなくても耳に入ってきたし、テレビやラジオ、街のどこかで聴くこともままあった。しかし、90年代の楽曲に比べるとスケール感が小さくなったように、当時の私には感じられてしまった。そして、詞の世界が私小説的に閉じてしまったような感覚にも。20代前半、社会人になったとはいえまだまだ世界が広がっていく「青春期」にあった私のエネルギーを吸収する存在では、彼らはもはやなくなっていた。
チャゲアスの音楽シーンにおける存在感、セールスも低下の一途をたどった。
後になって知ったのだが、彼らのリリースしたシングルは、2000年代以降は一度も10万枚を超えていないという。一世を風靡したアーティストの誰もが通る道かもしれないが、ゴールドディスク大賞の2年連続受賞をはじめ、全盛期があまりにも絶対的な存在だったため、その事実を知ったときには何とも言えない寂しさを覚えた。新曲を出しても出しても、かつての20分の1以下の聴衆にしか届かない。彼らが感じていたもどかしさは、察するに余りある。
彼らが再び世の中を揺るがしたのは、音楽活動によってではなかった。2013年からのASKAの薬物疑惑報道、そして2014年の逮捕。メディアは、全盛期以降の彼の苦悩を面白おかしく報じた。報道の過熱は皮肉にも、全盛期の楽曲をリマインドさせることにもつながった。
そして、2016年以降のASKAの活動再開。その後、YouTubeはじめ精力的な情報発信のおかげで、新譜の情報はすぐに入ってくるし、かつてよりも遥かに気軽に、楽曲を聴くことができる。長年連れ添った盟友と奏でる「等身大のASKA」を、今は楽しんでいる。
つまり、私には「2000年代のチャゲアス」が完全にエアポケットになっていた。かつて世界史の時間に習った「暗黒の中世」のように。
40代になってかつての彼らの曲を聴き直すことが増えてきた。しかしそれも90年代の全盛期、それもアルバム「TREE」「GUYS」「RED HILL」からが中心。2000年代はほぼ素通りだった。「迷走の時期」「喉を傷めて本来の歌が歌えなかった時期」「薬物に溺れていった時期」、世間のステレオタイプの見方を、私もその頃の彼らに当てはめてしまっていた。
チャゲアスの楽曲と私の人生が再び交錯したのは、このコロナがきっかけだ。いくつものプロジェクトが止まった。在宅での仕事が基本となり、ステイホームを余儀なくされた。ゆっくりとした時間ができた分、来し方行く末を振り返ることも増えた。オンラインを介した、今まで出会えなかったような分野の人たちとの新しい出会いも刺激になった。そして42歳の私は、世に言う「ミッドライフクライシス」という言葉の意味がよくわかる心理状態になっていった。
ミッドライフ(中年)とは、40歳前後から、50代前半までの時期を指します。多くの人が人生の転換期を迎えるこの時期に、「自分は何のために生きているのだろう」などと深く思い悩むことがあります。
出典:co-life.jp
ミッドライフクライシスについてここでは深く説明はしないが、40歳前後になって、「人生の折り返し地点が来た感覚」を覚え、もうここまで変えられないものをいろいろと積み重ねて来てしまった、という悔恨と、今ならばまだいろいろなことに挑戦できる、という希望が交錯するのは、この年代の共通の心象風景なのではないだろうか。あるウェブサイトによると、中年期の約8割が何らかのミッドライフクライシスを経験するという。
そんな時に、YouTubeでふとしたきっかけで聴いた「not at all」(2001年)の歌詞が胸に染み込んできた。少し長いが、全篇引用してみたい。
脱げないシャツのように 張り付いた日々で
見上げた遠い空 浮かぶ風船
風に耳打ちされて 行く先を決めたみたい
誰の手を放れて来たのだろう
上手く飛べない僕を追い越して
いいさ描いた絵を 何度でも
直す手を 僕は持とう not at all
そこに立って
そのときわかることばかりさ
今の僕にはない答えだんだろう 何かだろう
悪いことばかり考えていると
心はひとつの 色で塗られてく
いつも どれかひとつを どこかひとつを
くぐり抜けて来ただろう not at all
そこに立って
そのときわかることばかりさ
それが自分と思えたなら 軽くなる 歩ける
人混みで止まって 空を仰いだ時
何だか理由もなく 今すべての真ん中に立ってるって思えた
そこに立って
そのときわかることばかりさ
今の僕にはない答えだんだろう 何かだろう
そこに立って
そのときわかることばかりさ
それが自分と思えたなら 軽くなる 歩ける
2001年当時、彼らは43歳。ちょうど、今の自分とほぼ同じ年齢だ。
しかも彼らは、90年代に日本のミュージックシーンの頂点を極めた男たち。その30代を背負っての40代以降は、「超メガトン級のミッドライフクライシス」であったことだろう。そしてこの歌詞を書いたASKAというアーティストは、とても正直に、人生が歌詞に反映されるという特徴がある。きっと「描いた絵を何度でも直す手を僕は持とう」「悪いことばかり考えていると心はひとつの色で塗られてく」「いつもどれかひとつをどこかひとつをくぐり抜けて来ただろう」というのは、まさに彼が自分に言い聞かせてきたこと、そのものであったのではないだろうか。
そしてまさにこの「not at all」は、自分の人生の天井が見えてきながらも、なおもそれを乗り越えて次を切り拓こうとする大人たちへの応援歌に他ならない。だから、これを聴くべき人たちは、やはり同年代の大人の男女が最もふさわしい。しかし、日本のミュージックシーンはその層に向けたマーケティングが希薄である。一方、この曲がリリースされた2001年は、私は23歳。新入社員であった。将来に胸を膨らませて、公私ともに日々新しいことに直面していた年齢の人間に、この曲の含蓄がわかりようもない。
この曲を聴き終えて、私は思った。
「日本の大人たちは、もう一度チャゲアスを聴き直すべきだ」
と。今の日本には、大人たちの心に寄り添うコンテンツがあまりにも少ない。「オジサン」「オバサン」として、忌避されるクラスターであるし、デジタル化、グローバル化の中、ますます時代は若者の価値へと傾斜しつつある。
いわゆる「大人っぽい上質なサウンド」「大人の恋を歌った歌詞」の楽曲なら、たくさんある。いわゆる「AOR」というジャンルがそれに当たるのであろう。しかし、大人世代の人生の悩みにストレートに寄り添う楽曲を書いているのは、2000年代のチャゲアスをおいて他にはいないのではないだろうか。
人生の天井を感じながらも、前に進む人たちへの応援歌がもう一つある。
同年にリリースされた「ロケットの樹の下へ」(2001年)である。
こちらも、全篇引用してみたい。
「そこから見えるすべてが今の俺だ」と笑う
言葉を選ぶと 何だかお前を寂しくさせるかな
無駄に孤独を 集め過ぎたね
切り取られた場所を出て あの街を見下ろさないか
返したい言葉があるんだ
ここは途中だ 旅の何処かだ
ひとつだけ多くても ひとつ何か足りなくても
終わるもんじゃない
悪いことがいくつか 続いただけさ
お前のコピーも 大人になれば解ってくれるさ
時に周りの奴が 偉く思えて
取り残された気持ちになって 自分を使えなくなる
遥かなものを戻し合おうか
ここは途中だ 旅の何処かだ
ひとつだけ多くても ひとつ何か足りなくても
終わるもんじゃない
突然の雨 合図もなしに
ゴールを争うような 勢いで駆け込んだ
古いロケットのような あの丘の樹の下で
ここは途中だ 景色は変わる
ここは途中だ 旅の何処かだ
ひとつだけ多くても ひとつ何か足りなくても
終わるもんじゃない
あのロケットの樹の下で
何度も繰り返されるサビのフレーズ「ここは途中だ 旅の何処かだ」はまさに自分に言い聞かせてきたフレーズだったのであろう。not at allが人生訓的ニュアンスをたたえているのに対して、こちらのロケットの樹の下の方が、より「当事者としてもがいている」印象を受ける。
ミッドライフクライシスは、あのトルストイでさえ陥ったと言われている心理状態である。成功体験の多寡、富や名誉ではないのであろう。いわんや、突出した才能も持たず、流されるようにその時その時を凌いで生きてきた大多数の人にとっては何をかいわんや、である。この社会に「漂流」する中で、中年期以降の新しい人生を創りたいという希求は、誰の胸にもあるのではないだろうか。そして、その思いは誰とも共有できることのないままに、胸の中で孤独に暴れてはいないだろうか。
そのとき、「2000年代のチャゲアス」はそこにいる。
大人が聴くべき、真に上質なJ-POPとして。