【写真の「暴力性」】『MINAMATA—ミナマタ—』を観た。
TOHOシネマズ日比谷にて『MINAMATA—ミナマタ—』を鑑賞した。
すごい映画だった。
日本で起きた凄惨な出来事を、日本ではない視点から描き出すことで、観る人、特に日本人に客観と主観の再考を迫っている。
この映画を観て、写真はある種の「暴力」であると思わされた。写る人の不可侵な領域に立ち入り、撮る人の魂を消費して、見る人に「目撃者」たることを強制する。
だからこそ、この映画も「暴力」であった。私のような無知な人間に対しては「ミナマタはまだ続いている、なかったことにしてはいけない」と目撃させ、また痛みを忘れ去れたい当事者にとっては傷を抉るものかもしれない。
中盤、ユージーンが写真を撮り魂をすり減らすことに疲れ、青年にカメラを授け、全てから解放されたような表情を浮かべるシーンがあった。私もデジタルだけでなくフィルムを使ってよく写真を撮るので、この気持ちはとてもよくわかった。特にフィルムで、やはり写真を撮るということは非常に精神をすり減らす。始めた頃はとにかく撮るのが楽しくて仕方がなかったが、やはり普段無意識に目を逸らす対象と向き合い(普段見るままのものを写す人はあまりいないだろう)、それを写すということは精神を消費する。
だから、時折友達にフィルムを預けて「好きに撮っていいよ」と放ったりしてしまうのだ。解放されるために。
ユージーンほどの境地に達しているわけは絶対にないが、写真を撮る人なら共感できる光景だったと思う。
写真は「暴力」であると同時にまた、「不可視なものを可視化する」行為でもある。人が目を背けているもの、複雑な社会構造ゆえに見えなくなっているもの、認知的なバイアスでそもそも認識しづらくなっているものを、写真を通して否が応でも見せつけることができる。撮る人の魂をすり減らす所以はここにあるのだろう。その目撃の第一人者を引き受けなければならないのだから。
不可視なものを可視化されたからこそ、チッソの社長は決断したのではないか。世間からバッシングされることを恐れたからではなく、目を背けていたものを、人々の不可視な痛みを、ひしひしと見せつけられたことで。
上映後、拍手が起きた。今まで映画を観てきて初めてのことである。
拍手という現象は、ユージーンの写真を通して「ミナマタ」を目撃した人々による、問題への「関与」の第一歩だと思った。
拍手をしていた人たちは、他人事でない問題として「ミナマタ」を内面化したのだろう。
自分は、できなかった。
果てしなく自分にうんざりした。