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【小説】ある駅のジュース専門店 第13話「テイクアウト」
ある夜。女性は会社から自宅へと車を走らせていた。いつも片道三十分ほどで帰宅し、入浴や晩酌でリラックスするのが彼女の日課である。
しかし、その日はどういうわけか1時間ほど走ってもいっこうに自宅に着かない。いつもの道を走っているはずなのに、見知らぬ山の中のような景色が続いている。女性はだんだん不安になってきた。
しばらく走り続けていると街灯の明かりしか光の無い道に出て、前方に白っぽい建物が見えた。
建物の近くに車を停めて外に出てみる。「⬛︎⬛︎駅」と書かれた看板があることから、駅だということは分かったが、肝心な駅名が全く読めない。ぐねぐねと曲がった二つの漢字らしき文字が並んでいる。
どうしてこんな所に来てしまったのだろう。恐る恐る足を進め、誰か人がいないかと見回しながら駅の中に入る。とにかくここがどこなのか、そしてどうやったら家に帰れるのかを知りたかった。
駅は薄暗く寂れた雰囲気だった。売店や飲食店らしき店もあったが、どれもシャッターが固く閉められており、ますます女性の不安を煽った。まるで廃墟に来ているようで、心細かった。
しかし、ショッピングエリアの半ばまで来ると、一軒だけ煌々とピンクや紫のネオン看板の明かりがついている店を見つけた。店内の照明も怪しげなピンク色だが、明かりがついているだけで安心感を覚える。
「す、すみませーん……」
声を掛けてみると、「はい」と声がして、店の奥の扉から一人の店員が出てきた。ウルフカットの黒髪を片耳に掛け、赤いシャツの襟元に黒いネクタイを締め、黒いズボンを履いた腰に黒いエプロンを巻いている。黒いマスクをしているため口元は分からないが、目元だけでも端正な顔立ちであることが分かる。
「いらっしゃいませー」
「あの……ここ、どこですか……? 帰宅途中で道に迷ってしまって……」
「あぁ、笠岐のすぐ近くです。この辺りは道に迷いやすいんですよね」
「か、笠岐……私、白淵から来ちゃったんですけど、どうやって帰れば……」
「白淵ですか? なら、妙照方面から行けば帰れますよ」
「そうなんですか……! ありがとうございます!」
ぺこりと頭を下げると、店員は「お役に立てたなら嬉しいです」と目を細めた。
「お客さん。うち、ジュース売ってるんですけど……なんか飲みます? ラズベリーソーダとストロベリーソーダがあるんですけど」
なんとなくイチゴのような甘い香りがすると思ったら、ジュース屋だったのか。女性は喉が渇いていたが、ここでゆっくりしていると家に帰る時間が遅くなってしまうと思い、「結構です」と断った。
「あぁ、帰るの遅くなっちゃいますもんね」
目を丸くした。心を読まれている。
「え……」
「もし良かったらテイクアウトもできますけど……どうします?」
店員は気怠げな口調で尋ねてくる。
「じゃ、じゃあ……テイクアウトで、ストロベリーソーダお願いします」
「かしこまりました。では、代金として五百円頂戴します」
代金を受け取ると、店員は目の前のカウンターでジュースを作り始めた。イチゴの果汁にソーダが注がれ、炭酸の泡が浮き上がっては消えていく。ジュースの色の美しさと店員の無駄の無い動きに、女性は思わず見入っていた。
「ストロベリーソーダです、どうぞ。気をつけてお帰りくださいね」
「はい……ありがとうございます!」
女性はジュースの容器を両手でしっかりと持って店を後にした。その様子を、店員がじっと見つめていた。
店員に教えてもらったルートで車を走らせ、女性は無事に自宅に戻ることができた。合計二時間はかかったはずなのに、いつもの帰宅時間からさほど変わらない時間だった。
(あの場所はちょっと怖かったけど、ジュース屋の店員さんが優しくて良かった……)
ソファに座り、リビングでテレビを見ながら、先程買ったジュースに口を付ける。
「ん! 美味しい……」
イチゴの甘い味としゅわしゅわと溶ける炭酸が同時に口の中を満たしていく。喉の渇きもあり、あっという間に飲み干してほうっと息を吐いた。
疲労からか、眠気が徐々に襲ってくる。女性はソファに座ったまま首を上下に揺らし、とうとう背もたれにもたれかかって眠り始めた。
彼女が深い眠りに落ちた頃、突如、部屋の照明がゆっくりと点滅し始める。照明は何度か点滅し続けた後に消され、暗闇の中、テレビの画面だけがソファと女性を明るく照らす。女性は全く気づかず、すうすうと寝息を立てている。
テレビの画面に照らされて出来たソファと女性の影がぐにゃりと歪み、影の中から黒いマニキュアをした右手の細い指先が伸びる。それから影が大きく盛り上がって人の形を成し、部屋の中にせり上がりながら色づいていく。
赤いシャツを着て、ウルフカットの黒髪を片耳に掛けた、あの店員。
店員はテレビを背にしてソファの前に立ち、眠っている女性をじっと覗き込んだ。女性の顔に暗い影がかかる。ただならぬ雰囲気を感じたのか、女性はようやく薄目を開けた。
「!」
声も無く目を見開く。店員は女性の目の前でマスクを外した。
頬全体に広がるように浮き出た血管のような網目模様。吊り上がった唇が大きく開かれると、上と下に二本ずつ生えた鋭い牙から唾液が糸を引く。
声を上げようとした口を強く塞がれる。抵抗しようとするが身体が硬直して動かない。店員は女性の様子を眺めて冷たい笑みを浮かべる。
「すいませんねぇ、あまりにも空腹だし、お前が美味しそうだったから……来ちゃった」
口を塞いでいた手が離れても、喉を潰されているかのように声が出せない。そのまま両足首を掴まれ、部屋の隅にできた暗い影の方へ引きずられていってしまう。
影から植物のツルのような触手が何本も何本も生えてきて、出迎えるように放射状に伸びる。
「っ……!」
嫌だ、死にたくない、死にたくない! そう思っていても、店員はお構いなしに女性を引きずって影の方にゆっくりと近づいていく。触手たちがうねうねと手招く。
「ーーーー‼︎ ーーーー‼︎」
声にならない声を絞り出すが、とうとう触手のすぐそばまで連れて来られてしまう。
触手が一斉に伸び、身体にきつく巻き付き引っ張ってくる。店員も触手と共に影の中へ沈み、足首から女性を影の中に引き込んでいく。
消えかかった女性の声は影に飲み込まれ、暗い部屋にはテレビから流れる明るい音声だけが残された。
〈おしまい〉