【小説】ある駅のジュース専門店 第8話「不運」
「次は、⬛︎⬛︎駅前。⬛︎⬛︎駅前」
夜の町を走るバスの中。響き渡るアナウンスで目を覚ました私は頭が真っ白になっていた。自宅近くのバス停で降りるつもりが、いつの間にか乗り過ごしてしまっていたようだ。
車内には私一人だけだった。とりあえず次のバス停で降りようと降車ボタンを押し、寝起きで湿った目を、運賃表に表示されたバス停の名前に凝らす。駅前に停まるということは分かったが、その駅名は見知った町の駅では無い。「駅」という文字の前に、ぐねぐねと曲がった創作漢字のような、読めない文字が二つ並んでいた。まだ寝ぼけているのかと頬を軽く叩いてみても目をこすってみても、運賃表の駅名は読めないままだった。
途端に不安が押し寄せ、バスの窓に目をやると外は完全な闇。どこを走っているのかも分からない。不安は徐々に恐怖へと変わっていった。
「あ、あの! ここで降ります! 停まってください!」
声を上げるが、運転手の返事は無く、バスが停まる気配も無い。聞こえていないのかと席を立ち、運転席に向かう。そしてもう一度、ここで降ります、と声を掛けようとして私はその場に立ち尽くした。
運転手がいない。無人の運転席でアクセルがしっかりと踏まれ、それに従ってバスがまっすぐに進んでいるのだ。
きっと悪い夢でも見ているに違いない。まだ夢から覚めていないのだ。そう考えているうちにバスが停まり、ドアが開く。転がるようにバスから降りる。振り向くと、乗る時は綺麗だったはずのバスはすっかり赤茶色に錆びついており、タイヤも泥に汚れ、窓には水垢がびっしりと付いていた。私はすぐにバスから離れた。
今になって考える。もしこれが夢だったなら。もしここで目を覚ましたなら、どれほど安心できただろうか。
街灯が点々と続く道の向こうに、小さな建物のシルエットとぼんやりと灯る明かりが見えた。近づいてみるとそれは駅舎らしく、明かりが灯る看板には先程バスの運賃表で見たあの読めない駅名が書かれていた。知らない場所なので不安だったが、明かりがあることで少しだけ安心感を得られた。
私は駅舎に近づき、緩い階段を上がって中に入った。電車やバスが来るようなら、そのどちらかに乗って帰ろうと思ったのだ。
駅の中はひんやりとしていて、なんとなく空気が重かった。人の気配が無く、ただ人工的で無機質な空間が広がっているだけである。
しばらく進むとショッピングエリアに来た。ショッピングエリアといってもほとんどの店のシャッターが閉まっており、まるで使われなくなった商店街を歩いているようだ。延々とシャッターが続く光景にだんだんと心細くなってくる。その時だった。一軒の店が掲げる、鮮やかなピンクや紫のネオン看板が目に飛び込んできた。
(ここだけ開いてる……?)
店に近づいて覗き込むと、店内にもピンク色の派手な照明が付いている。どうやらカウンター席に座れるようだが、ネオン看板の文字を見ても全く読めないため、何を売っているのか分からない。
「いらっしゃいませー」
驚いて声の方を見る。いつの間にか、カウンターの横に黒いマスクを付けた店員が立っていた。店員は赤いシャツに黒いネクタイとズボンを身につけ、金色のピアスをした片耳にウルフカットの黒髪を掛けていた。
「あ、す、すみません。ここって何を売ってるんですか……?」
「うち、ジュース売ってるんです。ラズベリーソーダとストロベリーソーダがありますけど……お客さん、なんか飲みます?」
気怠げな声で尋ねられると、急に喉の乾きに気が付いた。せっかくなので、ここでジュースを飲んでいくことにした。
「はい。じゃあ……ストロベリーソーダで」
「ストロベリーソーダですね。かしこまりました。では、こちらでお待ちください」
店員は淡々と私をカウンター席へ案内し、目の前でジュースを作り始めた。ここへ来るまでに恐ろしく心細い思いをしたので、ようやく普通の光景が見られて安心していた。
「お客さん」
イチゴをミキサーに掛けながら、店員が話しかけてくる。
「ここに来るまでに、何かありました?」
「え? な、なんで」
「なんだかとてもほっとしたような顔をされてるんで」
どうやら見抜かれていたらしい。
「いや……実は、バスで居眠りしてたらこの駅の前まで来てしまって……」
私は店員に、ジュース屋に来るまでのことを全て話した。
「それは大変でしたね」
「はい……知らない場所で、しかも人の気配が全く無い場所って怖くて……前にも一度怖い思いをしたことがあるので、すごく心細くて。このお店が開いてて良かったです」
「……前にも?」
店員に問われ、あ、と声を漏らす。余計なことを口走ってしまったかもしれない。ずっと前に体験した「あのこと」は、誰にも話していない。話しても、たぶん信じてもらえない。
でも、今ここで話せば少し楽になるかもしれない。そう思った私は、店員に過去の体験を話すことにした。
「実は……ずっと前のことなんですけど……」
あれは確か、大学一年生だった頃。夏休みに入り、友達と遅い時間まで遊んだ日の帰宅途中。
バスを降りた私は楽しい一日を思い出して浮かれていた。そして、いつもは通らない大通りの裏道から帰ってみようと、ほんの好奇心から静かな住宅街へと入っていった。
その住宅街には街灯が少なく、私以外に歩いている人も全くいなかったので心細かった。自然と歩くスピードも上がる。
そうして前方に見える横断歩道を渡れば家までもうひと息、という時。私はふと顔を横に向け、細い路地が奥に続くのに沿って目線を動かした。
人がいた。こちらに背を向けてしゃがみ込んでいる。微かにぴちゃぴちゃと音が聞こえる。何をしているんだろうと目を凝らすと、その路地の地面に乳白色の液体が溜まっている。それは例えるならお菓子を作る時のダマになった生地のようで、液体の中に薄いピンク色の小さな欠片のようなものが混じっていた。ますます気になって、遠くから回り込んでみる。
先程はしゃがみ込んでいる人の身体で隠れて見えなかったが、その人の前にもう一人、男性がうつ伏せに倒れているのが分かった。そして、その男性の横腹がどろどろに溶けて、溶け出した皮膚と脂肪と肉片とが液体になって地面に流れ出して、男性の横でしゃがみ込んでいる人がそれを美味そうに啜っているのも。
ぴちゃぴちゃ、ぴちゃぴちゃ。
恐怖と吐き気がせり上がり、一刻も早くこの場を離れようと後ずさると、ざっ、とアスファルトを靴裏で大きく擦ってしまった。息を呑んだ瞬間、その人がゆらりと立ち上がり、こちらを見た。角膜がピンク色に光っており、口元には血管のような赤い網目模様が浮き出ていた。横に引き伸ばされた唇の奥から、鋭い牙が覗く。
駆け出した。なるべく後ろを見ずに家へと走り、家に着いてから恐る恐る振り向く。あれは追って来ていなかった。ほっと息を吐いて玄関のドアにしっかりと鍵を掛けた後、トイレに駆け込んで思いきり吐いた。
「それは……怖いですよね」
店員の相槌を聞きながら、私は当時のことを思い出して背筋が寒くなった。
「あれはもうトラウマです……今でも夜に出歩くの怖くて」
「でも、良かったじゃないですか。ここに来られて。私もずっと心残りでしたし」
気怠げな口調に、楽しげな笑いが混じる。
「そうですね……」
店員の言葉をそのまま飲み込みかけて相槌を打ち、ふと、引っかかりを覚える。
「……心残り?」
「ええ。私もあれからずっと後悔してたんですよ……なんであの時、逃がしちまったんだろうって」
数秒の静寂。
「……え?」
「だから今日、お客さんが来てくれてとっても嬉しいです。ありがとうございます」
「え? ま、待ってください……何言ってるんですか……?」
「何って……言葉通りの、意味ですけど」
店員の目に、ピンク色の光が妖しく宿る。
「え……それ……その目って……え……?」
「あぁ……話してたら腹が減ってきた」
黒いマスクの紐に指が掛けられ、見せつけるようにマスクが外される。露わになった口元には、血のように赤い網目模様。
絶句している私に、店員は唇の両端を吊り上げてにいっと笑った。鮮やかな照明に照らされ、唾液に濡れた鋭い牙が光る。唇の奥から笑いを漏らし、そいつはやけに艶めかしい声で。
「せっかく逃げられたと思ったのにねぇ。可哀想に」
店を飛び出した。喉の渇きなどもう感じない。ただただ元来た道を走った。先程通ってきた入口にはいつの間にか規制線がびっしりと貼られ、通れなくなっていた。反対側の通路へ駆け出す。幸運にも改札口の扉が壊されてそのまま通れるようになっていた。駆け抜けてホームに向かう。
あの店員はまだ追って来ていない。だからといってホームで電車を待っていても電車がいつ来るか分からないし、すぐにあいつが追い付いてくる。もし捕まったらその後はきっと、溶かされて喰われてしまうのだろう。あの時見た男性のように。
覚悟を決め、えいっと線路に飛び降りた。湿った土の匂いがする。このまま線路に沿って歩いていけば、見慣れた町に辿り着くかもしれない。希望を見出し、一応あいつが追って来ていないか確認しようとホームを見上げた。
「!」
あいつが立っていた。点字ブロックの上で試すように薄い笑みを浮かべ、こちらをじっと見下ろしてくる。見つめるだけで、なぜか何もしてこない。意図が全く読めないのが恐ろしかった。
駆け出すと、あいつの視線も私を追ってねっとりと絡みついてくる。振り払うように走るスピードを上げる。生ぬるい風が肌を撫でてくる。嫌な汗が身体にまとわりついてくる。
しばらく走って徐々に速度を落とした。これだけ走れば、きっと駅から離れられているはずだ。立ち止まり、息を切らしながら辺りを見回す。そして、えっ、と声を漏らす。
景色が全く変わっていないのだ。すぐ横のホームからあいつが楽しげに目を細めて見ている。混乱しつつもう一度走り出してみる。しかし、どれだけ走っても、走っても走っても走っても、駅から離れることは出来なかった。
「なんで……なんで……」
背中を丸めて激しく息をする。これ以上走れば過呼吸で死んでしまいそうだ。
「死にそうならやめましょうよ、もう。どうせここから出られないんだから」
耳元に息がかかり、艶めかしい声を流し込まれる。逃げようと足を動かそうとするが、疲労のせいか身体が硬直して全く動かない。
「分かりますよ。逃げたいですよね。お客さん、怖がりですもんねぇ。だから面白いんだよ」
声を上げようと口を開くが、息が漏れるだけで呻き声すら出ない。
「あーあぁ泣いてる。大の大人が。そんなにぶるぶる震えたって、心の中で命乞いしたって、どうにもならねぇんだよ。泣きたいなら好きなだけ泣け」
地を這うような低音に気圧されてしゃくり上げる。もうダメだ。逃げられない。私はこのまま死ぬんだ。
目を閉じると、耳元でくすくすと笑われた。
「良いねぇ。意外と諦めが良くて助かった。じゃあ……そろそろ、ご飯にしますか」
どこからか漂ってきた甘い香りがだんだんときつくなる。頭がぼうっとして何も考えられない。喉の奥に大量の水が入り込んでくるように息苦しさが増していく。呼吸が早くなる。心臓が早鐘を打つ。全身の力が急激に抜けていく。意識が朦朧としてくる。
そして視界がぼやけ、倒れ込んだところでがっと右足を掴まれる。意識が完全に飛んだ。
「……か、……ですか」
遠くで聞こえる声に薄目を開ける。視界に光が入ってくる。
「大丈夫ですか⁉︎」
「あっ起きた‼︎ 起きたぞ‼︎」
「今、救急車呼んでますから!」
目の前に見知らぬ人の顔があった。その周りにも何人か立って、心配そうに見つめてくる。
「……え……?」
起き上がろうとして頭痛に襲われる。そのまま寝ていてください、と目の前の人が言った。
「あの……あなたは……」
「通りすがりの者なんですけど、家に帰ろうとしてたら女の子に呼び止められて、ついて来て欲しいって言うので後をついて行ったらここにあなたが倒れてて……」
辺りを見回す。あの駅ではない。しかも見慣れた場所だ。家のすぐ近くだった。
「……駅は……?」
「駅?」
「私、駅にいたと思うんですけど……ジュース屋がある駅……」
「ジュース屋がある駅?」
「はい……私、バスに乗ってて居眠りしてて、起きたらバスが駅に着いて……」
私はその人と駆けつけた救急隊員、そして搬送先の病院の医師に覚えている限りのことを全て話した。しかし身体のどこにも異常が無かったために信じてもらえず、とりあえず頭痛薬を処方された。私は助けてくれたその人にお礼を言って別れ、帰路に着いた。
あれは帰宅途中に見た悪夢だったのだろうか。それとも現実だったのだろうか。どちらにせよ、もうあいつと出会うことは一切無いと信じたい。あんな体験は、もうこりごりだ。
〈おしまい〉