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【小説】ある駅のジュース専門店 第22話「連結④」
次の日の夕方。俺は授業を終えて、井田と落ち合うためにコンピュータールームへ向かっていた。
「森越さん、森越さん!」
後ろから呼ばれて振り返る。八坂さんが焦りを浮かべた表情で立っていた。
「八坂さん。どうしたんですか?」
「さっき……宗也から、メッセージが来て」
そう言って彼はスマホの画面を見せる。そこには文字化けした渡貫さんのアカウントとの、メッセージのやり取りが表示されていた。
「八坂」
「たすけて」
「え? 宗也?」
「うん。たすけて」
「何があった?」
「アカウント乗っ取られて、どうしようって凹んでたら、いつの間にかあの駅に来てて」
「えっ」
「もう俺だめかも」
「え、まて宗也、お前今あの駅にいるのか」
「宗也?」
「おい返事しろ宗也」
「宗也!」
突然の事態に、言葉が何も出て来ない。
「どうすれば良いでしょうか……」
八坂さんが不安げに見つめてくる。
「え……と、これは……」
どうする。助けに行った方が良いのだろうか。もし今から助けに行ったとして、既に手遅れだったら——いや、助かる可能性があるのなら、やはり行った方が良い。
考えを巡らせた後、俺は八坂さんの顔をまっすぐ見据えて言った。
「行きましょう。渡貫さんを助けに」
「うーん……」
コンピュータールームで井田に渡貫さんのメッセージのことを話すと、彼は目を伏せて考え込んだ。
「なぁ、行った方が良いって。渡貫さんが助けてって言ってるんだから」
「ほんとに?」
井田は訝しげに言う。
「ほんとにあの駅にいるの?」
「いるよ。ほら、八坂さんに届いたメッセージにそう書いてあるだろ」
八坂さんがスマホの画面を見せる。メッセージを読んだ井田はますます眉間に皺を寄せた。
「うーん……」
「何悩んでんだよ、早く助けに行かないと」
声を掛けても頷かない。それどころか俺の方を向いて。
「なんか、タイミング良すぎない?」
こんなことを言う始末である。
「タイミング? 今はそんなこと言ってる場合じゃないだろ。渡貫さんが今あの駅で危ない目に遭ってるかもしれないんだぞ」
「……じゃあもし渡貫さんがあの駅にいるとして、どうやって助けるの?」
「どうやってって……」
「あの駅から無事に帰れる保証なんてどこにも無い。サラセさんがどれくらい強いか分からないけど……きっと、そう簡単には帰してくれないよ」
「そんなこと……そんなこと、今は考えてる時間ねぇんだよ!」
思わず声を荒らげると、井田がびくっと身体を震わせる。重い空気の中、場違いなほど明るい通知音が響き渡る。八坂さんが気まずそうにスマホを見て、息を呑んだ。
「……今、そ、宗也からメッセージ来ました」
「えっ」
慌てて液晶画面を覗き込む。先程の八坂さんのメッセージの下に、新しくメッセージが届いていた。
「来て」
行かなければ。強い義務感が湧いてくる。俺は八坂さんと目を合わせた。
「行くの?」
井田が尋ねてくる。
「まだ躊躇ってんのかよ……いいよ、じゃあ俺たちだけで行ってくる。長くなりそうだったらもう帰っててくれ」
「え……」
井田は何か言いたそうに口を開いたが、その後すぐに口を閉じて心配そうに俺の顔を見つめた。
立ちつくす彼に背を向け、俺は八坂さんと一緒に廊下を歩き出した。
「本当に良かったんですか? 井田さん、置いてきてしまって……」
隣で尋ねる八坂さんに「良いんです」と返す。
「あいつはいつも冷静で、立ち止まって考えることが多いんです。それが良いところではあるんですけど、今回はちょっと、躊躇い過ぎだと思って」
「そうなんですね……」
相槌の奥で気を遣われているのを感じる。申し訳ないと感じつつ、なぜ井田が渡貫さんを助けに行くのをあんなに躊躇ったのかと考えを巡らせる。だが、結局明確な答えは出せなかった。
大学の外に出ると、一台の路線バスが乗降口の扉を開けて待ち構えていた。行き先の表示は全く読めないが、前に見た文字と同じだった。あの駅まで行くバスに違いない。
「え……なに、これ」
驚いている八坂さんに、無人駅まで行けるバスだと説明してさっそく中に乗り込んだ。バスの乗客は俺たちの他に誰もいない。クーラーが効いていて涼しかったが、なんとなく空気が重たく感じた。
バスが走り出す。井田を残した大学が遠ざかっていく。見慣れた町中を過ぎ、しばらく走り続けていたバスは見知らぬ山中の道路に出た。
俺たちは車内で「ある駅のジュース専門店」について分かったことや、サラセさんが渡貫さんのアカウントを乗っ取っているかもしれないという情報を共有していた。しかし、前方に大きく口を開けた暗いトンネルが見えると、急に悪寒が止まらなくなった。
「八坂さん……寒くないですか」
「寒いです……ほ、ほんとにこのバス乗っちゃって大丈夫だったんですか……?」
大丈夫だとも、大丈夫ではないとも答えられなかった。ただ黙り込んで、トンネルに入って車内が暗くなるのをぼんやりと感じながら、バスの振動に揺られていた。
トンネルを抜けた先には、墨で塗りつぶしたような夜が広がっている。周りに家々の明かりは無い。闇の中、白い建物がぼんやりと見える。
「……駅だ」
俺たちは顔を見合わせた。あの駅舎の中で、渡貫さんはどんな恐ろしい目に遭っているのだろう。早く助けに行かなければ。
バスは駅の前の駐車場らしき場所にきしんだ音を立てて停まった。バスから降りて振り返ると、綺麗だった車体が瞬く間に赤茶色の錆で覆われ、タイヤも泥で汚れていく。ここから無事に帰れるのか不安になったが、ここまで来たらもう後戻りはできない。
「……行きましょう」
俺と八坂さんは、寂れた駅舎へと向かった。
「渡貫さーん!」
「宗也ー!」
どこかに渡貫さんがいると信じ、二人で呼びかけながら構内を歩くが、返事は返って来ない。どこからか換気扇の唸る音や、ぽたりぽたりと水滴が落ちる音が聞こえてくるだけだ。
「やっぱり、あのジュース屋にいるんでしょうか……」
八坂さんが心配そうに尋ねてくる。
「あそこかもしれませんね……」
前方の、毒々しいほど鮮やかに光るネオン看板を指差すと、八坂さんは息を呑んで頷いた。
そっとジュース屋に近づき、恐る恐る店内を覗き込む。誰もいない。ピンクや紫の照明に照らされたカウンター席。壁に飾られたサラセニアの花の絵画。以前来た時とほとんど同じ様子だったが、カウンターの隅に置かれたかごの中にはネクタイや腕時計、ペンケースなど、以前よりもたくさんの「お土産」が積み上げられていた。
「いらっしゃいませー」
いきなり声が聞こえてきて驚いた。カウンターに、いつの間にか背の高い店員が立っている。ウルフカットの黒髪に赤いシャツ、黒いネクタイとズボン、そして口元には黒いマスク。サラセさんだ。
「また来てくださったんですね。ありがとうございます」
嬉しそうに目を細めたサラセさんを睨みつけると、隣で八坂さんが口を開いた。
「……宗也を……返してください」
は、と黒いマスクの奥から息が吐き出される。
「何のことですか?」
「……っ、とぼけるな!」
思わず大声を出した。サラセさんの眉間に深く皺が刻まれたのを見て、少し声は抑えつつも、できるだけ強気な態度を崩さずに話す。
「……わ、渡貫宗也さんから、メッセージが来たんだよ。この駅にいるから助けてくれって。あんたが何かしたんだろ。何をした……渡貫さんを、どこへやったんだ」
数秒の沈黙。
「……あぁ、あれか」
サラセさんは心当たりがあるというように頷いて。
「ふ、ふふっ、くくくくくく」
喉の奥を鳴らして笑い出した。
「な、何が可笑しい……!」
「だって……だって、ねぇ? ふふふふ」
苛立って歩み寄ろうとした俺を八坂さんが止める。
サラセさんは笑いを堪えながら、心底楽しそうに言った。
「……あのメッセージねぇ、私が書いたんですよ」
「…………は?」
頭が真っ白になった。八坂さんも俺と一緒に立ちつくしている。
「宗也くんが自分のお家にずぅっと閉じこもっててつまんないんで、宗也くんと私のことを調べてくれてるお客さん方にメッセージを送ろうと。そうしたら、もう一度来てくれる良い機会になるじゃないですか。本当は、もう一人のお友達にも来てもらいたかったんですけどね」
「え……じゃあ……じゃあ」
サラセさんの目が一層細められる。
「宗也くん、ここにはいませんよ」
「……テメェ……ッ」
騙された。完全に手玉に取られていたのだ。
「ふざけんなよっもう……はぁ……」
ため息を吐く俺の隣で、八坂さんが尋ねた。
「なんで、宗也のアカウントを乗っ取ったんですか?」
「うちの店のことを広めるためです」
サラセさんは楽しげに答えた。
「宗也くんはこの場で私たちの話を聞いてたんで……彼が広告塔としてうちの店の情報を広めてくれたら、もっとうちに来てくれるお客さんが増えると思って」
「……そう、ですか」
妙な脱力感に襲われ、相槌を打つことしかできない。渡貫さんがいないんじゃ、ここにいても無意味だ。もう帰ろう。そう思った途端。
「あぁ、もう帰っちゃうんですか?」
サラセさんが視線を合わせてきた。少し切れ長で、何を考えているか分からない、真っ黒な両目。
「せっかく来たんだから、ゆっくりしていってくださいよ」
そのままカウンターから出てきて、すっ、と片足をこちらに踏み出してきた。思わず後ずさる。
「……どういうつもりだ」
「なにが?」
サラセさんはわざとらしく首を傾げてみせる。
「俺たちを……ど、どうする気なんだよ」
どこからか、花の蜜のような甘い香りが漂い始める。最初は良い香りだと感じる程度だったが、だんだんと、鼻の奥が麻痺するほどきつくなっていく。
「そうですね……今、ちょうど空腹で、ご飯でも食べようかなって思ってたところなんですよねぇ」
黒いマスクに指が掛けられ、紐が片耳から外されていく。露わになった素顔には血管のような赤い網目模様が浮き出ていた。
「っ……ぁ」
俺たちはさらに後ずさった。甘い香りが喉の奥までなだれ込んできて、まともに声を出すこともできない。
頬いっぱいに広がった網目模様の中心で、サラセさんの唇の両端がゆっくりと吊り上がった。だんだん開いていく口の奥からやけに長い犬歯が見える。唾液がまとわり付いた長い舌が、下唇からはみ出して垂れ下がっていく。
逃げ出そうにも身体が動かない。隣で八坂さんの足ががくがくと震えている。
「ははははっ、やっぱり面白ぇなぁ。お前ら」
男とも女ともつかない声が、艶めかしい口調で笑う。これがサラセさんの「本性」なのだろう。しかし、分かったところでどうすることもできない。
「じゃあ……そろそろ、ご飯にしますかぁ」
甘い香りがさらに強くなり、がんがんと頭が殴られるように痛い。心臓の鼓動が速くなり、息苦しくなってくる。薄れていく意識の中で、昔プールで溺れた時の感覚に似てるなぁ、とぼんやりと感じた。
こつん、こつんとこちらに足音が近づいてくるのを聞いているうちに、視界が黒く塗りつぶされていき、とうとう、意識が飛んだ。
〈つづく〉