【小説】ある駅のジュース専門店 番外編「訪問」
クーラーボックスを携えて、久しぶりに電車に乗った。先輩に会いに行くのは初めてなので、少し張り詰めた気持ちで窓の夜景を見つめる。
電車はトンネルを抜け、ある無人駅に停まった。少し錆びついた駅名標には「きさらぎ」の文字。開いたドアから生温かい風が吹き込んでくる。私は席を立って電車を降りた。
先輩は、私が駅を建てる十七年前から既に、その存在を多くの人間たちに知られている。駅を建てると決めたのも、先輩のことを知ったのがきっかけだった。だから自分の都市伝説が生まれた今、一度挨拶に行っておこうと思ったのだ。
線路に降りて歩き出す。遠くから太鼓と鈴の音が聞こえてくる。湿った空気が心地良く、いっそここに根を下ろすのも悪くないかと考えてしまう。
「おおい、危ないから線路の上歩いちゃダメだよぉ……って、あれ」
線路の向こうから老人が近付いてきた。片方の足の先が夜の闇にぼやけている。
「あ、先輩。初めまして」
「なんだ、人間じゃないのか……まさか、うちの姫を横取りしに来たんじゃないだろうな。えぇ?」
どうやら警戒されているようだ。
「……姫?」
「私のことを最初に広めてくれた人だよ。ここにずっと留まってくれてる。もし姫目当てなら……帰す訳にはいかないな」
「別にそんなんじゃないです。挨拶しに伺っただけで」
「本当に?」
「ほんとです」
老人は私の目をじっと見つめ、「うん。敵意は…………なし。いやあ、疑っちゃってほんと、申し訳ない」と頭を下げた。
「いえ、私も突然来ちゃったんで。すみません」
「いやいや。せっかく来てくれたのに、怖がらせちゃってごめんよ。君、名前は? もうついてる?」
「はい。サラセっていいます。笠岐の方に駅を建てて、ジュース屋をやってます」
「へぇ! 同業者かぁ、嬉しいな」
「……駅が増えるのって、嫌なんじゃないですか?」
「全然。君みたいな子が頑張ってくれてるのは本当に有難いよ。だって君の知名度が上がったら、人間は君のことを調べ始めるだろ?他にも似ている噂がないか、とかね。そしたら私の情報にも辿り着く。君がいてくれることで、私も忘れられずに頑張っていけるんだよ」
先輩は朗らかに笑った。その笑顔から徐々に深いしわが消え、白かった髪が黒く染まっていく。
「まぁ、私も都市伝説としてはまだまだ若手だけどね。昭和の頃に生まれた大先輩たちがたくさんいるし。これからもお互い頑張っていこうね、サラセ」
「はい。よろしくお願いします」
私の眼前には、片足の老人ではなく、着流し姿の若い男性が立っていた。黒髪に赤いインナーカラーが入っている。こちらが話しやすいよう、姿を変えてくれたらしい。
先輩と話せるせっかくの機会なので、私は今の悩みを打ち明けてみることにした。
「あの、先輩」
「ん?」
「最近悩んでることがあるんですけど……聞いてもらってもいいですか?」
「ん! 良いよ。何でも聞くよ」
「実は、人間にデマを流されてて……」
「うん」
「そのせいで、自分も変わってしまうんじゃないかって不安で」
「そうか。なるほどね……やっぱり、噂が変わっていくのって怖いよね。分かるよ。私も、行ってもないのに別の駅の写真を貼っ付けて『きさらぎ駅に着いちゃった』ってネットに書かれることがしょっちゅうあるし。八尺様も、この前ネットでセルフ検索しておろおろしてた。人間たちに全く怖がられなくなったんじゃないかって」
先輩はホームの縁に腰掛けて息を吐いた。
「でもね、今はきっと、変わんないことの方が難しい。私らが生き抜くためには、デマを楽しむ余裕も必要なんじゃないかって思うよ」
「デマを……楽しむ」
「そう。無理に自分を保とうとするんじゃなくて、考察やデマを笑って楽しむぐらいの余裕を持つんだよ。『へー、こんなこと考えてんだ、面白いなぁ』ぐらいの感覚。だってさ、噂が変わっても、根っこはそのまま残ってる。私は私のままだし、八尺様は八尺様のまま。昭和に生まれた大先輩たちだって、多少噂は変わってもまだまだ現役で活躍してる。私らを覚えてくれてる人間がいる限り、私らは完全に新しく切り替わることもないし、消えることもない。慌てず騒がず、どっしり構えてりゃいいんだよ」
温かい風が頭を撫でていく。この空間全てが励ましてくれているように感じた。
「ありがとうございます」
「ま、どうしても気になるんならさ。デマの拡散がピークを迎えるのを待って、ほとんどの人間がデマの方を信じたなーと思ったところで、一回、気合い入れてビビらせてみな。めちゃくちゃ面白いから」
穏やかに垂れた目が悪戯っぽく細められる。先輩とは気が合いそうだ。
「へえ。面白そう……今度、やってみますね」
「うん、楽しんでやりな。これからも応援してるよ」
「ありがとうございます」
心の中にかかっていた霧が、少し晴れたような気がした。
アドバイスを貰い、そろそろ帰ろうかと考えたところで、先輩に渡したいものがあったのを思い出した。
「あ、そうだ。先輩」
「ん、何?」
「……二十周年、おめでとうございます。お祝いにラズベリーソーダ作ってきたんで、今お渡ししますね」
クーラーボックスを開け、真っ赤なジュースの入ったプラカップを取り出す。
「えっマジで⁉︎ 綺麗……君のとこで売ってるやつ? これ、貰っちゃっていいの?」
「はい。私が店を始めたのは先輩がきっかけだったんです。今日挨拶に伺ったのも、お礼と二十周年のお祝いを兼ねてて。ジュース、お口に合えば嬉しいです」
「ありがとう。後でいただくよ。そっか……ほんと、ごめんね。最初、敵かって疑っちゃって」
「いえ。気にしないでください」
「……うちの姫はね、さっきも言ったけど、私を最初に見つけて広めてくれた恩人なんだよ。でも怖がりだし、すぐ一人になろうとするから、悪い奴に横取りされちゃいそうで。だから私が守らなきゃダメなんだよね。ずっと」
「……なんか、気の毒ですね。その人」
「え、なんでちょっと引いてんの」
「いや、別に……じゃ、もうそろそろお暇しますね」
「ちょっと。気になるからもうちょっとだけここにいて。ね?」
先輩に袖を掴まれたが、丁重に断っておいた。これ以上ここにい続けたら、頼んでも帰してもらえなさそうだから。
「うう……そうか。じゃあ、またいつでも遊びにおいで」
「はい。また来ます」
「私も行っていいかな? 君のとこ」
「良いですよ。いつでもお待ちしてます」
「ありがとう。じゃあ、また」
「はい。今日はありがとうございました」
一礼し、頭を上げるともう先輩はいなかった。私は線路からホームに上がり、やって来た電車に乗って、笠岐に近い駅に向かった。
〈おしまい〉
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