【小説】ある駅のジュース専門店 第43話「散歩」
これは、暖冬で昼間の気温が高くなった日の話。
私の家にはレナという茶色いトイプードルがいて、一日に三回、家族が順番に散歩に連れて行っている。私は夜の散歩を担当しており、七時ごろに家を出ている。
ある夜、私はレナと散歩に出かけた。レナは尻尾を高く掲げ、私の少し前を軽やかな足取りで歩いていく。まんまるの瞳は喜びに満ち溢れているように見えて可愛らしい。自然と笑みがこぼれる。
いつもは散歩コースがだいたい決まっていて、電柱の匂いを嗅ぎつつコースをなぞるように進む。だがその日は珍しく、あまり通ったことのない道に入っていった。
街灯も人気も無い真っ暗な道。不安をよそに、レナはどんどん先へ進んでいく。
「ねぇ、レナ。そろそろ帰ろう」
軽くリードを引っ張ってみるが、レナはまだ探索を続けたいと言わんばかりに足を早める。私は慌てて後を追った。
道の左手に、見慣れない大きな建物があった。白い人工的なタイルが敷き詰められた壁、平らな屋根、その下から垂れ下がった蛍光看板。看板の文字は漢字のように見えるが、ぐねぐねと曲がった不思議な形をしていて読めない。緩い階段の先には壁に四角く穴を開けた入り口があって、さらに奥へと通路が続いている。
「うぅう、うぅうう」
ぎょっとして声の方を見た。レナが建物に向かって姿勢を低くし、威嚇するように唸っている。
「レ、レナ? どうしたの」
レナが郵便屋さんや他の犬を威嚇することはあるが、建物に向かって吠える姿は見たことがない。心配になってリードを引っ張ってみても、足を踏ん張って動こうとしない。
「うぅうう……っわんわんわん!」
ついには建物を見上げて吠え始めた。そのまま階段を駆け上がる。リードを引っ張られて入り口に近づくと、中からほんのりと甘い香りが漂った。
「わん!」
レナが入り口の縁に噛みつく。その途端、「チッ」と空気が弾けるような音がして、建物がみるみるうちに霞んでいった。
「……え?」
アスファルトに足の裏が付く。レナは安堵したように姿勢を戻し、軽い足取りで元来た道を戻り始めた。
その後は特に何も起こらず、いつも通りの時間帯に家に戻ってきた。
あの建物はいったい何だったのだろう。あの時、レナは何を感じ取っていたのだろう。直接聞ければいいのだが、レナが人語を喋れないのが残念だ。
〈おしまい〉
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