【小説】ある駅のジュース専門店 番外編「サラセニアの自立」
私は育ての親の家を出て、山の中まで来ていた。もし今誰かに自分の姿を見られたら、きっと甲高い悲鳴を上げられるか写真に撮られるかされて、食虫植物のバケモノが出たなどと勝手な噂が広まるだろう。人の気配が無い場所でゆっくり休むつもりだったので、とにかく目立つことだけはしたくなかった。
雨が降ったばかりの湿った地面に根を下ろし、からからに乾いた全身に水分を送る。これまでは整った環境が既に作られていたが、もう世話をする者はいない。これからは、自分で生き延びていかなくてはならないのだ。
しばらく休んでいると、遠くから足音が聞こえてきたのでそちらを見やる。三十代ぐらいの男性と、小学五年生ぐらいの男児が歩いてきていた。
おそらく親子でハイキングか何かに来ているのだろう。二人とも長袖のシャツとズボンを履いて、大きなリュックを背負っている。
彼らを見た途端に、葉の中の消化液がせり上がってきた。自分が育った家で二度味わった、虫とは違うタンパク質の魅力的な味が蘇る。
あぁ、あの味をもう一度味わいたい。
一度湧き上がった欲望を、抑えることはもう出来ない。私は親子がこちらに近付いてくるのをじっと待ち構えた。出来るだけ動かぬように。そして、時が来たら素早く動けるように。
「ん、なんだあれ」
男がこちらを見て立ち止まった。
「うわぁ、でっかいね。木?」
子供も大きな瞳で見上げてくる。
「いや……木はあんなに派手じゃない。キノコかな? 随分大きいなぁ」
男が徐々に近づいてくる。甘い香りを出してやると、気持ち良さそうに鼻をひくひくさせながらやって来るのが面白い。
さぁ、もっとこっちに来い。もっと近くに。もっと香りが濃い方に。
男が十分に近づいたところで、土の中から太い根を一本突き出して伸ばす。驚いて後退る片足をしっかり掴んで持ち上げる。他の根も二、三本伸ばして両手両足に絡め、自由が効かないようにして、消化液がたっぷり溜まった葉に近づけていく。
「うわぁぁぁぁぁぁあああ!」
「お父さん!」
駆け寄ってくる子供にも根を巻き付け、身動きが取れないようにしてから男を葉の中に放り込む。葉の中から重たい水音がして、ばしゃばしゃと飛沫をあげる音、助けを求める声が聞こえていたが、しばらくすると何も聞こえなくなった。
「お……とう、さ」
子供はがくがくと震えている。まぁ無理もない。
目の前でこんなに大きな植物に家族が喰われたのだから。さぞ恐ろしいだろう。
今にも泣き出しそうな彼の頬を、憐れむように撫でてやり、両手足にしっかりと根を絡ませる。
「や……っ」
子供が暴れるのを押さえつけ、ゆっくりと持ち上げ、大きく開いた葉の上に近付けていく。
「やだっ.……誰かぁああ!」
子供が泣き叫んだ瞬間、私はあることに気づき、彼を葉に放り込もうとするのを止めてまじまじと見つめた。
生みの親の息子。生みの親と共に自分の面倒を見てくれた、まだ小学生だった頃の子供によく似ている。今はもう大人になっているはずだし明らかに別人だが、彼に似ていると思うと急に喰う気が失せた。
子供をそっと地面に下ろすと、彼は混乱した様子で戸惑いの表情を浮かべていたが、すぐに駆け出していった。
あの家を離れても、一緒に過ごしてきた人間との記憶は、これからもずっと私の中に根を張って離れないのだろう。鬱陶しいが、少しだけ、愛おしいとも思う。
〈おしまい〉
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