【小説】ある駅のジュース専門店 第47話「残滓」
これはある日の夕方、学校帰りに遊びに行くためバスに乗った時のこと。
ちょうど混みやすい時間帯だったらしく、車内は人でいっぱいだった。手すりに掴まり、片手のスマホでSNSをチェックしていると、視界の端に電池マークの中身が減っていくのが映る。このスマホもそろそろ寿命だ。新しいものを買わないといけない。私は悶々としながら、目的の停留所がアナウンスされるのを待っていた。
降りるまでずっと立ったままバスに揺られる覚悟でいたが、途中で車内が空いてきたので、座席に座ることができた。熱気が薄れ、どことなく爽やかな空気を感じる。
スマホの画面に視線を落としているうち、周りの人がどんどん降りていって、気がつけば私一人だけになっていた。いつの間にか、車内に明かりがついている。窓の外に目をやると、黒い絵の具で塗りつぶしたような暗闇が広がっていた。
「え?」
目を凝らしても建物がひとつも見えない。それに、バスに乗ってから三十分は経っているのに、目的の停留所の名前がまだアナウンスされていない。得体の知れない不安が押し寄せてくる。
「次は、⬛︎⬛︎駅前。⬛︎⬛︎駅前」
ノイズ混じりのアナウンスが響き渡る。このバスは駅には行かないはずだ。もしかして乗るバスを間違えた? とにかくもう暗いし、どこかで降りないと。焦りから、降車ボタンを押してしまう。
バスは暗闇の中を走り続け、どこかの駐車場で停まった。運賃を払いアスファルトの地面に降りると、綺麗だったはずの車体が赤茶色の錆で覆われていく。タイヤは泥まみれで、窓ガラスも水垢だらけ。まるで私を降ろした瞬間、バスにかけられていた魔法が解けたようだった。
私はバスに背を向け、建物がある方へ駆け出した。
そこは知らない駅だった。車掌さんや駅員さんの気配が全くしないので、たぶん無人駅だろう。
白い駅舎の入り口に、漢字らしき二文字の駅名が書かれた看板が下がっている。近づいて目を凝らしてみるが、ぐねぐねと曲がった不思議な形をしていて読めなかった。
自分がどこにいるのか調べるため、スマホを出す。視界に飛び込んできたのは、もう残り少ない電池マークと無慈悲な「圏外」の文字。モバイルバッテリーを家に置いてきたことに気づいたが、今更どうしようもない。
私はがっくりと肩を落とし、人がいることを願いながら駅舎の中へ入った。
何やら甘い香りが漂う構内は、青白い蛍光灯でぼんやりと照らされている。ブレーカーの低い音が響いてくる。まっすぐな通路の両側には、シャッターがいくつも並んでいる。カフェやレストランの看板があるから、これらは全てお店なのだろう。通路の終わりはずっと奥に見えているのに、同じような景色が果てしなく続いているように見えて、心細い。
通路の半ばまで来ると、右側と左側に一軒ずつ、開いているお店があった。右側はピンクや水色のネオン看板を掲げた怪しげなお店。対して左側は、暖色の照明が下がるログハウス調のお店だった。
私は比較的入りやすそうな左側のお店に近づいた。店員さんがいるなら、帰る手段を聞いてみようと思ったのだ。
「す、すみませーん」
がらんとした店内に呼びかけると、奥のレジカウンターの方から「はーい」と明るい声がした。
「いらっしゃいませー!」
出てきたのは小柄な店員さん。白いスウェットに緑のエプロン、紺色のジーンズ、黒いスニーカーといったラフな格好をしている。口元は白い不織布マスクで見えないが、細められた穏やかそうな垂れ目だけで、笑っているのがよく分かる。
「何かお探しですか?」
「あの、実はバスを間違えて、ここで降りちゃったんです。どうしたらいいんでしょうか……」
「あら、それは大変。でも大丈夫!」
店員さんは笑みを絶やさず答えてくれた。
「今からあと二十分でバスが来るので、そちらに乗っていただけると帰れますよ」
「ほ、ほんとですか……ありがとうございます!」
「いえいえ! 皆さんこの辺りで結構迷われるので、よく案内させていただいてるんです」
一気に希望の光が差し込む。ほっと息を吐く私を見て、店員さんも微笑んでいた。
「もし良かったら、バスを待つ間、うちの店をご覧になっていきませんか? 雑貨店をやらせていただいてるんです」
「あ、ここ雑貨屋さんだったんですか!」
「はい!」
「じゃあ……ちょっとだけ」
「ありがとうございます! ゆっくりご覧くださいね」
店員さんの言葉に甘えて、私は雑貨店の中を見て回った。人気店なのかほとんどの棚が空っぽで、「SOLD OUT」の札が立てられている。唯一商品があったのは出入り口に一番近い棚で、私が今使っているのと同じ機種のスマホが一台、置いてあった。
「あっ……」
ちょうど、スマホの寿命が近づいていたことを思い出す。値札を確認すると、超破格の五百円。ゼロが足りなすぎるんじゃないかと何度も目をこすってみたが、五百円で間違いなさそうだった。
「すみません。商品、もうそちらの一点だけなんです」
耳元で聞こえた声に飛び退く。レジカウンターにいたはずの店員さんが、いつの間にか出入り口の方に立っていた。
「あぁごめんなさい、びっくりさせちゃいました?」
「び、びっくりした……」
「あはは、すみません。足音立てずに歩くんで……そちらのスマートフォン、お気に召していただけましたか?」
「は、はい。今使ってるやつがちょうど寿命みたいで。新しいスマホ欲しいなって思ってたんです」
「なら良かった! こちらのスマートフォン中古なんですけど、とっても性能良いんですよ。データを消せばすぐ使えます。いかがですか?」
店員さんが微笑みかけてくるが、安すぎる値段が気になって購入に踏み切れない。
「あの……ほんとに五百円で、いいんですか?」
「ええ! うちの店はどんな商品も、一律五百円で販売させていただいてるんです。その方が、手に取りやすいでしょ?」
「た、確かに……!」
たった五百円で中古のスマホが買えるのはお得だ。私はスマホの購入を決めた。
「これ、買います」
「お! やったぁ、ありがとうございます! じゃあお会計しますね」
レジカウンターで会計を済ませた後、過去のデータを消してもらい、まっさらな状態のスマホを受け取る。見知らぬ駅に迷い込んで不安でいっぱいだったが、ここで新しいスマホを買えて良かった。
「ありがとうございましたー!」
店員さんがお店の外まで出てきて見送ってくれる。私は温かい気持ちで駅を後に、しようとした。
「ごめんなさい」
買ったばかりのスマホから、声が聞こえた。
「ごめんなさい……へ、変な噂流しちゃって、ごめんなさい。だって、まさかほんとにあると思わなかった、から」
高校生くらいの女の子の声。全く知らない人のはずなのに、その声に、なぜか聞き覚えがある。
「ごめんなさ……や、やだ、あの、私帰ります。開けてください。テスト勉強しなきゃいけないんで……お、お願いします。このシャッター開けてください。お願いします……!」
女の子の声が、だんだんと泣き叫ぶような声色に変わっていく。
「ねぇお願い……ここで死ぬとか嫌なんで! お願いします! 許して……もう許してください‼︎ あの投稿消して、ちゃんと書き直すから‼︎ それで良いよね? ね? ね……何笑ってんだよ、早く開けろよ‼︎ こっち来んなっ……ぁ」
ぶつん、とマイクが切れたような音を最後に、スマホからは何も聞こえなくなった。
「あぁ……まだあったんだ、残りかす。はは、すいません。全部取りきれてなかったみたいで」
雑貨屋の店員さんが目を細める。その瞳の奥は、全く笑っていなかった。
「あ、お客さん? ごめんなさいね、びっくりさせちゃって……」
「……その声」
「ん?」
私はゆっくりと後ずさった。
「その声……今の……あの子の……」
店員さんの声は、スマホから聞こえてきた女の子の声に、よく似ていた。
「あぁ、なるほど! そっかそっか。気づいちゃったかぁ……あーあ、まったく。変な残りかす入れやがって」
マスクの奥から地を這うような低音が聞こえた。肌が粟立つ。早く離れないとまずい。本能が警鐘を鳴らす。
「ねぇ……良いよねぇ? これで最後なんだから。お土産、ぜーんぶ売ったんだから」
こつん、こつん、とスニーカーの先がこちらに迫ってくる。足を動かそうとするが、体が固まって動けない。
店員さんは私の眼前でマスクを外した。頬いっぱいに浮き上がった、真っ赤な網目模様。
「ぁ……っ」
「良いねぇ、その顔。やっと見れたぁ……はははっ」
吊り上がった唇の奥で、白い牙がぎらりと光った。
縮み上がった私の両肩を細い指が強く掴んで、店員の方へ引き寄せて。大きく見開かれた目が顔を覗き込んできて。
「ようやくわたしの番だ‼︎」
歓喜に満ちた声とともに、甘い甘い香りが鼻腔になだれ込んで——。
「っ⁉︎」
気がつけば、誰かが私と店員の間に割り込んでいた。店員の腕を掴んで私から引き離そうとしているのは、黒いマスクをした背の高い人。うなじ辺りまで伸ばしたウルフカットの黒髪が揺れる。
「……行ってください」
「はぁ⁉︎ ちょ、なんで……離せっこの……!」
店員が腕を振り解こうとしても、その人はびくともしない。
「早く行ってください。もうそろそろバス来るんで。走らないと乗り遅れますよ」
切れ長の黒い瞳がこちらを見る。
「あ……ありがとうございます……!」
私はその人に深く頭を下げ、駅の駐車場の方へ駆け出した。
「お前……なんで邪魔すんだよ」
わたしは目の前の相手——サラセを睨みつけて言った。
「あ? 私の目を盗んで勝手に食事をとろうとした馬鹿が何言ってんだよ」
黒いマスクの奥から笑われる。
「前に言ったよな? お前は『お土産』が全部売れたら用済みだって。それまで虫でも食ってろって。ちゃんと言いつけが守れねぇ奴に、一人前の食事なんてやる訳ねぇだろ」
こいつのこういうところが大嫌いだ。わたしだって元はお前と同じ存在だったのに。同じように人を喰っていたのに。馬鹿にしてこき使いやがって。
「ああ。悪かったな、今まで」
わたしの心を勝手に読んでなお平然としている。その涼しい顔を、原型が無くなるまで溶かしてやりたい。
「良いよ。やってみろよ。どうせお前は今日で用済みなんだから。溜まってた『お土産』を全部売り捌いてくれたしな。お前には感謝しねぇと」
「五月蝿ぇ!」
サラセの腕を振り払い殴りかかろうとした拳が、空を切る。行き場を無くした腕に、植物の太い根が絡み付く。
「安心しろよ。お前が喰いたがってたあいつは、お前を消化した後、ちゃんと腹に収めてやるからさぁ」
そいつは耳元で楽しげに囁いた。
畜生、畜生、畜生! いつだってお前は、骨の一本も寄越してくれなかったくせに。わたしを喰った後、逃した獲物を独り占めしようというのか。
「独り占め? お前を喰ったら私の中に戻るんだから、むしろシェアになると思ってたんだけど」
「五月蝿ぇ黙れ‼︎」
怒りのままに叫ぶと、サラセは笑うのをやめ、冷たい視線をこちらに向けてきた。
「黙るのはお前の方だ。私の一部のくせにぎゃあぎゃあ騒ぎやがって……嫌いなんだよ。一番最初に喰った奴みたいで。食事の時ぐらい黙ってろ」
口の中に根が突っ込まれた。舌に消化液が触れる。痺れるような激痛が走る。
「畜生、ぢぐ、じょ、う……」
どんなに足掻こうと、結局こいつには勝てないらしい。だからわたしは吐ける限りの呪詛を吐いて、相手の眉間に皺が寄るのを楽しんだ。それで十分満足してから、意識をゆっくりと、手放してやったのだった。
〈おしまい〉