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【小説】ある駅のジュース専門店 第51話「夏の虫」

 玉村たまむらさんと会った日から二日後。俺たちは再びあの異界駅に行くか迷っていたが、結局行こうと決意した。早くしないと、あの駅に連れて行かれた玉村さんがサラセさんに喰われてしまう。
 ただ、武器を何も持たないままサラセさんと対峙するのは非常に危険だ。そこで井田いだと入念に話し合い、各自メモ帳とライターを持っていくことにした。
「異界駅に辿り着いた時は、何かを燃やせば無事に戻れるんだったよな」
「うん。インターネットの掲示板でも、何かを燃やせば元の世界に戻ってこれた話が上がってるし、ライターだけでも十分武器になるよ」
「そうか……そういえば、あのキャンディはもう使えないのか? 前にサラセさんに喰われそうになった時、おさえさまから貰ったやつ」
「ブドウ味もピーチ味も残ってなかったから、たぶんもう使えないと思う」
「そうか……」
 不安はあった。以前訪れた人喰い怪異の住処に、もう一度足を踏み入れようとしているのだから。もしかしたら今回は無事に戻って来られないかもしれない。でも、玉村さんがあの駅にいることは俺たちしか知らない。助けに行けるのも俺たちしかいない。だから今は、できるだけ早く駅へ向かうしかない。
 大学の授業が終わった後、俺たちはバス停へ走った。いつも乗るバスには乗らず、文字化けのような行き先表示を掲げるバスを待つ。こちらの思考を見透かしてくるサラセさんのことだから、俺たちが駅へ向かおうとしているのを知れば、必ず迎えのバスを寄越してくるはずだ。俺は道路の向こうを睨んでいた。
 しばらくするとやけに真新しいバスが来て、俺たちの前に停まった。行き先は文字化けのようで「駅」という文字しか読めない。乗降口の扉がゆっくりと開く。唾を飲み込み、井田と顔を見合わせる。
「……良い?」
「……ああ。行ってやる」
「うん。僕も行く」
 俺たちはバスに乗り込んだ。扉が閉まり、バスは徐々にスピードを上げて走り出した。

 窓から見える景色は夕方の町から山道になり、トンネルを抜けてからは夜の闇へと変わった。冷房のついた車内が寒くなる。
「ねぇ、今のうちにおさえさまのキャンディ食べきっちゃわない? 一応持ってきたんだ」
「え、今?」
「うん。なんか急に喉乾いてきたから……えーと、リンゴ味とイチゴ味があるけど、どっちが良い?」
 井田の言葉を聞いて、自分も喉が渇いていることに気づく。
「……リンゴ」
「分かった。はい」
「サンキュ」
 なぜかもやもやした気持ちを抱えながらキャンディを受け取り、包みを開けて口に放り込む。リンゴの甘酸っぱい味が優しく染み渡り、舌で転がす間に溶かしてしまう。井田の方を見ると、彼もリンゴ味のキャンディを舐め終わっていた。次はイチゴ味を、と思った途端、バスが駅の駐車場に入った。
「……着いちゃったね」
「……そうだな」
 俺たちはバスが停車するのを待って運賃を支払い、硬いアスファルトに足をつけた。
 駐車場を出るとすぐ、闇の中に真っ白な駅舎が佇んでいた。緩い階段を上った先に入り口がある。読めない駅名が書かれた蛍光看板は不規則に点滅し、その明かりに蛾や蚊がわらわらと集まっていた。虫たちは入り口の奥から漂う甘い香りを辿り、駅の中まで入り込んでいた。
 俺はそっと息を吸い、井田と一緒に駅の入り口を潜った。ブレーカーが唸る音と耳元を過ぎる蚊の羽音が合わさって、非常に気持ちが悪い。寄ってくる虫を手で払いながらシャッター街を進み、一軒だけシャッターが開いている店の前で足を止めた。ピンク、紫、水色にオレンジ。色とりどりのネオン看板が煌々と輝くこの店こそ、サラセさんが営むジュース屋だった。
「いらっしゃいませー」
 びくっと体が震える。カウンターの横の扉が音を立てて開き、黒いマスクを付けたサラセさんが姿を現した。
「来てくださったんですね。ありがとうございます。お待ちしてました」
 少し切れ長の瞳が細められる。俺たちはサラセさんを睨みつけた。
「今日はキャンディくれないんですか?」
 井田が小さく息を呑む。どうやらキャンディを使わないことも見透かされているようだ。
「……もう君の分は無いから、あげない」
「そう、残念。また貰えるの楽しみにしてたのに」
 残念そうに言ってみせるのが腹立たしい。俺は単刀直入に聞いた。
「玉村さんは無事なんだろうな」
「それはもう、ご自身の目で確かめた方が早いかと」
 サラセさんは小さく笑いを漏らし、バックヤードに繋がる扉を開いた。真っ暗な部屋の中からは甘い香りに混じって、鋭い金属の匂いが薄らと漂ってくる。
「良いですよ、入って。お客さん方はお得意様なんで、特別です」
 俺たちは顔を見合わせた。背中を冷たい汗が伝う。
「さぁ、遠慮なさらず。誠一せいいちくんが待ってる」
 サラセさんが先に扉の奥に入り、こちらを振り向く。艶かしさを帯びた声が誘う。こいつの誘いに乗るのは危険だと分かっているが、入らなければ玉村さんに会わせてもらえない。井田と頷き合い、ようやく足を踏み出す。
 俺たちがバックヤードに入った直後、後ろで勢いよく扉が閉まる音がした。思わず声を上げる。前方から、くすくすと嘲笑う声がした。

 徐々に目が慣れてくると、通路の両側に錆びたロッカーや水垢のついた姿見、ぼろぼろの段ボール箱が置かれているのが分かった。通路はバックヤードの奥へと真っ直ぐ伸びているが、そこに何があるのかは、サラセさんの背で見えない。
「怖いか?」
 歩きながら、サラセさんが振り向いて聞いてくる。いつの間にマスクを外したのだろう。赤い網目模様がびっしりと浮き上がった素顔を見せていた。
「別に」
「へぇ。その割には声が震えてるけど?」
「お、お前が急にドアの鍵閉めるから」
「鍵は閉めてねぇよ。逃げたくなったら戻ってきて、ドアを開けて逃げればいい」
 やけに綽々しゃくしゃくとした態度に不安感が増した。こちらの思考は一方的に知られているのに、こちらからこいつの思考を読み取ることはできない。
「……随分、親切にしてくれるんだね」
 すぐ後ろを歩く井田も不審そうに言う。
「まぁな。お前らとは長い付き合いだから」
 サラセさんの楽しげな声が答える。
 部屋の奥へ進むにつれて、甘い香りと金属の匂いが強くなった。靴の裏がなんだか粘ついてきて、ぬかるみの上を歩いているような感覚だ。下を見ると、床からべとべとした透明な液体が染み出していて、細かい毛のようなものが、通路の先へ向けてびっしりと生えていた。
那生なお
 背後からの小声に振り向く。井田が焦りの表情を浮かべている。
「ダメだ。戻ろう」
「え、なんで? まだ玉村さんに会ってないだろ」
「ここって、たぶん——」
 井田が言いかけた瞬間、反対側から右腕を強く掴まれた。
「うわぁ⁉︎」
「早く来いよ」
 サラセさんが腕を引っ張ってくる。その指の冷たさにぞっとして振り解こうとしても、離してくれない。そのまま肩に右手を回される。もう片方の手は井田の肩に置かれていた。
「ほら、歩きな」
 体の向きを戻され、とん、と指で肩を叩かれる。ここで逃げたら玉村さんに会えない。ゆっくりと、通路の奥へ歩き出す。
「……っ」
 途中で思わず足が竦んだ。目の前の壁や床から細く枝分かれした白い触手が何本も伸びて、手招くように蠢いている。なかなか進めずにいたが、再び指で肩を叩かれたので、渋々触手をかき分けていく。触手たちはすぐ近くで身をくねらせるだけで、特に何もしてこない。
 粘ついた床で転ばぬよう進んでいくうち、触手が蠢く中に、何か白っぽいものが落ちているのが見えた。サラセさんが俺たちから手を離して近づくと、それを覆っていた触手がするすると離れていく。サラセさんの口元に、恍惚とした笑みが浮かぶ。
「…………」
 俺たちは言葉を失った。
 薄暗い部屋で白く際立つそれは、人間の、頭蓋骨だった。

「誠一くん。こいつらがわざわざ会いに来てくれたって。良かったな」
 サラセさんが頭蓋骨を抱き上げ、こちらへ振り向く。
「……それが……玉村、さん?」
「そうだけど。何?」
 黒いマニキュアを塗った指が、骨をそっと撫でる。
「…………ふざけんなよ」
「勝手に期待したのはお前らだろ。誰が『生きた状態で』会わせるって言った?」
「……っ、ふざけんなテメェ‼︎」
 サラセさんに向かって拳を振り上げる。そのまま殴りかかろうとして後ろへ勢いよく引っ張られる。井田が俺を羽交い締めにして、止めてくれていた。歯を食いしばりながら、首を何度も横に振っている。それを見ているうちに、体から力が抜けていき、床にへたり込んだ。肩で荒く息をする。
 きっと今まで俺は、心のどこかで、他人事のように考えていたのだと思う。怖い目に逢わされた人の体験談を読んでも、アカウントを乗っ取られた人を助けようとしても、結局は全く知らない人の身に起こったことだと。俺たちには関係のないことだと。
 でも今、つい最近会って話をした玉村さんが、サラセさんに喰い殺されている。頭蓋骨だけになって、この化け物の腕の中に収まっている。
 ああ、あの時玉村さんが襲われることを予期していれば良かった。玉村さんが戻ってくるのを待っていないで、早く部屋に飛び込んでいれば良かった。そうすればきっと、喰われる前に助けられたのに。
「じゃあ……んで……くれ」
 ふいに、弱々しい声がした。顔を上げると、サラセさんが抱えている玉村さんの頭蓋骨が、視界に飛び込んでくる。
「死んで、くれ……私と同じように……一人は嫌だ……一緒に、ここにいてくれ……」
 周りで蠢いていた触手たちが、ゆっくりと、俺たちの方に伸びてくる。
「なぁ……頼むよ……君たちも……一緒に」
 触手たちが腕や足に巻き付いてくる。危ないと分かっているのに、振り払う気力が出なかった。
「もう逃げないの?」
 耳元でサラセさんが嗤う。逃げられる訳がない。玉村さんがそう望んでいるんだから。自分が助けに行かなかったせいで、玉村さんが喰われたんだから。恨まれるのは当然だ。
「那生っ」
 井田が俺に巻き付いた触手を解こうとしてくれている。自分にも触手が巻き付いているのに。
「ありがとう、井田。もういいから」
「何言ってるの、このままじゃ食べられるよ! ここから帰れなくなる!」
「分かってるよ、そんなの」
「分かってるって……じゃあ逃げないと」
「だって玉村さんが、一緒に死んでほしいって——」
 言いかけたその時。頭の中で、玉村さんの穏やかな声が響き渡った。

「また生きる活力を持てました。聞いてくださって、本当に、ありがとうございました。少しでも、調べ物のお役に立てられれば嬉しいです」

 そうだ。
 あの日の玉村さんは、生きようとしていた。俺たちの調査を後押ししてくれていた。
 彼は本当に、俺たちを道連れにしようとするだろうか。
 俺は体中の触手を振り解いた。
「……クズが」
 サラセさんを睨みつける。化け物は何も言わず眉をひそめた。
「玉村さんの声使えば、ここで大人しく喰われてくれるって思ったんだろ」
「……ふぅん。今日は冴えてるんだな。いつもは晴人はるとくんに助けてもらってるのに」
「この野郎……!」
 怒りに任せて殴りたかったが、今度は拳を上げる前に、井田が俺の手を引いて駆け出した。
「逃げるよ」
 粘ついた床に苦戦しつつ、なんとかバックヤードの扉まで戻ってくる。だが、押しても引いても扉が開かない。
「は⁉︎ あいつ鍵閉めてねぇって……」
「……途中で閉めたんだろうね」
「クソッ」
 あいつはきっと最初から、俺たちをバックヤードに閉じ込めて喰う気だったのだ。そのために、玉村さんに会えると言って奥へ奥へと誘い込んだのだ。
「もう諦めな。分かってて来たんだろ? 無理に足掻いても仕方ねぇだろ」
 耳元で低く囁かれる。赤ん坊をあやすように。駄々をこねる子どもに、優しく言い聞かせるように。
「さぁ、おいで。二人とも残さず喰ってやるよ」
 甘い香りが鼻に勢いよくなだれ込んでくる。息がしづらい。水に溺れるような感覚。倒れ込みそうな俺の肩を、冷たい指が撫でる。
「那生! 火!」
 井田の声で意識が覚める。すぐさまジーンズのポケットからライターを取り出しボタンを押す。暗いバックヤードに、暖色の明かりが灯った。井田は大きく頷き、何かを閃いたような表情で、サラセさんの方へ振り向く。
「君は……サラセニア、でしょ? いくら丈夫でも、大事な葉っぱを中から燃やされたら、さすがにまずいんじゃない?」
 瞬間、サラセさんの眉間に深く皺が寄った。
「やっぱり、そうなんだね。このバックヤードは、君の胃袋なんだ」
「……五月蝿ぇ。だから何だ」
 サラセさんの口から地を這うような低音が発される。井田は自信ありげに微笑み、ちょっと貸して、と俺の手からライターを取った。その火をバックヤードの壁に近づける。
「僕たちはライターをもう一つ持ってる。だから、できるだけ早くここから出してほしいんだ。ここに穴が空いて使えなくなったら、困るよね?」
 サラセさんはゆっくりと背中を曲げ、うな垂れてため息を吐いた。だらりと下がる髪の間から、切れ長の瞳が上目遣いでこちらを睨む。思わず身を震わせた直後、かちゃん、と扉の鍵が開く音がした。
「ありがとう。じゃあね」
 井田がサラセさんに微笑みかけながら扉を開ける。背後から、小さく舌を打つ音が聞こえた。

 俺たちは元来た道を駆け出した。二人とも汗で肌がびっしょりと濡れている。
「はぁ……やっぱり、ライター持ってて良かったね」
「そうだな……」
 しばらくして息を切らし、駅の構内を歩く。井田が返してくれたライターを受け取りながら、ふいに浮かんだ疑問を口にする。
「……そういえばさっき、葉っぱがどうって言ってたけど、どういうことなんだ?」
「ええとね……あのバックヤード、たぶんサラセニアの捕虫葉を横倒しにしたものだと思うんだよ。ほら、床に毛が生えてたでしょ」
「あ、ああ。生えてた」
「サラセニアの捕虫葉の中って、毛が下向きに生えてるんだって。葉の中に入った虫が這い上がろうとしても、足を掛けるところが無いから、入り口まで戻れないようになってるんだ。でも、中には、捕虫葉を食い破って脱出した虫もいるらしくてね。だから、ライターで中から燃やすって言ったら、サラセさんも逃がしてくれるんじゃないかと思って。獲物を捕まえて食べるための大事な葉っぱに穴が開くのは、嫌だろうから」
 背筋が寒くなった。
「……じゃあ……俺たち、もしライター持ってきてなかったら、今頃」
「うん。あそこで食べられてた」
「……ありがとな。井田」
「ううん、こちらこそ」
 お互いに汗だくで微笑み合う。駅の出入り口はもう目の前だ。駐車場にバスも停まっている。俺は少し、油断していた。
「! ダメだ、走ろう!」
 井田が突然俺の手を引いて走り出す。何事かと後ろを振り返れば、駅の天井や壁や床からおびただしい量の触手が伸びて、音もなくこちらへ這ってきている。
「うわぁ⁉︎」
「やっぱり、何が何でも僕たちを食べるつもりなんだ」
「マジかよ、もう体力ねぇよ……」
「とにかく、バスまで走ろう」
 俺たちは必死にバスの方へ走った。だがバスの乗降口の前まで来た時、無情にも扉が閉められてしまう。
「えっ……待って、開けて。乗ります!」
「この野郎開けろ!」
 扉を叩くが開く気配はない。触手たちが、すぐ近くまで迫ってきている。
「そんな……!」
「おい開けろ! 俺たちを帰せ‼︎ おい‼︎」
 とうとう足首にぬるりとした感触が纏わりついてきた。だが、バックヤードからの逃走で疲弊しきった俺たちにはもう、叫び声を上げることしかできなかった。
「こっちです! こっち!」
 どこからか、子どもの高い声が聞こえた。辺りを見回すと、遠くに見える街灯の明かりが、羽の黒いトンボの姿を照らしている。
「力いっぱい振り解いて! 早く、こっちに!」
 どうやら声は、そのトンボから発されているようだった。一瞬身構えたが、「振り解いて」と言っているから、サラセさんの仲間ではなさそうだと判断する。俺たちはトンボの言葉に従い、なんとか触手を振り解いて駆け出した。
 トンボのところまで来ると、トンボは素早く宙返りして、青緑色の着物を着た子どもの姿に変わった。前髪が切り揃えられた、坊ちゃん刈りの男の子。
「もう大丈夫! ぼくがしっかりお二人をお送りします」
「え、ええと……君は……?」
花太はなたと申します! おさえさまの、お使いをさせていただいてます」
 花太と名乗る男の子は、太陽のような明るい笑顔を見せた。井田が目を輝かせる。
「そうか、ハグロトンボは神様の使いっていわれてるから……」
「おさえさまが直々にぼくを選んでくださいました。今は町の見張りでお忙しいとのことだったので、ぼくが代わりに飛んできたんです」
 花太くんはにっこりと笑い、ふところから小さな紙を取り出した。
「ええと、お二人は……ここに来るのは三度目ですね?」
「! は、はい」
「おさえさまが呆れていらっしゃいました。『もうここには近づくなと言ったのに』って。もう、この駅に来ちゃダメですよ? お二人はあの怪物に気に入られてますからね」
「……はい。すみません」
 頭を下げる。花太くんは微笑んでみせた後、俺たちの後ろを見て目を丸くした。
「わ、追ってきてる!」
 振り向くと、触手たちが駅舎の中からこちらに伸びてきていた。
森越もりこしさん、ポケットの中のライターとメモ帳を出してください」
「え、え? どうしてそれを」
「早く! 捕まっちゃいますよ!」
 慌ててライターとメモ帳を取り出す。
「良いですか? ぼくが合図したら、メモの端に火をつけてください」
「は、はい!」
 井田がメモ帳を支えてくれる。俺はいつでも火をつけられるよう、ライターのボタンに指を添えた。
 触手たちが俺たちを取り囲み、頭上でゆっくりと鎌首をもたげた。今すぐ逃げ出したかったが、まだです、と花太くんに言われて必死に踏みとどまる。
 触手たちは俺たちの様子をじっとうかがっているようだったが、やがて狙いを定め、全方位から襲いかかってきた。
「今です!」
 花太くんの声と同時にボタンを押した。メモの端に火がつく。途端に激しいめまいに襲われる。
 目を閉じうつ伏せに倒れ込む瞬間、下から体をすくわれるような感覚があった。

「……お……那生」
 体を揺り起こされているのに気づき、目を開ける。
「ん……」
「那生! 良かった」
 井田が安堵の表情を浮かべる。
「……あれ、花太くん、は……」
 辺りを見回すと、そこは俺たちがいつも大学から帰る時に、バスで通る道だった。近くの地面にライターと、一ページだけ焦げて破れたメモ帳が転がっていた。日はもう沈み、暗くなり始めている。
「花太くんは僕が起きたら目の前にいて、すぐに行っちゃったんだ。那生が起きたら、もうサラセさんのところには行くなって伝えるように言ってた」
「……そっか」
 涼しい風が汗ばんだ肌を撫でていく。俺たちは地面から立ち上がり、ほうっと息を吐いた。
「疲れた……」
「疲れたね」
 しばらく二人で空を眺めた後、ゆっくりと歩き出す。
「……途中まで、一緒に帰るか」
「そうだね」
「……今日は、ありがとう」
「ううん。こちらこそ」
 井田と笑い合いながら、今日の出来事を思い返す。玉村さんのことを思い出して、胸が少し締めつけられた瞬間、再び涼しい風が吹いた。なんだか安心させてくれているように感じた。

                〈おしまい〉

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