【小説】ヴァン・フルールの飴売り 第6話
アンベール達が去った後、部屋の扉が開いて、チェイスが入ってきた。
「ただいま、ニノン。良い子にしていてくれたんだね」
ロッキングチェアに座った少女は、チェイスを見て息を呑んだ。
チェイスは長い前髪を耳に掛け、両方の目を見せていた。右目の虹彩は黒色だが、左目の虹彩は赤く光っており、白目の部分が黒く濁っていた。
(ニノンが言っていたのと同じだ……)
思わず目を逸らした少女の顔を、チェイスが覗き込んでくる。
「やっぱり……まだ、怖い? ごめんね……もっと完璧に変身できれば良かったんだけど、どうしても左目だけ元のままになっちゃって。でも、ここでしばらく一緒に過ごしてたら慣れるから……だから、君には逃げて欲しくなかったんだ。ちょっと手荒な真似をしちゃってごめんね。動けないの、辛いでしょう? 今動けるようにしてあげるね」
チェイスの口調はまるで泣く子をあやすように優しく、柔らかい。少女は顔を上げ、再びチェイスの顔を見つめた。
「……どうして、私に友達になって欲しかったの?」
そう尋ねると、チェイスは恍惚とした様子で口角を上げた。
「君たちがここに一番ふさわしいと思ったんだ。だって、ここが本当のお家なんだから」
「え……?」
ウィリアムを捜していたアンベール達は、廊下に飾られていた絵に目が留まった。『リリアーヌ・ラ・ルルー・シュバリエ』と題されたそれは、美しいドレスを身にまとった女性の絵だった。
その女性の顔が、ニナとニノンによく似ているのだ。
「……これって」
アンベールとニノンは顔を見合わせた。そばにいた白いワンピースの少女は、その様子を不思議そうに見つめていた。
戸惑っているニナに、チェイスは嬉しそうに語った。
「君たち双子のお母さんはね、この家の出身だったんだ。そのお母さんの肖像画がまだここに残ってて、その顔と君たちの顔がそっくりでね。だから確信した。君たちはあの家じゃなくて、ここにいるべきだって。君がニナと喧嘩しちゃって二人とも呼べなかったのは残念だけど、君が来てくれて、友達になってくれて本当に嬉しい……」
ニナは、自分がニノンではないと勘付かれていないことに安堵した。それと同時に、少し、怖くなった。
「どうして、喧嘩のことを知ってるの……?」
「蝶から聞いたんだよ」
「蝶?」
「ほら、君をここまで連れて来てくれたあの黒い蝶。あの子がずっと見ててくれたんだよ、君たちのこと。ここまで友達が増えたのは全部あの子のおかげなんだ。後でご褒美あげなくちゃね」
そういって笑うチェイスの唇の奥から牙が覗いた。ニナはじわじわとせり上がる恐怖を抑え、引きつった顔で微笑み返してみせた。
「あはは、良かった、笑ってくれて……あぁそうだ、君に見せたいものがあったんだよね」
チェイスは後ろ手に隠していたドールハウスを床に置いて、ニナに見せた。それはこの屋敷を模したデザインで、壁を開くと屋敷の間取りが忠実に再現されていた。
「これ、このお屋敷……?」
「うん。頑張って作ったんだよ」
チェイスはおもむろにマッチ箱を取り出した。その瞬間、ニナはなぜかとても嫌な予感がした。
「実はね、ここにとっても悪い泥棒が入り込んでるんだ」
楽しげな言葉と共にマッチが擦られ、火が灯る。
「だから……やっつけちゃおうと思って」
チェイスの唇が歪む。ドールハウスのひとつの部屋に、マッチの火が付けられ、ちりちりと燃えていく。ニナはその様子を、ただ茫然と見つめていた。
「わぁ⁉︎ わぁぁあ‼︎」
ウィリアムは驚愕した。床に火がついている。
「ど、どうしよう……どうしよう⁉︎」
慌てて水差しを探すも、この部屋に火を消せそうなものは見当たらない。焦るウィリアムの周りに、炎と煙が広がっていく。
「だ……誰かぁあ‼︎ アンベールさぁぁあん‼︎」
ウィリアムの泣き叫ぶ声が響いた。
「あは、あっはははははっ」
チェイスは可笑しくてたまらないというように笑った。
「見てよこれ、こんな状態じゃ絶対無事でいられないよね、はははは、ざまぁみろ、あはははっ」
ニナはもう声が出なかった。ただ目を見開いて、狂ったように笑うチェイスを見ていた。
「大事なものを置き去りにするからこうなったんだ、一生後悔してろ! あっはははははは」
「……ち、チェイス、さん……」
喉の奥から絞り出すように声を出す。チェイスは笑うのをぴたりとやめて、無表情でニナを見た。
「……何?」
「あ……え、えっと……ひ、火遊びは危ないわ……この部屋まで燃えちゃう……やめた方が、い、良いんじゃないかしら……」
なんとか言葉を紡ぎ出し、チェイスの様子を伺う。彼は、さっきまでの形相が嘘のように柔らかく微笑んだ。
「そうだね、ごめん。今消すよ」
チェイスは水差しを手に取り、炎に包まれたドールハウスの部屋に水を注いだ。
「えっえぇえどういうこと⁉︎」
ウィリアムは混乱していた。天井から大量の水が降ってきて、先程まで床で燃え盛っていた炎をかき消していく。何が何だか分からないが、とりあえず助かった。そう思って、ほっと息を吐いたのだが。
水が止まらない。天井からとめどなく溢れ出し、床に溜まり続け、ウィリアムの膝上まで迫ってくる。
「や、やばいやばいどうしよう⁉︎」
必死でドアノブをがちゃがちゃと回すが、扉は開かないままだ。その間にも、水がゆっくりとせり上がってきて、とうとうウィリアムは胸元まで水に浸かってしまった。
(ああ……僕、ここで死ぬのかな……死ぬんだろうな……)
ウィリアムはドアノブから手を離し、揺らめく水の中でぼうっと天を仰いだ。
「ね、ねぇ、チェイスさん」
ニナは、楽しそうに水を注いでいるチェイスに話しかけた。
「私……お、お腹、空いちゃった」
瞬間、水差しを傾ける手が止まる。
「そっか。晩ごはんから何時間も経ってるもんね……ちょっと待っててね」
チェイスは水差しを置いて立ち去った。扉が閉められたのを確認すると、ニナはドールハウスを持って、部屋のテーブルにあったコップに水を流した。
書斎に溜まっていた水が消えた。ウィリアムはびしょ濡れのまま、しばらく茫然としていた。
部屋はしんと静まり返っていたが、その静寂は扉を外から叩く音で破られた。ウィリアムはびくりとして扉の方に身構える。
「おーい。誰かいるー?」
チェイスではない。聞き覚えのある声だ。ウィリアムが「は、はい……」と恐る恐る言うと、「あぁ、新聞記者くんか」と返ってきた。
「え……もしかして、リュカさん? どうしてここに……?」
「いやぁ、あの後すぐ警察に捜索を頼んだんだけどさ。なんかもやもやして寝付けなかったんだよね。それで森の入り口まで行ってみたら、真っ黒い蝶がいてね。童心に帰って追いかけてみたら、ここに着いたんだよ……あ、もしかしてお取り込み中だったかな? ごめんねぇ」
「い、いえ、とっても助かりました! あの、良かったらここの鍵、開けてくれませんか? 出られなくなっちゃったんです」
「鍵? 鍵ねぇ……うーん、君、何か知ってる?」
リュカは誰かに尋ねるように言うと、「ちょっと待ってて、取りに行ってくれるって」とウィリアムに伝えた。
「他にも、そこに誰かいるんですか?」
「黒い蝶だよ。どうやら言葉が通じてるみたいでねぇ。今、鍵を取りに行ってくれてるんだ……ところで、捜索の調子はどう? ニノンは見つかった?」
「え、あ、いや……まだです」
「そっか。じゃ、私も捜しに行くよ。もう一人の新聞記者くんは? 一緒じゃないの?」
「はぐれてしまったんです……」
「じゃあ、迷子は二人になったんだね? よし、じゃあまずはもう一人の記者くんと合流しに行こうか……あ、鍵だ。ありがとう」
かちゃん、と音がして扉が開く。リュカの肩には黒い蝶がとまっていた。
「あ、ありがとうございます……!」
「君、びしょ濡れじゃないか。いったいどうしたの?」
「じ、実は、信じてもらえないかもしれないんですけど……」
ウィリアムは事の顛末を話した。
「へぇ……そのチェイスっていうのが『飴売り』なんだね。いやぁ、ずいぶん酷い目に遭ったんだねぇ」
「そうなんですよ……はぁ、怖かった……」
「じゃあ、できるだけ早くみんなと合流した方が良さそうだね。君が逃げ出したと知ったら、またなにか仕掛けてきそうだし」
「そ、そうですね……アンベールさん、どこにいるんだろ……」
「……わ、私、知ってるわよ」
突然、女の子の声が聞こえた。辺りを見回すウィリアムとリュカの耳に、「こっちこっち」とまた声が聞こえる。声が聞こえた方を見ると、リュカの肩から黒い蝶が舞い上がった。
「こ、こっちよ」
「わぁぁぁぁあああ喋ったぁぁあ‼︎」
「きゃぁぁあ‼︎ お、大きな声出さないでよ!」
ウィリアムと黒い蝶は揃って悲鳴を上げた。
「へぇ、君、喋れるんだ」
リュカはいきなり喋り出した蝶に怯えることもなく、興味深そうに眺めていた。
「わ、私、アンベールさんがどこにいるか知ってるわよ」
「ど、どうして知ってるの……っていうか、ど、どうして喋れるの?」
「実は私、チェイスの……召使い、みたいな立ち位置で、彼がここに連れてきて欲しい人を観察したり、この屋敷まで案内する仕事を任されてるの。だからチェイスのことを調べてるあなた達のことはよく知ってるのよ……それから、えーと、喋れるのは……私が、もともと人間だからよ」
「え⁉︎」
「君、人間なの?」
「ええ、そうよ……私、イヴリーン・ノアっていうの。生まれはアメリカ、カンザス州……お母さんとこの町に観光に来て、この屋敷に入るツアーみたいなものに参加したの。そしたらチェイスに捕まって、黒い蝶にされたのよ……家には帰れないし、チェイスにお母さんの記憶を書き換えられて私はいないことにされちゃったし、年齢も十歳のまま止められちゃったし、もう最悪よ……」
イヴリーンはそう言って、ウィリアムが困った時にするのと同じように、ため息を吐いた。
「……え、ちょ、ちょっと待って」
ウィリアムは黒い蝶をじっと見つめた。
「イヴリーンって言った?」
「え? ええ、そうよ。どうしたの?」
「……お、お母さんの名前は?」
「え、ジェーンだけど……どうしてそんなこと聞くの?」
「お、お父さんは?」
「ヘンリーよ」
「お母さんがよく歌ってくれた歌は?」
「え……? 『峠の我が家』よ」
「じゃあ……じゃあ、君は……!」
ウィリアムの目が、少しずつ潤んでくる。
「……ぼ、僕も、ノアって名字、で……あぁ……っあ、あ……」
ウィリアムはとうとう堪えきれなくなって、涙を顔いっぱいに溢れさせた。
「ちょ、ど、どうしたのよ。なんで泣いてるの?」
イヴリーンは困ったようにリュカの方を向いた。リュカは微笑んで、ただこう答えた。
「私も詳しいことは分からないけど……きっと、君に会えたのがとっても嬉しいんだと思うよ」
チェイスが戻ってくると、ドールハウスに溜まっていた水が全て流されていた。
「……どうして?」
チェイスの目がニナを見つめる。
「……どうして、流したの?」
「え……えっと……ほら、み、水……水の、使いすぎだと思ったのよ」
「ふーん……そうなんだ」
チェイスは柔らかく微笑んだ。
「君はよく気が回るね。僕のことも怖がらないし……ありがとう、ニナ」
「どういたしまして……」
そう答えたところで、ニナはハッとして口を押さえた。
「え? どうして返事したの? 君はニノンでしょう?」
「あ……」
一瞬うつむいて、なんとか弁解しようと顔を上げれば、チェイスの冷ややかな視線に射抜かれる。
「……嘘、吐いたの?」
「ご、ごめんなさい……」
「ねぇ、ニノンはどこ? まだここから出てないよね? あいつらの手に渡ってないよね? 知ってるんなら教えてよ」
チェイスはニナに鼻先が触れそうなほど顔を近づけ、立て続けに尋ねてきた。柔らかい口調の中に、微かな動揺と苛立ちが垣間見えた。
「し、知らない……」
「いつも一緒にいたのに? 君が知らない訳ないよね?」
「……知ってても、教えないわ。人の気持ちが分からないあなたなんかに、ニノンは絶対渡さない!」
ニナは声が震えるのを必死に堪え、きっ、とチェイスを睨みつけた。彼女にとっては、これが精一杯の抵抗だった。
「……人の気持ち? じゃあ、君たちには僕の気持ちが分かるの?」
「あ、あなたの気持ちなんて……!」
「そうだよね、分かりっこないよね。君たちにとって僕は、怖い化け物で、人間を攫う悪い奴だもんね……それで良いんだよ。分からなくて良い」
どこか自嘲気味に笑いながら、チェイスは言った。
「だからね、ニナ。たとえ僕が君に危害を加えたとしても、悪く思わないでね? 僕は悪魔として、君たちのイメージ通りに振る舞っただけだから」
そして、彼の左手の杖が床に打ちつけられる。ニナは急に激しい眩暈に襲われ、その場に倒れ込んだ。
落ち着きを取り戻したウィリアムは、泣き腫らした顔のまま、イヴリーンに姉を捜していたことを打ち明けた。
「……知らなかった。私に弟がいたなんて……」
「僕も自分の戸籍を見るまで、ずっと一人っ子だと思ってた。お母さん、姉さんとの記憶を消されてたのか……」
「……ウィリアム、ごめんなさい。私がもしチェイスに捕まってなかったら、もっと普通の姿で、あなたと一緒にいられたんだけど……」
「ううん、姉さんのせいじゃないよ。悪いのは『飴売り』だから……とにかく、アンベールさんと早く合流しないと」
「そうね……案内するわ。二人とも、私について来て」
「うん!……って、リュカさん? なんで笑ってるんですか……?」
「いやぁ、二人とも、会ったばかりなのに息ぴったりだなあと思って。やっぱり、家族っていうのは良いもんだね」
和やかな雰囲気に包まれながら、ウィリアムとリュカはイヴリーンの後に付いていった。
二階に降りると、廊下の前方に蝋燭のような明かりと、いくつかの人影が見えた。
「ほら、着いたわよ」
イヴリーンが明るい口調で知らせる。ウィリアムは人影の方に近づき、「ア、アンベールさん……?」と恐る恐る尋ねた。
「ウィル? ウィルか?」
「! アンベールさん……!」
良かった、本物だ! ウィリアムは一気に肩の力を抜いて、走り出した。
「アンベールさん!」
「ウィル! 無事で良かった……置いて行ってしまって、本当にすまなかった」
「いえ……こちらこそ、一人で行動してしまってすみませんでした」
お互いに謝っているうちになんだか可笑しくなってきて、二人は笑い合った。
「……リュカさんも一緒だったんだな」
「はい。警察に電話した後、駆けつけてくれたみたいで……」
「この黒い蝶のおかげで記者くんと合流できたんだよ」
リュカは肩にとまった蝶を指し示した。イヴリーンはとても誇らしい気持ちになった。
「あ、ところで……そちらでニノンちゃんは見つかってますか?」
「ああ。無事に見つかった」
アンベールが手を繋いでいるニノンを掌で指し示すと、ウィリアムは安堵の息を吐いた。
「良かった……あれ? でも、もう一人の……ニナちゃんは?」
「ニナは自らニノンの身代わりとなって、『飴売り』の目的を聞き出してくれているんだ」
「止めたんだけど、全然聞いてくれなかったの」
アンベールとニノンの説明を聴いて、「そうなんだ……」と相槌を打ったウィリアムは、隣でリュカが茫然と立ち尽くしているのに気づいた。リュカの視線の先には、白いワンピースを着た少女の姿があった。
「……イネス?」
リュカは少女に向かって、確かめるように呟いた。少女は首を傾げた。
「え……どうして、私の名前を知ってるの?」
イネス。その名前を聞くと、アンベールは記憶を辿って考えた。
(確か、イネスとリュカさんは幼馴染だったな……この子がイネスなのか? でも、イネスはまだ子どもの姿だ……リュカさんの幼馴染なら、もう大人になっていないとおかしいんじゃないか?)
考え込むアンベールのそばで、リュカはイネスに語りかけた。
「イネス……私のこと、覚えてる? リュカ・バレットだよ。君の幼馴染。もう大人になっちゃったから覚えていないかもしれないけど……ほら、二人でよく遊んだじゃないか」
「……リュカ・バレット?」
「うん。そうだよ」
イネスは思考を巡らせるようにしばらく頭を傾けた後、答えた。
「誰? 私に幼馴染なんていないよ」
〈つづく〉
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