【小説】ある駅のジュース専門店 第3話「ハンカチ」
もう、あの家になんか帰らない。どこか遠くへ行きたい。少女は心の中でそう言い聞かせながら、荷物を詰め込んだ鞄を抱えて電車に揺られていた。
彼女は親と些細な事で喧嘩をしてしまい、家を飛び出して夜の駅まで歩き、切符を買って電車に乗り込んだのだった。
知らない駅の名前がアナウンスされ、知らない人達が降りていき、扉が閉まって電車が動き出し、知らない街の夜景が流れていく。少し不思議な気分だったが、窮屈なあの家から離れられたことで、少し満足していた。
しばらくして、窓越しに見える夜景の明かりが少しずつ減っていくと、少女の心の中にも一抹の不安が芽生え始める。こんなに遠い所まで来て、本当に大丈夫なんだろうか。いや、もう決めたんだ。たまには全く知らない場所に行ってみるのも良いじゃないか。少女は不安を払拭するように首を振り、窓の外を眺めていた。
すると、車内にアナウンスが響き渡る。
「ご乗車ありがとうございます。間もなく、⬛︎⬛︎……⬛︎⬛︎です。お出口は、左側です」
え? 少女は思わずスピーカーの方を見上げた。駅名が告げられる瞬間、二回とも、ノイズのような雑音が入ってよく聞き取れなかった。なんて言ったんだろうと首を傾げている間に、電車は駅に到着した。
いつの間にか、車内の乗客は一人だけになっていた。ここで良いか、と少女は席を立ち、電車を降りた。
虫の声が響くその駅に、人の気配は全く無かった。改札は開いたまま壊れていて切符が入らない。少女はため息を吐き、改札をそのまま通り過ぎて構内に入った。
売店やコンビニで何か買おうと思っていたが、どの店も閉まっているらしい。一軒くらい開いてないかな、と立ち並ぶシャッターを見て回っていると、前方に明るいネオン看板が見えた。
「開いてる……!」
駆け寄ってみれば、店内の照明は怪しげなピンク色。看板を確認しても、奇妙な文字ばかりで読めない。店の入り口で入ろうか迷っている少女の耳に飛び込んできたのは、「いらっしゃいませー」という気怠げな声だった。
「! あ、あの……」
「どうぞ、入ってください。お客さん、随分とお疲れみたいなんで」
店の奥から出てきた店員は中性的で美しく、赤いシャツに黒いエプロン姿で、黒いマスクを付けていた。少女はその店員に案内されて、カウンター席に着いた。
店内には果実のような、甘い香りが漂っている。
「あの、店員さん。ここって……」
何屋さんなんですか、と訊く前に、店員が答えた。
「あー、うちの店、ジュース屋なんですよ。ストロベリーソーダとラズベリーソーダ売ってるんですけど、なんか飲みます?」
「え、あ……じゃあ、ラズベリーソーダお願いします」
「かしこまりました」
店員は手際良く、容器にジュースを注ぎ始める。そのルビーのような赤色と、店員の端麗な顔立ちに、少女は思わず見惚れていた。
「お客さん。どうしてこんな夜中にここまで来たんですか?」
ぼんやり眺めているところをいきなり話しかけられたので、びくりと肩を震わせる。
「あ、え、えっと……あの、実は私……」
家出してきちゃって、と言うと、店員は「あぁ、そうだったんですね」と床に置いた鞄を一瞥する。
「重たそうですね、それ」
「どこかに泊まるつもりで来たので……いろいろ、詰め込んじゃって」
「あぁ、泊まるつもりで……でもここ、周りにホテルとか何も無いですよ」
「え、そうなんだ……じゃあ最悪、この駅に泊まろっかな……すみません、あまりにも計画してなさ過ぎですよね」
少女は笑い混じりに言ってみせた。
「駅に泊まるんなら、帰った方がマシなんじゃないですか?」
「そ、それは、そうなんですけど……なんか、帰るの、嫌だなって」
「まぁ、そりゃそうですよね。はい、ご注文のラズベリーソーダです。どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
少女は容器を受け取って、ストローに口を付けた。口の中でしゅわしゅわと溶けていくソーダを追って、ラズベリーの風味が香る。少女が美味しい、と呟くのを聞いて、店員は「良かったです、気に入ってもらえて」と目を細めた。
「お会計、お願いします」
「五百円です」
会計を済ませると、少女は店員に尋ねた。
「あの、店員さん……次の電車って、いつ来ますか」
「電車? あー、今日はもう終電出ちゃったんですよ。どうします?」
「うーん……やっぱり、ここに居ようかな」
「良いんですか? それで」
「……うん」
少女は下を向いて少し考えた後、頷いた。だって、帰らないと決めて来たんだから。
「本当に?」
不意に、耳元で声がした。はっとして顔を上げると、つい先程までカウンターにいたはずの店員が、すぐ後ろに立っている。
「え……あ、あの」
「ここにいたら二度と帰れませんけど……本当に良いの?」
耳に息がかかりそうなほど近くで、艶めかしい声が惑わすように囁いてくる。なんだか急に恐ろしくなって、少女は店員から距離を取った。
「やっ……やっぱり、帰ります!」
「……終電過ぎてるのに?」
店員の言葉に、ああそうだった、と肩を落とす。
「大変ですよね、何も計画しないで家出してきちゃうと。まぁ……悪くないんじゃないですか? この店で一生を終えるっていうのも」
「……え? ま、待って、何言って……」
「だってお客さん。家に帰りたくないからここに来たんじゃないんですか? 今更帰りたいって言われてもねぇ……私だって、貴女を帰すつもりなんて無かったんで……もう遅いと思いますよ?」
気怠げな口調に楽しげな笑いが混じる。どういうこと、と震えた声で言うと、店員は目を細めたまま視線を逸らし、少女の後ろを見た。
振り向いた少女の目に映ったのは、店の入り口。いつの間にかシャッターが閉じられている。客がまだ店内にいるのに、まるで退路を断つかのように。
「……え」
絶句する彼女の背後から、細い指が両肩を強く掴んで、再び妖艶な声が耳元に絡みついてきて。
「すみませんね、お客さんに非は全く無いんですけど……最近、空腹が続いてて」
振り解こうとしても、身体が硬直して全く動かない。
「そんなに怖がらなくても大丈夫ですよ。痛くしないんで……貴女も嫌いな家に帰らなくて済むし、私も新鮮な栄養が摂れるし、一石二鳥だと思うんですけど……どう思います?」
耳の奥へと流し込まれる言葉を聞いているうちに、少女はだんだん何も考えられなくなっていった。まるで眠りに落ちていくように、ただひたすらに心地良い。もう、どうなっても良いとさえ思ってしまう。
「あぁそうですか、良かった。じゃあ、遠慮なく……いただきます」
辺りに漂う甘い香りがむせ返るほどに強くなり、とうとう少女は床に倒れ込んだ。
店員は少女の服のポケットから花柄のハンカチを抜き取り、カウンターの隅に置かれたかごに投げ入れた。それから少女を引きずってバックヤードに続く扉を開けると、歩きながら口元に手を掛け、黒いマスクを外す。
満足そうに歪む薄い唇の奥から、唾液に濡れた鋭い牙が覗いていた。
〈おしまい〉