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【小説】ある駅のジュース専門店 第50話「約束の日②」

誠一せいいちくん。久しぶり」
 サラセはそう言って笑みを深めた。窓から差し込んだ日光に照らされ、口元の赤い網目模様がいっそう鮮やかに映る。
「な……なんで……お前が」
 震える声で問えば、「だって約束しただろ?」と言われる。
「私の噂を広めたら、お望み通り喰ってやるって。噂を広めてくれた礼も言いたいから来ちまったわ。じゃあ……さっそく、約束を果たしてやらねぇとな」
 父を喰った化け物が、こちらに足を踏み出す。
「ま、待ってくれ!」
 思わず叫んでいた。
「あ? 何だよ」
「も、もう少しだけ、待ってくれ」
「喰われたいんじゃなかったの?」
「あの時は確かにそう言ったが……気が、変わった。もう少しだけ生きたいんだ。まさかここでお前が来るとは思ってなかった、から……」
「…………は?」
 サラセの眉間に皺が寄った。
「話が違うな。こっちはお前の注文に応えようと思ってわざわざ伺ったんですが?」
 薄い唇の奥から聞こえる低音に気圧けおされ、何も答えられない。
 「じゃあお前……約束果たす気は本当に、全く、無いんだな?」
 切れ長の目がこちらを見据える。一瞬、かつて自分がこの化け物に頼んだ言葉が脳裏に浮かぶ。だが、真摯に話を聞いてくれた二人の大学生の姿も浮かんでくる。あの二人がこいつの正体に迫ろうと調べてくれているのに。もしかしたらそこで、私も知らない新しい事実が分かるかもしれないのに。今自分が死んだら、この調査の行く末を見届けられない。こいつがどうして人喰いの化け物になったのかも、どうして駅を建てて店を開いたのかも、よく分からないまま終わってしまう。
「ああ……無いよ。お前に喰われる気は、無い」
 私はサラセをまっすぐに見つめ返した。
「……あっそう。お前のことは誠実な奴だって信じてたんだけど……勘違いしてたみたいだわ。はは、やっぱり自分勝手な奴らだな。人間ってのは」
 薄い唇の奥から、乾いた笑いが聞こえた。
「教えてやるよ。なんで私が人間を喰ってんのか。知りたいんだろ?」
「! あ……ああ」
 サラセはさらに口角を上げ、滔々とうとうと語り出した。
「最初はお前らにただただ感謝してた。私にたっぷり水をくれたし、鬱陶しいアブラムシも取ってくれた。そのおかげで長生きできてる。お前らと関われたのは良かったと思ってるよ」
 切れ長の瞳が伏せられる。どこか寂しそうに見えた。
「でも……この家の人間が出かけてる間、金儲けのために私の葉を切り落とそうとした馬鹿がいた。せっかく伸ばした葉を台無しにされそうになったから腹が立って、そいつを葉の中に放り込んでやった。その時気づいた。人間も虫と同じように喰えるんだって。ちゃんと養分になるんだって」
 吐き捨てるような口調だった。
「それから虫よりも人間を喰うことが多くなった。だって、食い物二つのうちどっちか選ぶんなら、できるだけ栄養が多く摂れる方を食いたいだろ? お前らは虫よりデカいから、良い餌になるんだよ」
 ああ、やはりこいつは。
「どうとでも言いな。化け物とでも、鬼とでも、悪魔とでも。良いよ。もう私は虫だけを溶かすサラセニアじゃねぇんだから」
 そいつは愉悦そうに言った。
「お前らには感謝してるけど……その分、期待を裏切られることも多かった。葉に傷を付けたり、代金を払わなかったり、デタラメな噂を流したり……一度した約束を、そっちの都合で簡単に破ったり。だからこっちも喰いたいように喰ってやってるんだよ。自分勝手で面白いタンパク質どもをな」
 気がつけば、サラセの顔が鼻先まで迫っていた。
「これでもう満足したか?」
 目を見開いた瞬間、手首を掴まれて引き寄せられる。逃げようとしたが体が固まって動かない。背中に化け物の腕が回され、きつくきつく抱きしめられる。
「そんなに怖がるなよ。一緒に育ってきた仲だろ」
 耳元で低く囁かれる。甘ったるい香りが鼻の奥になだれ込んでくる。まともに喋ることもできずうめき声を上げる。化け物の声が嗤う。
「安心しな。お前のことは大好きだから、時間をかけてゆっくり溶かしてやる。あぁ、楽しみだなぁ……がっつきすぎねぇように気をつけないと。ふふふふ」
 白い紐のようなものが床から伸びてくる。足に、腰に、腕に、巻き付く。ぎりぎりと締め付けてくる。体が下へ下へと引っ張られる。
「ぅ……ぐ、ぅううう……」
 必死に踏ん張ってみるが、足首を白い触手に絡め取られてしまう。体中の力が抜けていく。視界がだんだん霞んでいく。
「じゃあな、誠一くん。愛してるよ」
 生ぬるい吐息とともに流し込まれたその台詞が、意識を失う寸前まで、やけにはっきりと、耳の奥底に響いていた。


「……遅いね」
 俺の隣で井田いだが呟く。
 アルバムを取りに行くためリビングを出て行った玉村たまむらさんは、それから二十分経っても戻ってきていなかった。
「そうだな。たぶん、アルバムなかなか見つからないんだろ」
「うーん……それもあると思うけど、もしかしたら、具合悪くなってるのかも」
「え?」
「ほら、玉村さん、これまでずっと喋ってたでしょ? お茶もあんまり減ってないし……」
「ほんとだ」
「もしもアルバムすぐ見つけて戻ろうと思ってて、この暑さの中、部屋のクーラー付けずに探してたとしたら……」
「……! み、見に行った方が良いよな、これ」
「う、うん。行こう」
 俺たちは座布団から立ち上がり、リビングを出た。
 辺りを見回すと、ひとつだけ扉が半開きになっている部屋があった。たぶんここだ。駆け寄って中を覗き込む。
「玉村さん?」
 ふわりと甘い香りが鼻をくすぐった。玉村さんはいない。開け放たれたクローゼットのそばに、鞄や昔の玩具がみっちり詰まった段ボール箱と、開かれたアルバムがあった。
「あ、アルバムあるじゃん」
「玉村さんは?」
「他にも見せたいものがあって探してるとか?」
「でも、何も物音しないよ」
 そう言われて耳をすませてみる。聞こえてくるのは時計の秒針の音と、家の外から響く蝉の声と、アスファルトを踏みしめる誰かの足音だけ。
「確かに何かを探してる音しないな……玉村さん、どこ行ったんだ?」
「うーん……」
 井田は考え込みながら部屋を見回し、窓の方へ何気なく視線を向けて、その目を大きく見開いた。
「どうした?」
那生なお、あれ」
 窓に近づき、井田が指差す先を見る。家から数メートル離れたところに、真っ赤なシャツと黒いスラックスの人物が悠々と歩いていくのが見えた。猛暑だというのに上下長袖の服。すっと通った鼻筋。そして、遠くからでもよく目立つ、口元の赤い網目模様。
「サラセさん……⁉︎ なんでここに来てんだよ」
「あ……もしかして、約束……」
「約束?」
「さっき玉村さんが話してた。前にサラセさんと会った時、食べてほしいって頼んでしまったって。そしたら確か、店の噂を広めたら食べてやるって言われて……」
「ああ、言ってたな……それを信じて、ブログに体験談を書いたって……え? じゃあ、サラセさんは、玉村さんを喰いに来たってことか?」
「たぶん……」
「それにしては家からどんどん離れていってるように見え…………まさか」
 胸騒ぎがした。
「あいつ……! おい、行くぞ」
「え……でも、武器とか何も」
「今は何も考えるな! とにかく行くぞ!」
 俺は井田の腕を掴み、玄関へと走った。

「おい待て!」
 家から飛び出し、肩で息をしながら叫ぶ。ゆったりと歩いていたサラセさんが、足を止める。
「久しぶり。元気そうで何よりだわ」
 振り向いた顔には、不敵な笑みが浮かんでいた。
「で、ご用件は?」
「お前……何しに来たんだ」
 精いっぱい睨みつけるが、憎らしい笑みは崩れない。
「別に? 私はただ、約束を果たしに来ただけ。お前らには何の関係も無い。気が済んだならさっさと帰りな。ママやパパが待ってるだろうから。じゃあ、私はこれで」
 まるで小さな子どもに話しかけるような口調で言うと、サラセさんはこちらに背を向け歩き出した。
「待て! まだ話終わってねぇぞ! 玉村さんをどこへやった!」
「さぁ? どこだろうな。まぁ、お前らにはもう分かってると思うけど」
 ふん、と鼻で笑われる。
「ついて来たいならついて来れば? 誠一くんに会わせてやってもいいよ」
 サラセさんの歩みが少し早くなった。俺たちからどんどん離れていく。
「テメェ……待てっ、この……!」
 思わず足を踏み出した途端、後ろから腕を掴まれた。
「! 井田……」
「那生、ダメだよ。落ち着いて」
「なんでっ、このままじゃ玉村さんが……!」
「とにかく落ち着いて、聞いて。覚えてる? 前に八坂さんと一緒にあの駅に乗り込んで、サラセさんに食べられそうになったこと」
「……あ、ああ。覚えてる」
「あの時はギリギリのところでおさえさまに助けてもらったから、無事に帰って来られたよね。でも今、玉村さんのことで僕たちは冷静じゃなくなってる。サラセさんからしたら今の状況はチャンスなんだよ。一度逃がした獲物が、また自分のところに来ようとしてくれてるんだから。自ら進んで」
 井田は、真剣な表情で言った。
「もし今サラセさんについて行ったら、またこっちに無事に帰って来られるか分からないよ。それでも良い?」
 体から力が抜けた。ゆっくりと息を吐く。
「……ダメ、だ……ほんと、ごめん。全然、そんなこと考えてなかった」
 もし井田の制止を振り切ってサラセさんと駅に行っていたら、俺は、間違いなく喰われてしまっていただろう。あの時と何も変わっていない。
「ごめんな。俺、いつもその時の感情で突っ走って、お前に迷惑かけてる。前にあの駅に行った時もそうだったし……」
「や、いいよ。だってそこが君の良いところでしょ。危なかったらこれからも止めるから」
 井田の返答に驚く。俺がすぐアクセルを踏んでしまうのをどう思っているか、彼の口から聞くのは初めてだった。心の奥が、なんだかじんわりと温かかった。
「今は焦らずに、ゆっくり出方を考えよう」
「ああ。ありがとな」
 蝉の声が一段と大きくなった。サラセさんの姿はもう無かった。
 サラセさんはたぶんあの駅で、俺たちが来るのをじっと待っているだろう。それでも、井田が一緒に準備して乗り込んでくれるのなら、何があっても平気な気がする。
 俺たちは家の中に戻り、少しだけ残っていたお茶を飲み干した。そして白淵市しらぶちしに向かう電車に乗るため、元来た道を戻っていった。

                〈おしまい〉

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