【小説】ある駅のジュース専門店 第38話「腕時計」
人のまばらな電車に乗り込むと、男は座席に全身を預けた。発車ベルが鳴り、ドアが閉まる。電車はゆっくりと走り出した。
左腕の時計に目をやれば、午後十時。家に帰ったらミックスナッツを肴にビールを飲んで、録画していた番組を観たい。だが明日も仕事だ。軽くシャワーでも浴びてすぐに眠りにつくのが最善だろう。そう考えながら、流れていく夜景をぼんやりと眺めていた。
「ご乗車ありがとうございます。次は、⬛︎⬛︎……⬛︎⬛︎です」
激しいノイズの入ったアナウンスにびくりとする。駅名の部分が全く聞き取れなかった。
路線図で駅名を見ようと顔を上げれば、先程まで家々の明かりが煌めいていた窓の外が、まるで墨で塗り潰したような黒一色になっている。自分の座席側の窓に振り向いて目を凝らしても、街灯の明かり一つ見当たらない。
「間もなく、⬛︎⬛︎……⬛︎⬛︎です。お出口は、左側です」
再びノイズ混じりのアナウンスが響く。眉をひそめながら、視界に入った腕時計を何気なく確認して、目を見張った。
午前零時。電車に乗ってから十分ほど経った感覚でいたが、いつの間に二時間も経っていたのだろうか。いや、そんなはずはない。居眠りをした訳でもないのに、二時間がほんの十分ほどに感じられるのはおかしい。彼はますます混乱した。
やがて、電車が駅に停まった。扉が開くと虫の声が聞こえる。背の高い雑草が揺れるホームの向こうに、暗闇でも際立つ真っ白な駅舎が佇んでいる。このまま電車に乗っているのが不安だったので、男はその駅で降りることにした。
零時四分。ホームに降りると生温かい風が肌を撫でた。駅舎の屋根の下でぼんやりと光る看板には、漢字らしきものが三つ書かれており、一番右側の文字は「駅」と読める。だが、他の二つはぐねぐねと折れ曲がった複雑な形をしていて、実在する漢字とはとても思えない。
「なんだあれ……」
駅の入り口に近づいてみると、改札の扉の部分が全て外れて床に散乱していた。これでは切符が無くても誰でも駅に入れてしまう。
「どうなってんだ、ここ……」
異様な光景に思わず呟く。読めない駅名に開いたまま壊れた改札。どう考えてもまともな駅ではない。男はだんだん不安になってきた。とにかく体を動かしていないと落ち着かなかった。
床に散らばる扉の部分を跨ぎ、改札を抜ける。
青白い蛍光灯に照らされた駅の構内は、ブレーカーの音が聞こえるほどにしんと静まり返っていた。通路の両側に店が並び、売店やレストランの看板も出ている。しかし、どの店にもシャッターが下りている。
ただ、通路の奥、向かって右側に一軒だけ開いている店があった。薄暗い構内で輝くピンクや紫や水色のネオン看板。こちらも入り口で見た看板と似たようなぐにゃぐにゃとした字で、何の店なのか全く分からない。男は興味を惹かれ、店内を覗き込んでみた。
ピンクと紫の照明で照らされた店内には、果実のような甘い香りが漂っていた。黒いカウンターと色とりどりのカウンターチェアがある。カウンターの向こうのシンクにプラスチック製の容器が重ねて置かれている。飲み物を入れるカップだと思ったその時、奥の扉が音を立てて開いた。
「いらっしゃいませー」
背の高い店員が出てきて、気怠げな口調で言う。ウルフカットの黒髪を片耳にかけ、そこから小さな金色のフープピアスが覗く。赤いシャツに黒いネクタイを合わせ、黒いエプロン、黒いズボン、黒い革靴を身につけている。口元は黒いマスクで隠されている。
「あ……すいません。ここって、何屋さんですか?」
「うちですか? ジュース屋です」
店員はカウンターに入ってプラスチックのカップを手に取った。少し低めの声や肩幅の広さは男性のようだが、細く白い指や喉の突起の無さから女性にも見える。
「お客さん、なんか飲んでいきます?」
問われた瞬間、喉の奥が乾燥しているのに気づく。甘い香りが一層濃くなった。
「は、はい。お願いします」
「ではこちらへ」
男は促されるままカウンターチェアに座った。
「ラズベリーソーダとストロベリーソーダがありますけど、どっちにします?」
「うーん……じゃ、ストロベリーソーダで」
男は明るく答えた。見知らぬ駅に迷い込んでしまい不安だったが、一軒だけ開いていたこの店で人と話せたことで、少し肩の力が抜けていた。
「かしこまりました」
店員は淡々と答え、プラスチックのカップにジュースを注ぎ始めた。
ぼんやりと店内を眺めていると、ふと、カウンターの端に置かれた小さなかごが目に入った。かごの中にはお守りが一つ。薄緑の布地に「旅行安全」の文字が刺繍されたそれは、見覚えのあるデザインだった。
「あの。これって、開戸神社のやつ……ですよね。笠岐の」
男の問いかけに、店員が顔を上げる。
「……お客さん、よくご存知なんですね」
「はい。前に調べたことがあって……」
「へぇ……神社巡りとかされてるんですか?」
えっ、と男は声を漏らした。店員の言う通り、全国の神社を巡るのが趣味だったからだ。
「すごっ……なんで、分かったんですか」
「顔に書いてあったんで」
「そ、そうですかね……」
男は照れ臭そうに笑った。
「それでこの、開戸神社のお守り……店員さんが買ってきたんですか?」
「いえ。知り合いにもらったんですけど、いらなかったんですよ。だからお土産にして、お客さんに持ってってもらおうと」
「え? 自分がもらったお守りを人にあげるのって、あんま良くなさそうじゃないですか? ご利益のあるものだし……」
「良いんです。いらないんですよ、ほんとに。こんなもの」
店員の眉間に皺が寄った。男は慌てて言う。
「あ、あ……すいません。いらないのに押し付けられちゃった、みたいな感じだったんですね」
「ええ。ほんとに迷惑な話で……すみません。少し愚痴っちゃって」
「いえいえ! 誰にだってありますよ、嫌なことなんて」
店員は申し訳なさそうに頭を下げ、出来上がったジュースを男に手渡した。
「ご注文のストロベリーソーダです。どうぞ」
「ありがとうございます」
ジュースの冷気がカップを通して手のひらに伝わってくる。ストローに口を付けて吸い上げると、甘酸っぱいイチゴの味が流れ込んできて、舌の上で弾ける炭酸と共に、喉の奥へ滑らかに入っていく。
「んっま……」
男が漏らした声に、店員は「ありがとうございます」と嬉しそうに答えた。
零時三十五分。カップがすっかり空になると、彼は店員に尋ねた。
「あの……電車って、いつ来ますか」
「電車? あー、今日はもう終電出ちゃったんですよ」
「え、もう出ちゃったんですか? どうしよう……もうこんな時間なのに……」
腕時計を気にする男の耳に、どこか楽しげな声が入り込んできた。
「じゃあ、ずっとここにいれば良いじゃないですか」
「……え? ず、ずっと?」
「ずっと」
店員の両目は、糸のように細められている。
「や……ちょ、冗談よしてくださいよ。仕事行かなきゃダメだし、帰らないと」
「帰る? どうやって? もう終電過ぎてるのに」
気怠げな口調に笑いが混じる。
「そ、それは……」
店の出入り口を振り返った男は、息を呑んだ。
シャッターが下りている。
「えっ、なんで……」
後ろから黒いマニキュアを塗った細い指が伸びて、両肩を掴む。ぎゅっと力を込められる。振り解こうにも体が全く動かせない。
「せっかく来たんだからゆっくりしてってくださいよ。どうせもう、電車なんて来ない」
耳に流し込まれるのは地を這うように低い声。鼻になだれ込むのは花のように甘い香り。
「な……何、何言って……は、離し……」
「離して欲しい? はは、そりゃあ無理だ。お前は腹の足しになりそうだからな。あぁ、なんなら非常食にしようか。ちょうど備蓄が減って困ってたんだ……タイミング良く来てくれて、ほんと、助かったわぁ」
腹の足し。非常食。どちらも自分のことを指している。男はそう悟った。
「な……なんだ、お前……いったい……」
「私?」
甘い香りが一層きつくなった。男が呻き声を上げ、ぐらりとうつむく。
「ただのジュース屋の店員ですぅ」
艶めかしい声が耳に絡みつく。店員は男を見下ろし、口元のマスクを外す。振り向いた男の目に映ったのは、頬いっぱいに広がった、血管のような網目模様。
「食欲が、人一倍旺盛なだけの」
照明に照らされて、白い牙がぎらりと光った。
「ぁ……」
突然床に突き飛ばされ、尻餅をついた。立ち上がろうとするが、もう体が言うことを聞かない。黒い革靴の先が、音を響かせてこちらに迫ってくる。
「や……やめ……げっほっ、ごほっ、ぐぅっ」
濃厚な甘い香りがむせ返るほどに満ちる。頭痛。息苦しさ。鼓動の加速。激しい眩暈。
「あぁあ……っ」
床に頭を打ちつける。男はもう何も喋れなくなった。
薄れゆく意識の中、左腕から腕時計がするりと外されるのが分かった。視界の隅で揺れる銀色のベルトをぼんやりと見ながら、男は目を閉じていった。
〈おしまい〉