【小説】ある駅のジュース専門店 第42話「霊感」
気がつけば、都市伝説の紹介サイトが表示されたスマホの画面がすぐ目の前にあった。どうやらスマホを持ったまま、前傾姿勢で眠ってしまっていたらしい。バスの床に落ちそうになっていたスマホを持ち直し、運賃表を見やれば、降りるはずの停留所はとうに過ぎている。顔から血の気が引いていくのが分かった。
「次は、⬛︎⬛︎駅前。⬛︎⬛︎駅前」
ざざざざ、とアナウンスにノイズが混じる。耳障りなその音に顔をしかめながら、私は降車ボタンを押した。
窓の外は墨を塗りたくったような暗闇で、街灯の明かり一つ見当たらない。鏡と化した窓ガラスに私の姿が映っている。他に乗客はいない。乗った時は混んでいたから、みんな先に降りてしまったのだろう。
しばらくバスに揺られていると、急に背中を冷たい空気が這った。車内は暖房が効いているし、窓も閉まっているはず。だが、体温が確かに下がってきている。今までに何度か覚えたことのある、嫌な感覚だった。
私には霊感があるようで、幼い頃からよく「あちら側」の存在を感じ取っていた。寒気や耳鳴りといった形で気配を感じることもあれば、たまにはっきりと、その姿が見えてしまうこともある。下手に怖がってしまうと「あちら側」に気づかれて余計につけ込まれてしまうため、気付いていないふりをしてやり過ごしている。
今回は寒気だ。できれば降りたくない。でも、もう降車ボタンを押してしまった。バスが停まったら、運転手に降りないことを伝えよう。そう考えながら、暗い窓の外をぼんやりと眺めていた。
等間隔に並ぶ街灯の明かりが見えた。バスは明かりに導かれるように右に曲がり、広い駐車場へと入っていく。そして、闇の中で一際目立つ白い建物の近くに停まった。
「あの、すみません。ボタン、間違えて押しちゃったんです。そのまま行ってください」
扉が開いたタイミングで運転手に話しかけるが、返事がない。
「あ、あの」
再度呼びかけても何も返ってこないので、私は席を立って運転席に向かった。
「あの、間違えて押しちゃったんで……」
そこで言葉が途切れた。運転席はもぬけの殻だった。
「……え?」
寒気が増す。何が起こったのか分からず立ちすくんでいると、いきなり運転席側から肩を強く押される感覚。よろめき段差を転げ落ち、硬いアスファルトに倒れ込む。太ももが痛むのを堪えてスマホや財布を拾っているうち、ぷしゅーっと音がして、バスの扉が閉まった。
「え、え? ちょっと、何」
顔を上げ、ひどく錆びついた車体を見て、再び言葉を失う。バスはそのまま闇の中へ走り去っていった。
私は寒気に震えながら立ち上がった。駐車場の奥に、真っ白な建物が見える。平たい屋根の下から蛍光看板が垂れ下がり、不規則に点滅している。看板に書かれている三つの文字は漢字のようだが、ぐねぐねと折れ曲がった見たこともない奇妙な形をしていて、一番右端の「駅」という文字以外読むことができなかった。
ふと、都市伝説の紹介サイトに書かれていた『ある駅のジュース専門店』なる都市伝説を思い出す。「駅名は文字化けのような奇妙な漢字二文字」——あの看板の文字と、合致している。
即座に後ずさった。寒気が治らないのを不思議に思っていたが、そもそもここは人が来てはいけない場所だったのだ。
こんな得体の知れないところに長居などできない。バスを待って帰ろう。そう決めて駐車場に留まっていたのだが、しばらくすると、どこからか甘い香りが漂ってきた。イチゴのような甘い香り。良い香りだなと感じているうち、急激に喉が渇いてきた。鞄を漁っても水筒は既に空っぽだし、バスを待つ途中で買ったペットボトルの水も、もう飲み干してゴミ箱に捨てている。自動販売機を探してみるが、辺りは背の高い雑草が生えているばかりで何も見当たらない。
駅の入り口に近づくと、甘い香りがより濃くなって、鼻の奥に潜り込んでくる。なんとなく、駅の中なら何か美味しい飲み物があるような気がした。そう思ってしまうほど、喉がからからに渇いていた。
虫の声が響く中、私は駅舎の中に足を踏み入れた。
しんと静まり返った構内は、電気がついているのに薄暗かった。天井の蛍光灯がじじじと音を立てながら頼りなく光っている。その音を、ブレーカーの唸り声が掻き消していく。
通路の両側にお店が立ち並んでいるが、どれも錆びついたシャッターが下ろされている。まるでやむなく閉業してしまった商店街のようだ。ふとこの風景の中を一人きりで歩いていることに気づき、心細くなる。
通路の中ほどまで進んできた時、前方に鮮やかなネオン看板が見えた。ピンク、紫、水色、オレンジ。色とりどりの光はシャッター街に似つかわしくないと感じるほど明るい。看板の文字は文字化けみたいで読めないが、その眩しさに少し安心感を覚えた。
ネオン看板を掲げているのは、怪しげなピンクの照明がついた店。中に黒いカウンターとカラフルな椅子がある。奥の壁には一枚の扉がある。おそらくバックヤードへと続いているのだろう。
「すみませーん」
喉の渇きに耐えきれずに呼びかけると、扉の奥から気怠げな声がした。
「はい」
ドアノブが回る。
「いらっしゃいませー」
扉の奥から出てきたのは、長身の店員だった。赤いシャツに黒いネクタイ、黒いズボン、黒いギャルソンエプロン、黒い革靴を身につけている。ウルフカットの黒髪を片耳に掛け、そこから金のピアスが覗く。口元は黒いマスクで見えないが、切れ長の瞳から美しい顔立ちが想像できる。これでただの美しい店員だったならどんなに良かっただろうか。
店員が出てきた瞬間、冷気が身体を突き抜けていった。「あちら側」の姿が見えた時はいつもこうなる。この店員はきっと人ではないのだ。
だが、いつもより寒気が強い。今まで感じたこともない、まるで冷蔵庫の中にいるような寒さ。ひょっとして幽霊でもないかもしれないと思った瞬間、急に怖くなった。もし人でも幽霊でもないなら、この店員はいったい、何なんだろう。
「何だと思います?」
びくりと身を震わせる。店員は私を興味深そうに見つめていた。
「え……」
思わず声を漏らしてしまい、慌てて下を向く。こういう類には反応してはいけない。口をきいてはいけない。怖がってはいけない。
「怖いくせに」
右耳に低い声が響く。いつの間にか店員がすぐ真横に移動していた。甘い香りが鼻の奥になだれ込んでくる。もう顔を上げられない。
「なぁ、私のこと何だと思ってんだよ。おい」
地を這うような低い声が鼓膜に流し込まれる。答えないと殺されそうだが、返事をしても殺されそうな気がする。考えを巡らせていると、都市伝説の紹介サイトの内容が脳裏をよぎる。一瞬、建てられるはずだった駅の化身かと思ったが、気配からして付喪神の類ではない。もっと生物に近くて、それでいて人間ではない、何か。
恐る恐る横目で店員を見ると、試すような瞳が楽しげに細められた。肌が粟立つ。なんとか状況を打開できそうな方法を探す。
そうだ、お経。この店員が何者なのかは分からないが、お経を唱えれば何かしらの効果があるかもしれない。震える唇を必死に動かし、とりあえず般若心経やら不動明王の真言やら知っている限りのお経を唱えてみる。しかし、店員は離れるどころか左肩に手を回してきた。
「そんなの効く訳ねぇだろ。ばぁか」
耳元で嘲笑われる。もうこのまま殺されるんじゃないかと思うと喉元から熱いものが込み上げてきて、下まぶたに滲み出す。小さくしゃくり上げ始める。
「ふふ、面白いから非常食にでもしようかと思ったけど……やっぱやめるわ。お前は私のこと、他の奴よりよーく分かってくれてるみたいだし」
左肩に回されていた腕が後頭部に伸びて、髪を撫でた。完全に揶揄われている。
「まぁ……ここでジュース飲んで、うちの店のこと、ちゃんと宣伝してくれたら見逃してやるよ。前来た奴みたいに、ここに建つはずだった駅が人間に恨み持って〜とかいい加減なデマ流したら許さねぇけど……そんなこと絶対しないよな?」
必死に繰り返し頷く。店員は再び目を細め、ようやく私から離れていった。
「じゃあ、疲れてるでしょうしなんか飲みましょうか。お客さん」
カウンター越しにそう話しかけられる。私はもう、力なく頷くしかなかった。
半ば強制的にカウンター席に座らされた後、ラズベリーソーダを注文した。店内を見回していると、カウンターの隅に腕時計やハンカチなど、たくさんの品物が入れられたかごを見つけた。プリクラの写真とともにケースに入れられた、最新機種のスマホまで入っている。椅子から降りてかごに近づいた瞬間、ジュースを作っていた店員と目が合った。
「あぁそれ、お土産です。全部無料なんで、良かったらおひとつどうですか?」
「あ……え、遠慮、しておきます」
この「お土産」が全て誰かの持ち物だということに気づいたので、きっぱりと断った。店員は不服そうに眉をひそめ、「そうですか」と言ってジュースの方に顔を戻した。
「最近お客さんがよく来てくれるようになったんで、溜まっちゃって困ってるんですよね。ひとつでも持って帰ってくれたら助かったんですけど」
やはり店に来た人々のものだったらしい。いったいどうやって集めたのかは怖くて聞けなかった。
しばらくして、出来上がったラズベリーソーダが眼前に置かれた。何か入っているのではないかと思ってなかなか飲めずにいたが、鼻をくすぐる甘い香りに我慢できなくなって、とうとうストローに口を付けた。
「ん……美味しい」
渇いた喉をしゅわしゅわした炭酸と甘酸っぱいラズベリーが潤していく。あっという間に飲み干してしまい、ゆっくりと息を吐く。店員と出会った時は恐ろしくてたまらなかったのに、今は美味しいジュースが飲めたことで幸福感すら感じ始めていた。
席を立ち、五百円を払って店を出ようとすると、「あの」と店員から呼び止められる。
「SNSでうちの店のこと、広めてくださいね。私と会った時に貴女がどう感じたかも、ちゃんと書いといてください。後で読むんで」
こちらを見つめる切れ長の瞳は、逆らえば許さないと言わんばかりの鋭い冷気を纏っていた。
「……は、はい」
私が頷くのを見て、店員の目が満足そうに細められた。もう一刻も早くここを離れたかったので、軽く一礼し、早足で駅の入り口まで戻っていった。
その後、私は駐車場に戻ってバスを待った。そしてやって来たバスに乗り、無事に自宅に帰ることができた。
しかし、自宅に戻ってきてもまだ安心はできなかった。ずっと誰かに見られているような感覚がする。きっとあの店員だろう。あのジュース屋のことをSNSに投稿するまで、どこからか私を見張っているのだ。
私は鞄からスマホを出し、SNSを開いて文章を打ち込んだ。
「今日バスに乗ってたら降りるバス停を乗り過ごしてしまい、変な駅に迷い込んでしまった。駅の中にはネオン看板をつけた派手なお店があったんだけど、そこの店員さんを見た時にすごい寒気がして。あっこれ人間でも幽霊でもないなって感じて、すごく怖かった」
駅に迷い込んでからジュースを飲んで自宅に帰るまでのことを詳しく書いて投稿すると、誰かに見られている感覚がふっと消えた。
「はぁ……良かった……」
全身の力が抜けていく。倒れ込んだベッドの上で、私はようやく安堵の息を吐いたのだった。
〈おしまい〉