言葉にこもる熱量について
自分たちのやっていることを心から好きと思っているかどうかって
図らずとも言葉にこもる熱量で伝わるものだ。
そんなことを思う。
そう思うと私がいま語っているものは
それだけの熱量を乗せて語れているだろうか。
熱量が乗る時には必ず人の息遣いが聞こえるものだ。
もしくは手触り感とも言おうか。
世の中の芸術作品が心を打つのは何故だろうか。
それはきっと、その人たちがその言葉や音、筆使いなどに込めた熱量を感じるからだろう。
今日、会社の廊下を歩きながらふと考えた。
なんならここ最近毎日考えているのだけど、
私が大好きな歌をあまり歌わなくなってしまったのは何でだろう。
大好きだったお絵かきをしなくなったのは何でだろう、と。
答えは分かり切っていて、
上手じゃないって感じた経験がそうさせているんだ。
でも、上手って言われている人たちは
とても努力をしていることも知っている。
でいて、そのものを大好きであることも。
だから私は自分の思いがそこまでではない気がして
気が引けて、諦める方に努力の力を向けたりなんかしちゃうんだ。
でも、きっと好きなことを語っているときの
私の言葉には熱量がこもっているはずだ。
今日、仕事で文章を書く機会があった。
それが何であれ、やっぱり魅力を発信するための文章を書くのが大好きで、
何より楽しい、そんな風に思ったんだ。
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