モスクワの日々
1917年11月7日の十月革命(ロシア革命)から内戦を経て、1922年12月30日に成立したソビエト連邦。69年後の1991年12月25日に崩壊し、連邦は解体。それぞれの連邦内国家が独立し、ロシア連邦を中心とするCISという緩やかな国家同盟に移行した。アメリカに対峙し続けた大国の崩壊により、それまでの冷戦構造は収束し、米国一強時代が幕をあけた。ソ連の崩壊には様々な要因があるが、共産主義体制の持つ矛盾の中での国民の生活のストレスが限界に達していた、というのが実態に近いと思われる。「国民が皆聖人君子なら社会主義も悪くない」と、皮肉を込めて語られるとおり、共産主義という名の下に、実際は理不尽な不自由と格差社会が続いていたのであろう。
体制崩壊直後のロシアでは、当然ながら様々なシステムが機能不全に陥り、経済は混乱。治安は悪化の一途をたどっていた。
私が、航空会社の駐在員としてモスクワに着任したのは、1992年の10月。この人事異動は、まったく想定外の出来事であり、ろくに準備もしないままにとりあえず単身で赴任。やがて身重の妻を日本から呼び寄せた。
その後、臨月直前で妻は一時帰国し、川口の実家で無事に長男を産み、その子の首が座るのを待ってモスクワに戻ってきた。物資の調達も安定せず、治安も悪い中での、家族3人の生活は決して楽しいことばかりではなかった。特に1993年に反エリツィン派が最高会議ビルを占拠し、エリツィン側が兵力を動員して砲撃を開始し、市内が実質的な戒厳令下に置かれた時には、とりあえず妻と子の一泊分の荷物をスーツケースに詰め、どこかの西側の国に一時避難させることも考えた。
ソ連時代の名残で、当時のモスクワでは、外国人が暮らす居住区は限定され、自由にアパートを探す事は禁止されていた。しかも、外国人用の部屋は盗聴されているという噂がまことしやかに囁かれ、決して住みやすい街ではなく、欧米の他の都市に駐在する友人達が心底羨ましかった。それでも長い冬には、ボリショイバレエやコンサート、サーカスなどを鑑賞し、白夜の夏には郊外の公園で遊び、それなりに楽しみも見い出していった。
住めば都、サラリーマンはこう思えれば楽になる。
【2019年(令和元年)7月26日】
ナツは6月25日に26歳になりました。
モスクワのシェルメチボ空港で仕事していた私に、長男誕生の第一報は可搬(無線機=ウオ―キー・トーキー)で届きました。当時はまだ携帯電話が無く、お義父さんより会社宛てに電話があり、たまたま受呼した先輩が業務用無線回線で伝えてくれたわけです。「業務用回線の私用」今だったらきっとお咎め物でしょうね(笑)。
当時のモスクワは治安もあまり良くなく、物資も乏しくて、日本食レストランは市内でわずか3軒。ようやく西側食文化の象徴「マクドナルド1号店」ができて、ハンバーガーを求めて人々が長蛇の列をなしていました。在留邦人の多くは、漸く訪れた「自由主義」が、世の中の混乱と無秩序を引き起こしたことを恨み、統制のとれた安全な「社会主義ソビエト」の時代を懐かしむというなんとも不思議な時代でした。
私も着任した翌日に、車のガラスが割られ車上荒らしに遭い、その後も事務所が爆破されたり、同僚が拳銃つきつけらたり、社用車が複数台盗まれたりと、当時のモスクワはなんでもありの無法地帯でした。 そんな剣呑な街での生活は、妻が身重だったこともあり、けっこう緊張感漂うものでした。何といっても言葉がまったく通じないわけです。赴任が決まって、在留ビザ待ちの期間に20時間ほど東京でロシア語のレッスンを受けましたが、まったく使いものにならず、買い物するにも、車に給油するにも必死の手ぶり身振りで意思疎通せねばなりません。
もっとも困ったのは運転中に「ガイィ」と呼ばれる交通警察にとめられる時です。日本でもそういう時は緊張しますよね。言葉も通じない国で、何を違反したのかもわからない状況下で、怖い顔のお巡りさんから一方的に話しかけられるのですから、なんとも不気味な思いをしました。
ソ連時代から、西側諸国からの駐在員は住むアパートも区別され、車のナンバーも国ごと、職業ごとに区別されていました。例えば日本の民間企業の場合は「M005」で始まるナンバーを付けなくてはなりません。Mが民間企業を、005は日本を表す記号です。街を走る車がどの国のどんな業種の者が乗ってるか一目でわかるシステムです。さすがソ連ですね。
日本人は従順でものわかりがいい、というのはロシアでも一般的に知られているらしく、お巡りさんは特に違反もないのに私たちの車をとめます。特に12月はかなり頻繁にとめられます。それは日本製のカレンダーが欲しいからです。特に私の会社が制作していた「世界の美女カレンダー」はかの地で定番の人気商品で、フリーマーケットで高値で売買されているとの噂もありました。というわけでM005ナンバーの車は片っ端から止められ、その中でもプレミアものの美しいカレンダーを持ってる企業の駐在員は12月だけで10度以上もとめられ「カレンダーあるかい?」と尋ねられるはめになります。
最初のうちは、怖いやら鬱陶しいやらで車を運転するのが億劫になったものですが、だんだんこの街になれてくると、「カレンダーで警察に守ってもらえるなら安い物」と、小心者の私もちょっぴりポジティブな考え方になって行きました。
モスクワでの生活を振り返ると、珍事件や怪事件で辟易とした出来事が数えきれないほどあります。でも父さんと母さんが訪ねてきてれて、ドイツやオーストリアを良好したり、妻とナツをつれていろんな国を旅行したり、と楽しい想い出ももっとたくさんあります。今では町中の目抜き通りには高級ブティックが並び、お寿司屋さんをはじめ和食屋さんが数千軒もあり、当時とは全く違った街になったみたいです、一度再訪したいものです。
モスクワから札幌に転勤し、そこでユウが生まれました。寒い処からまた寒い処への引っ越しということで、辞令をもらった時はちょっとがっかりしました。でも、住んでみると札幌はとても良いところで、楽しく暮らすことができました。
転勤の度に引越すのは大変でしたが、ナツとユウが小さい頃に、家族でいろんな場所に住むことができたのはラッキーだったと思います。下関からだんだん離れてしまうので、父さんと母さんには寂しい思いをさせてしまいましたね。でも、二人の息子にとっては私の任地から夏休みやお正月に帰省しておじいちゃんやおばあちゃんと過ごすことは何よりの楽しみだったんですよ。
長男のナツはかろうじて父さんの個人タクシーを覚えてるそうです。運転席の父さんの膝の上に座り料金メーターをいじって遊んだと言っています。
今日はこれから羽田空港にお客さんの出迎えにいきます。九州一円、豪雨のようですが下関は大丈夫ですか?
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